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- 405 - ゲームは宿題が終わってから!
ゲームは宿題が終わってから! 岡山県在住 山﨑 石根 私には子どもが5人いるのですが、この春、小6になった4番目の三男はいわゆる天然キャラで、「おとぼけちゃん」なんです。うっかりした失敗が日常茶飯事なので、しょっちゅう私たち家族に笑いを届けてくれます。また、その反対に怒られてしまうこともしばしばです。 今年の夏休みのことです。我が家には、「夏休みの宿題を全部終わらせたら、ゲームをしてよい」というルールがあります。少し厳しいようですが、2年前の8月末に、大量に残っている宿題に深夜まで付き合わされた妻が下した鬼のミッションなのです。 今年も皆、7月中に宿題を終わらせようと一生懸命頑張りました。特に小6の三男と小4の妹は、7月末に4日間、母方の祖父母の家に泊まりに行き、「この期間に全部終わらせる」と意気込んでいました。 ところが、祖父母の家から戻った時に事件は起こったのです。仕事から帰った私が、ゲームをしている三男を見て、「宿題終わったんか?」と尋ねると、「全部終わった」と言います。「じゃあ、見せてごらん」と言うと、「妹に確認してもらった」と言い、なかなか見せようとしません。ゲームに夢中だからです。 しかし、ここは退いてはダメな場面だと思い、きちんとチェックしようとすると、一つの宿題が見当たりません。それは「サマー32」という冊子で、国語・算数・理科・社会・英語のすべての教科を網羅したメインの宿題です。 「サマー32が無いやんか」 「だから、それも妹に確認してもらったってば」 押し問答は続きます。 祖父母の家に忘れていないか尋ねたり、あちこちの部屋を探したりしたのですが見つかりません。そこで私が彼の旅行かばんをのぞくと、ついに「サマー32」が現れました。ところがその冊子の中身は、何と7割ぐらいが白紙の状態だったのです。 「ほら、やってへんやないか!」 私も驚きましたが、あろうことか三男も目が点になっているのです。 「いいや、僕は絶対全部やった」 「でも、ここに出来てない宿題があるやんか」 「だから、全部やって、妹にも確認してもらったんだって」 「確認、確認言うても、目の前に終わってない宿題があるやないか」 「だから、おじいちゃんのうちで全部やったんだってば!」 再びの押し問答、もはや『世にも奇妙な物語』のようです。実際に目の前に出来ていない宿題があるのに、なぜそれを認めず、「やった」と言い張るのか…。 もやもやの晴れないまま迎えた夕食の席で、衝撃の事実が判明します。妹が、「お兄ちゃんがやってた宿題は、私の分で!」と打ち明けたのです。何と三男が仕上げた宿題は、小4の妹の「サマー32」だったのです。 椅子から転げ落ちそうなくらい皆でズッコケましたが、三男にしてみたら笑い事ではありません。うっかりもここまでくると、不注意以外の何ものでもないのです。 さらに、妻からとどめの一言が続きました。 「ほら~、やっぱり!」 実はこの「やっぱり」には、ものすごい重みがあるのです。 これは私たち夫婦のさんげ話にもなりますが、彼が小4の時の担任の先生から、三学期の終わりに次のようなことを言われました。 「息子さんは、一年間、宿題のドリルをほとんどしませんでしたよ」 本人の「宿題はもう終わった」というセリフを真に受け、忙しさを理由に確認を怠っていたのは私たちです。妻は彼が小5になってからも、「ドリルは一生ものだから、いつやっても遅いことはない。小4のドリル、今からでもやりねえ」と再三にわたって促していたのですが、彼は全くやらなかったのです。 その上での、妻からの一言。 「ほらね。やっぱり、小4の宿題を、こういう形ででもやらなあかんようになってたんやで。神様は見抜き見通しなんやから!」 この妻の的を射た一言に、三男は泣きっ面に蜂で、ぐうの音も出ませんでした。 『天理教教典』では、「善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」と、厳然たる因果律の存在が述べられており、これを「いんねん」と教えて頂きます。 もちろん、天理教でいう「いんねん」は、世にいう因果応報とは違い、その奥に、神様が人間を陽気ぐらしへ導こうとされる親心があることを忘れてはなりません。このことを、亡き私の恩師は「神様からの宿題」という言葉で分かりやすく教えて下さいました。 自分や自分の周りに辛いことや苦しいこと、都合の悪いことが起こってくると、私たちはどうしても「何でこんな目に…」と後ろ向きな考えに陥ってしまいます。しかし、そこを「これは神様からの宿題なんだ」と考え直すことが出来れば、「宿題なら後回しにしてはならないし、必ずやり遂げられるからこそ与えてくださったのだ」と、立ち向かう勇気が湧いてきそうです。 神様は人間をお創り下された親ですから、親ならばこそ、この宿題を通して成長させたいという期待が込められているのかも知れません。私はこの「神様からの宿題」という言葉が好きで、常々よく用いていたので、今回の三男の宿題事件を「絶妙の親心だなあ」と感じました。 さて、三男は翌日、本来やるべき「サマー32」を、何と一日で完成させました。やったら出来る子なんです。 反対に、「私の宿題、お兄ちゃんが勝手にやってくれた。しめしめ」と思っている妹にも、いつか「神様からの宿題」が出されるでしょう。いつになるのかは分かりませんが、彼女もきっと乗り越えてくれると信じています。 まだあるならバわしもゆこ この教えが広まり始めた江戸時代、建物の普請が行われる時は、その規模に応じて人足、いわゆる労働者が募集され、人々はすきやモッコを各自で持参し、土を掘り起こして運搬するその労働の対価として報酬を得ていました。 そのような時代、教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の中で、信仰実践としての「ひのきしん」の形を、お言葉と手振りによって分かりやすく教えられています。 みれバせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん(十一下り目 三ッ) よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる(十一下り目 四ッ) いついつまでもつちもちや まだあるならバわしもゆこ(十一下り目 五ッ) おそらく、当時の人々は、「もつこになうてひのきしん」と聞いて、すぐに普請現場で土持ちをする様子を思い浮かべたはずです。そしてその行為が、対価を得るためではなく、神様の報恩感謝の行いなのだと心が切り替わった時、それがすなわち「ひのきしん」なのだと教えられたわけです。 ひのきしんとは、欲を忘れて行うものであり、互いにたすけ合う生活につながる行いです。それは形にとらわれることのない、いわば「心のふしん」であり、はた目には地味な作業で、すぐには成果の見えにくいものです。しかし、土持ちが普請における大切な土台作りであるように、ひのきしんは、私たち一人ひとりの人生にとっても、かけがえのない土台作りとなるのです。 ゆえに、ひのきしんとは、お言葉通り「いついつまでも」心掛けるべきものです。「私は若い時に十分やったから、もういいだろう」などと思うことなく、「まだあるならバわしもゆこ」と、自ら率先して勇み立ち、幾つになってもさせてもらうのだという、その気持ちこそが大切なのです。 教祖は、それを自らの行いによって示されました。こんな逸話が残されています。 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、「私も手伝いましょう」と教祖自らお出ましになることがよくありました。 ある年の初夏のこと。カンカンと照りつけるお日様の下で、数人が汗ばみながら麦かちをしていると、教祖がやって来られ、手ぬぐいを姉さん冠りにして、皆と一緒に麦かちをなさいました。 それは、どう見ても八十を超えられたとは思えぬお元気さで、若い者と少しも変わらぬお仕事ぶりに、皆は感嘆の思いをこめて拝見したのでした。(教祖伝逸話篇70「麦かち」) (終)
Fri, 15 Nov 2024 - 404 - 知ることからはじめてみませんか?
知ることからはじめてみませんか? 埼玉県在住 関根 健一 先日、行きつけの酒屋さんで買い物をした時のこと。会計をしようとレジに行くと、店主から「Hさんから関根さんに渡してくださいと預かったよ」と、小さな包みを渡されました。開けてみると、酒の肴になりそうな、ちょっとしたおつまみでした。 こちらの店主は、私より一回り以上年上の方ですが、20年近くのお付き合いになります。客として通ううちに意気投合し、お酒のことを教えてもらったり、イベントのお手伝いをしたり、仕事の悩みの相談にも乗ってもらう兄貴分のような存在です。 先日、酒蔵での仕込み体験イベントが開催され、私も店主のサポート役としてお手伝いをしたのですが、その時に夫婦で参加していたのがHさんでした。 Hさんは足に障害があって、「補装具」と呼ばれる足の機能を補完する特殊な靴を履いています。あまり馴染みのない方は気づかないかもしれませんが、私は障害のある娘と共に生活する中で、様々な補装具を見てきた経験があるので、Hさんに初めてお会いした時から、不便なことはないか、さりげなく気にかけるようになっていました。 酒蔵での仕込み体験イベントでは、蒸したお米を「放冷機」という機械に通して冷まし、出てきたものをタンクに入れたり、お酒の元となる「もろみ」を袋詰めして絞りにかけるなどの作業を、蔵人と呼ばれる職人さんの指導を受けながら行います。 周囲の配慮もあって、ある程度のことは一緒に体験できたHさんでしたが、タンクの中で発酵しているお酒を見るには階段を上がらなければならず、その時は下で待つことになりました。 ご本人にとっては、足に障害があるので、階段を上がれないのは当たり前なのかも知れませんが、障害があることで諦めてしまうことを、出来るだけ増やしたくないという私なりの思いがあります。そこで、皆が階段の上で見ている資料などを出来る限りHさんの所に運んで、少しでも同じ体験に近づくようにお手伝いをしました。 そのことをHさん夫妻はとても喜んでくれたようで、そのお礼に酒屋さんを通じて、おつまみを届けてくれたとのことでした。 私にしてみれば、極々当たり前のことをしたまでです。「お礼なんてして頂くほどのことではないのに…」とも思うのですが、当日も別れる間際まで「ありがとうございました」と、ご夫婦で繰り返しお礼をして下さったことなどを思い返すと、日頃周囲で同じように対応してくれる人はあまりいないのかもしれません。 私は時々、障害者の暮らしについて話して欲しいと、講演依頼を受けることがあります。その場合、比較的障害者と接することが少ない方が対象の時は、「世の中には、意識的に障害者を差別する人よりも、ただ単に実態を知らない人の方が圧倒的に多い」ということを強調して話すようにしています。 街中には、障害者にとって障壁となるものや、不便なものが数多く見受けられます。しかし、私も娘が生まれるまでは、それらを何気なく通り過ぎていたのであって、娘を連れて歩いて初めて、その障壁の多さにびっくりしたものです。 今でこそ障害者の家族として、SNSを使って情報発信などもしている私ですが、娘が生まれるまでは無関心だったことを思うと、まだ気づくチャンスが訪れていない人に対して、「差別的だ」などと一方的に断じることは憚られます。大切なのは、気づくチャンスが一人でも多くの人に訪れるような社会を作ることだと思います。 そうした視点で見ると、生まれた時からお姉ちゃんが障害者という環境にある次女の行動には、多くのことを教えられます。 例えば幼稚園の頃、娘たちの大好きなお菓子を買ってきて、姉妹でどっちを選ぶかを聞きました。すると次女が、「ジャンケンで決めよう!」と提案します。手でグー・チョキ・パーを出せない長女と、どうやってジャンケンをするのか…?と観察していると、「ジャンケン、ポン!」の掛け声で長女が「グー!」と口で言うのと同時に、次女は背中の後ろで「チョキ」を出し、長女の掛け声を確認してから手を前に出します。妻と私はビックリ! いつの間にか、とても理に適ったやり方を編み出していたのです。 幼稚園でジャンケンを覚えたのに、お姉ちゃんとは友達と同じようにジャンケンができない。でも、好きなお菓子を選ぶ時は平等に決めたい。そのような状況を次女なりに考えた結果、私や妻には思いもつかない方法に行き着いたのです。それ以来、長女を交えてジャンケンをする時には、この方法で仲良く競っています。 他にも、幼い頃から次女の発想には、驚かされることがたくさんありました。やはり、まずは障害者のことを「知る」ことが大切なのだと思います。 では、家族に障害のある人がいない人には知る機会がないのか?と言うと、そうではありません。 皆さんのお近くにある特別支援学校や障害福祉作業所は、「地域とのつながり」を求めています。いつしか「都会では、隣に住んでいる人の顔も分からなくなっている」などと言われるようになりましたが、自分一人で気軽に外 に出かけることが難しい障害者にとっては、都会に限らずこうした状況にあることも少なくありません。障害者がその人らしく自立して生きていくためには、地域との関わりは必要不可欠です。 まずは、「知ること」「関わること」からはじめてみませんか? 自分一人で この教えでは、この世界と人間を創造された親神様と私たちの関係を、親子の関係であると示されています。私たち一人ひとりは、親神様と直接に親子の関係でつながっているのであり、ゆえに、私たち人間は、皆がお互いに等しく親神様を「をや」と仰ぐ「一れつきょうだい」なのです。 しかし現実には、私たちは日常、夫婦、親子、兄弟姉妹というつながりの中で家族として暮らしています。教祖・中山みき様「おやさま」は、その家族の日常における心のあり方について、次のように仰せられています。 一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよ (五 5) このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい (五 7) をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで (五 8) たとえ一つ屋根の下で暮らす夫婦、親子であれ、また血を分けた兄弟姉妹といえども、心は一人ひとり皆違うということです。 これについては、別のお言葉でも、 「さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うた処が、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも」(M23・8・9) と諭されています。 教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々がニ、三人連れを誘って行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、なおその上に「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いとも懇ろにお仕込み下されたのです。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」) この教祖の逸話がお示しくださるのは、心が皆違うのであれば、信仰も一名一人限りである、ということです。この信仰は、決して義理やお付き合いでするものではなく、お話の取り次ぎは一対一が基本であり、一人ひとりが自主的に道を求める姿勢こそ大切であるとお諭しくだされているのです。 何より有難いのは、真実に聞かせて頂こうとする者には、「何んでも、分からんことがあれば、お尋ね」と、こちらが得心するまでお話しくださる教祖の親心。こちらが真実の心で運べば、教祖は必ず応えてくださるのです。 (終)
Fri, 08 Nov 2024 - 403 - 同居の恩恵
同居の恩恵 兵庫県在住 旭 和世 「ばあばちゃ~ん!これ直して~」 おもちゃを壊してしまった時、うちの子たちは私の前をスルーして、すぐ母の所に持っていきます。宿題で分からない所があると、「じいじ~宿題おしえて~」と、父の所に飛んでいきます。 食べたい夕食のメニューがある時も、うちの子は迷いなく「ばあばちゃ~ん、今日ハンバーグ食べた~い」と母におねだりに行きます。娘に「どんな人が好みのタイプなの?」と聞くと、すかさず「じいじみたいな優しい人がいい~!」と言います。 子供たちは本当に正直です。この子たちの親はいったい何しとるねん!と、つっこまれそうですが、そうやってじいじ、ばあばに甘えられる子供たちを見て、心からありがたいと思うのです。 私は教会の後継者である主人と恋愛結婚し、主人の両親やきょうだい達と教会で同居することになりました。深く考えることもなく、そんなものだと思って嫁いできました。 でも良く考えてみると、主人は自分が選んだ相手ですが、両親までは選べません。きょうだいもしかり。どんな人と家族になるかは、ある種くじ引きみたいなものです。よく、そんな賭け事みたいな人生におそれることなく、のん気にやってきたものだと、今となっては笑えてきます。 ただ、自分も教会で育ち、幼い頃から神様のお話を通じて心の使い方などを教えられてきたので、きっと、同じ教会なら価値観や考え方も似ているだろうと信じていました。 嫁いですぐに馴染めたかと言われたら、もちろんそんなことはありません。最初は緊張したり、気もつかったり、多少のカルチャーショックも受けつつ、じわじわと慣れてきたように思います。その一方で、両親や周りの方はそれ以上に、私に気をつかってくれていただろうと思うのです。 ママ友からよく言われます。「え~、旦那さんの両親と同居してるの? うわ~、大変だね~。私は無理だわ~」 主人の家族と同居するのは、私の住む地域ではとても珍しいことなのだと、周りのママ友を見て気がつきました。私は実家でも祖父母が一緒に住んでいたこともあり、特に抵抗がなかったので、こんなにもびっくりされるということに、まず驚きました。でも実際一緒に住んでみると、良い面がたくさんあるということに年々気がついてきました。 現代では出産を機に、環境の変化や子育ての不安などにより、「産後うつ」を発症するママさんがたくさんおられると聞きます。きっと、理想とかけ離れた育児の現実に戸惑い、その悩みを誰にも相談することができず、一人で抱えている方が多いのではないかと察しています。 その点で言うと、もし両親と同居していれば、育児の先輩がすぐそこにいてくれて、アドバイスをもらったり、長年の知恵を授けてもらうこともできます。 今はネット上に情報があふれ、育児書も充実しているので、ひと昔前の情報が古臭いと感じることがあるかもしれません。でも、経験者がそばにいる心強さと、まったく目が離せない時期にちょっと見てくれる人がいる安心感、それだけでも産後の不安はかなり解消されると思います。 私自身は、子供が大きくなるにつれて、益々親のありがたさに気がつきました。若い頃、甥っ子や姪っ子の面倒を見ていた時は、可愛いばかりで怒る必要はなかったのですが、我が子となると責任を感じてしまい、ちゃんと育てないと!とか、人の迷惑にならないように躾けないと!などなど、妙に力が入ってしまいます。そして、気がつけば必要以上にガミガミ言っている自分がいて、「こんな怖いママになるつもりはなかったのに…」と、我が子の可愛い寝顔を見て後悔することもしばしば。 でも、子供たちにとれば、私がガミガミ言っていても、隣りでじいじやばあばが笑ってフォローしてくれたり慰めたりしてくれるので、それが救いになっているようでありがたく思っています。 ややもすると、我が子を自分の分身のように考え、こちらの思う通りに育てたいと思いがちだけど、親がそばにいてくれるおかげで、子供は一人の人間として「個」を持つ存在であり、その個を大切にしなければならないと思えるようになりました。 同居したら気苦労が増える。そう思う人もいるでしょう。たしかにそうかも知れませんが、ある先輩の先生がこう言われました。「その気苦労がとても良いんです」と。 気苦労=悪いこと、ストレスになること。私もそんな負のイメージしか持っていませんでした。しかし、その先生の言葉を聞いて、周囲の人に気を配ってお互いに気持ちよく過ごせるように工夫したり、言葉をかけ合う姿を映すことが、子供たちの将来にとって、とてもいいことなのではないかと考えるようになりました。彼らが社会に出て家庭を持った時、自然にその気づかいができるようになっていたら、これほど嬉しいことはありません。それは、私たち親が子供たちに手渡すことの出来る心の財産だと思います。 思い返せば、私自身も教会で生まれ育ち、祖父母や住み込みさんと一緒に暮らし、教会に出入りしているたくさんの方々の中で育ててもらいました。その中で両親が皆さんに心を配っている姿や、自分たちの時間を惜しまず、祖父母の世話をしたり、信者さんの悩みを聞いたり、おたすけに出向く姿を間近に見られたことが、今では心の財産になっているとつくづく感じています。 「おふでさき」に、 せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43) とあります。 世界中のみんながきょうだいならば、一緒に暮らす家族や身近な人はきょうだいの中のきょうだい。本当に、何十億分の一の確率の、奇跡ともいえる巡り合わせです。 両親と同居できたおかげで、親がそばにいる安心感と恩恵を頂いているのだから、今度はその恩恵にご恩返しをさせてもらえる自分になりたい!と思いつつ、まだまだ両親に甘えっぱなしの毎日です。 だけど有難い「食べる順番」 食事をするとき、好きなものを先に食べるでしょうか。それとも、あとで味わって食べるでしょうか。特に極端な好き嫌いがなくても、人によって、なんとなく箸の出し方の違いというものがあるように思います。 数日前、家族そろって食事をすることがありましたので、皆に聞いてみたところ、娘二人は「好きなものは、あとで味わって食べる」と答えました。妻は「一番美味しいと思うものをまず食べて、残っているなかで一番好きなものを次に食べる。そうしていったら全部好きなものだから楽しい」ということでした。 では、教祖はどうかといいますと、『稿本天理教教祖伝逸話篇』のなかに「柿選び」というお話があります。柿がたくさん載ったお盆を教祖の御前にお出ししたところ、教祖はその柿を、あちらから、こちらからと、いろいろと眺めておられました。やはり、教祖もお選びになるのだなと思っていますと、そのなかから、一番悪いと思われる柿をお選びになった。人に美味しい柿を食べさせてやろうとの親心なのです。教祖もお選びになるが、私たちとは選び方が違うのです。 私たちはそのようには、なかなかできないと思うかもしれませんが、わが子にはどうでしょう。私の妻も、子供が小さいときは、子供が残したものを綺麗に食べていました。美味しいものを自分が先に食べてしまうのではなく、子供に先に食べさせ、残ったものを食べていたのです。誰でもそうではないでしょうか。子供に対してはできるのです。では、子供だけかというと、そうではありません。夫や妻にしている方もあると思います。恋人、親友、またお世話になった人にもそうではないでしょうか。つまり、大好きな人にはできるのです。 こうしてみると、私たちも意外と教祖のように心を働かせているのです。ひょっとすると、原始時代、人間が一番初めにした親切は、人に食べ物を分け与えたことではないでしょうか。食べ物を人に譲ろうという気持ちから、私たちの人を喜ばせたいという感情が始まったのかもしれません。 人間の値打ちは、そうして「人に喜んでもらいたい」と考えられるところにあると思います。 喜んでもらいたい対象には、もちろん親も入っています。自分を産み育ててくれた親に、ご馳走したいなどと考えます。誕生日のプレゼントを贈るのに、親に毎月仕送りをしているからといって、そこからプレゼントの代金を差し引く人はいないでしょう。 私は、教祖の年祭活動のつとめ方というのも、この心だと思うのです。をやに対する日ごろの感謝に加えて、さらに喜んでいただく行動を取るのです。をやは子供を喜ばせたい思いで、お土産をたくさん用意してお待ちくださるに違いないのです。その親元へ、一番お喜びくださる「人をたすける」心と態度をもって帰るのです。 教祖年祭の元一日は、実は誕生日ではありません。教祖が現身をかくされた日です。ということは、親に喜んでもらいたいという心でつとめるのではありますが、それは誕生日に使う心ではなく、むしろ、親が危ういときに使う心だと思います。なんとしても親に喜んでいただきたいという、仕切った心でやりきらせていただくことが大切です。 共々に、できるだけ多くの人に声を掛け、病気や事情に苦しむ人にご守護の喜びを味わっていただけるよう、仕切ってつとめさせていただきましょう。 (終)
Fri, 01 Nov 2024 - 402 - 神様の大作戦(後編)
神様の大作戦(後編) 助産師 目黒 和加子 臍帯剪刀を手にしたこの日は、奇しくもおさづけの理を戴いたあの日と同じ7月17日だったのです。 「これって偶然? 教祖に助産師になってみせるって言うたけど、もしかしてなるように仕向けられてるの?」 神様が練った作戦に気づき始めたのです。 私が目指したのは、新潟大学医療短大助産専攻科です。入試の2ヵ月前、腰の激痛で椅子に座れなくなり、近所の整形外科を受診、腰椎椎間板ヘルニアと診断されました。 新潟大学を受験することを、院長の南先生に伝えると、「僕は30歳の時に造船会社をリストラされて、一念発起して医学部を受験して36歳で医者になったんや。34歳で受験か。新潟に行けるよう全力で応援するで」と、嬉しいお言葉。 痛みを抑えるため、飲み薬だけでなく神経ブロック注射も受けましたが、効果は今ひとつ。これでは飛行機に乗れません。すると南先生は、私が搭乗予定の日本エアシステムに、「人生をかけた34歳での受験なんです。3人席の肘掛けを上げて、横にしてフライトしてもらえないでしょうか」と、手紙を書いてくださったのです。 日本エアシステムからの返事は、「離陸と着陸の時は座ってもらい、それ以外は希望通りになるよう配慮します」とのこと。なんとまあ、こんなことがあるのでしょうか。私はこうして、ひどい腰痛を抱えたまま新潟大学を受験することができたのです。 入試が終わり、帰りの飛行機での出来事。満席のため、行きと違いどうしても座らなければならず、痛み止めの座薬を入れて飛行機に乗り込みました。客室乗務員さんがひざ掛けを丸めて腰に当ててくれるのですが、効果がなく冷や汗が出てきます。 すると、隣りに座っていたおじさんが、「どうしたの? 腰が痛いの?」と心配そうに声を掛けてきました。「はい、腰椎にヘルニアがありまして…」と答えると、「ワシも30年前からヘルニア持ちなんや。おっちゃんに任しとき!」と言って、客室乗務員さんにひざ掛けを何枚か持って来させ、それを私の背中と椅子の間にぎゅうぎゅうに詰め込み、がっちり固定。すると、痛みが引いたのです。 驚いた顔の私に、おじさんは「腰のヘルニアは治ることはないけど、上手に付き合えるで。大丈夫やで」と、笑顔で励ましてくれました。 石田病院に勤めて数カ月後、看護師のなっちゃんから電話がありました。なっちゃんは看護師として勤務しながら、助産師学校の合格を目指して予備校に通っていたのですが、突然、「私、結婚するから助産師目指すのやめるわ」と言うのです。 「せやから、和加ちゃんに予備校の教材全部あげるわ。高かってんで、がんばりや!」なんと、教材をタダで手に入れてしまいました。 「よし、これで学科試験は何とかなる。問題は小論文や」 今でこそ、こうして原稿を執筆していますが、その当時は小学生の作文のような文章しか書けなかったのです。早速、予備校の通信教育小論文コースで指導を受けることにしました。 予備校の先生から課題をもらい、小論文を書いて提出するのですが、毎回戻ってくる原稿用紙は、赤ペンの修正だらけ。 9月に送られてきた課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」。9月半ばに小論文を提出し、添削指導が戻ってきたのは10月初旬でした。 封筒を開けてビックリ! 新しい原稿用紙に万年筆で書かれた模範解答が入っていたのです。おそらく、修正箇所が多すぎて真っ赤っかになったので、一から書いてくださったのでしょう。 「すごい! さすが赤ペン先生、めちゃめちゃ上手いわ。なんて素晴らしいお手本なんや」 次の日からその模範解答をかばんに入れ、通勤電車の中で黙読を続け、1カ月後には暗記できるようになりました。この模範解答の暗記が、入試で効いてくるのです。 推薦入試の受験日は11月末。定員は20名ですが、そのうち推薦入試の枠は、たったの5名。私の受験番号は2番なので、何人受験するのか検討がつきません。 いよいよ受験当日。新潟大学の試験会場に行ってびっくり! なんと80名を超える受験生がいるではありませんか。競争倍率16倍の超狭き門です。 「これは絶対に無理やで…」がっくりモードで学科試験が終了。次は小論文の試験ですが、ここで信じられないことが起こります。 出された小論文のテーマは、「我が国における高齢者への看護の課題と将来」 あれ? これって? まさか……。 リスナーの皆さん、お気づきでしょうか。赤ペン先生が模範解答を送ってくださった小論文の課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」でしたよね。そうなんです。表現が違うだけで、同じことを求めている問題だったのです。体中に鳥肌が立ちました。 夢中で暗記していた赤ペン先生の模範解答を書き終えましたが、体の震えが止まりません。 〝自分の力や意志と違う。助産師になるように仕組まれてる。きっと合格させられる!〟 結果は、予想通り、合格。入学してすぐ、担当教授から「あなたの小論文、素晴らしかったわ」とお褒めの言葉をいただきました。そうでしょうとも…。 会ったことのない赤ペン先生に、心から感謝申し上げました。 助産専攻科の卒業間近、風邪から副鼻腔炎を再発。急性増悪して新潟大学病院で診察を受けた時のことです。蝶形骨洞のCTを撮ると、それを観た耳鼻科医の顔色が変わりました。 「あなたの蝶形骨洞の骨は本当にペラペラです。また手術しないといけなくなっても、僕には無理です。恐くて触れません。すぐに点滴で炎症を抑えましょう」 さらにドクターは、もう一度CTフィルムをジーッと観て、「骨まで溶かす炎症だったのに、どうして蝶形骨洞内を走る視神経がやられなかったんでしょう。人間の身体の中で一番硬いのは骨ですから、視神経がダメージを受けずに失明しなかったのは奇跡ですね」と目を丸くして言いました。 点滴を受けながら、この十数年間に起こった出来事を振り返りました。 〝17歳でおさづけの理を戴いて、23歳で結婚して修養科に行って、離婚して、看護師になったのに病気になって、治療を失敗されて、クビになって、自殺を目撃して、教祖に「助産師になってみせる」なんて生意気に言い放って。 助産師になると決めてからは、あちこちでたすけてくれる人に出会った。耳鼻科の内田先生、整形外科の南先生、日本エアシステムさんのご配慮、帰りの飛行機で隣り合ったヘルニアのおじさん、赤ペン先生…。 そうか、すべては私を助産師にするためやったんか。だから、視神経が守られて、失明せえへんかったんや〟。 こういう経緯で助産師になったのですが、「なった」というより「ならされた」という方がピッタリですよね。あれから28年。何度か副鼻腔炎を再発しつつも、脳炎にはならず現在に至っています。 神様の大作戦は、「私を助産師にすること」でした。では、助産師にして何をさせたいのでしょう。それこそが、神様の真の目的ですよね。 私は今年で還暦となりますが、今も助産師にさせられた真の目的を考え続けている道中です。いつか、「なるほど、こういうことなのね」と、神様の思いが分かる日が来ると信じています。 神にもたれる 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、「なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」とあります。 「神にもたれる」という表現は、その他のお言葉にもしばしば出てきますが、どのような意味を表しているのでしょう。 「もたれる」とは、何かに依存したり、頼ったりと、受動的な態度のようにも思えますが、ここでは決してそのようなことを意味しません。神様にもたれるには、目に見えないものに対する心の中の不安や疑念を払拭しなければならないのですから、相当の勇気が必要になります。 教祖は、直筆による「おふでさき」で、 これからハどんな事でも月日にハ もたれつかねばならん事やで (十一 37) これからハ月日ゆう事なに事も そむかんよふに神にもたれよ (十三 68) と記され、狭い人間思案を捨て、目先のことにとらわれず、神様に決して背くことなくもたれ切って通るようにとお諭しくださいます。 そして、「天の理に凭れてするなら、怖わき危なきは無い」(M23・6・29)と私たちを励ましてくださいます。 しかし、そのような思いに沿えない私たちに、神様は時として身体にしるしをお見せ下さいます。 めへ/\のみのうちよりもしやんして 心さだめて神にもたれよ (四 43) みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ (五 10) 「かみにもたれてゆきまする」とは、人間の知恵や力で捉えられる範囲を超えて、一切を神様にお任せします、との決意表明と言えます。自己中心的な欲の心を離れ、神様にもたれ切る時、そこに真実のご守護の姿が表れるのです。 (終)
Fri, 25 Oct 2024 - 401 - 神様の大作戦(中編)
神様の大作戦(中編) 助産師 目黒 和加子 気温30℃を超える7月の真夏日、神様に文句を言おうと自宅を出ました。京阪電車の萱島駅に着き、4番線に止まっている準急に乗り込むと、「3番線を特急が通過します。しばらくお待ちください」と、車内アナウンスが聞こえてきました。 〝もし脳炎になったら、特急に飛び込んで死のう〟そんなことを考えながら3番線を眺めていると、目に入ったのは青いジャンパーを着た男性。すると、その男性は突然走り出し、特急に飛び込んだのです。特急電車は金属音を立てて急停車。 人の死を間近で目撃し、頭を金槌で殴られたような衝撃が走りました。 〝神様に見せられた! 私がしようとしたことは、どういうことなのか見なければいけない〟 急いで準急から降り、3番線側に向かうと何かにつまずきました。それは、男性の腕の一部でした。ちぎれた青いジャンパーに親指だけがついていました。周囲を見回すと足首、頭の一部、肉片が飛び散り、見るも無残な状態。 〝あかん! こんなことしたら絶対あかん。こんな姿、親に見せられへん…。じゃあ、どうしたらええの? どう生きればいいのよ!〟 頭の中が混乱したまま、おぢばに到着。神殿に駆け上がり、賽銭箱にお供えを思いっきり投げつけて、「神様、看護師になってこれからという時に何でですか! 全然喜べません! でも、なにか意味があるんですよね? 人間の親やったら、その意味を教えてください!」 かんろだいを睨みつけ、怒りをぶつけました。それでも怒りは収まらず、阿修羅のような形相で回廊を歩いていると、鼻からドッと出血し、マスクは血だらけ。すれ違う人はギョッとした顔で固まっています。 教祖の御前に座ると、涙がこぼれてきました。当たり前のことですが〝人間は必ず死ぬ。人生には限りがある〟と痛感したのです。 そして、今、この病気で出直すとしたら何を後悔するか思案を巡らせると、真っ先に心に浮かんだのは、看護学校の実習で見学したお産の現場でした。 「お産ってスゴイ! 助産師さんってスゴイ! 素晴らしい仕事や!」と心が震えました。担任の先生に「助産師を目指したら?」と勧められましたが、これほど責任の重い仕事は無理だと諦めていたのです。 しかし、死がちらつく重い病気になり、考えが変わりました。今世で後悔を残さないためにどうすればいいのか。私は教祖に、「このままでは終われません。助産師になってからでないと死ねない。何としてでも助産師になってみせます!」と言い放ったのです。 神様に向かってなんとまあ、高慢ちきなことですよね。でもこれは、真っ直ぐで気の強い、私の性格を見抜いていた親神様と教祖の巧妙な作戦だったのです。もちろん、この時はまったく気づいていません。 鼻から血を流しながらおぢばに帰った翌日、西宮市にある所属教会に行きました。死を意識し、「今世最後の参拝になるかも…」と覚悟を決め、貯金を全部お供えしました。若い頃からお世話になっている親奥さんに病気のことを話すと、おさづけを取り次いでくださいました。 そして、「明日は上級の中央大教会の月次祭よ。このお供えを今すぐ速達で送ると祭典に間に合うから」と、郵便局に連れて行かれました。 暗い気持ちで座っていると、親奥さんが「和加ちゃん、神様がたすけてくださるから大丈夫よ」と笑顔で言うのです。〝なんで大丈夫と言い切れるんやろう?〟疑問に思いながら郵便局を後にしたのですが、ここから運命の歯車が動き出すのです。 教会からの帰り、クビになった病院に置いてある私物を取りに行きました。ナースステーションの入り口で、「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げましたが、誰も仕事の手を止めてくれません。 この病院では、中途退職者が出ても年度が変わる4月までは欠員補充がありません。〝あなたが辞めたせいで、来年の3月末まで大変な思いをしないといけないのよ〟という雰囲気が漂っていました。退職の理由が病気であってもです。看護部長室にも伺いましたが、会ってもいただけません。 惨めな気持ちで通用口を出ると、「みかぐらうた」が聞こえてきました。病院の隣りは天理教の教会なのです。おうたが心に沁み、泣けてきました。涙が鼻腔へ流れ、手術の傷跡がジンジン痛みます。 「崖っぷちやけど、まだ生かしてもらってる」と自分に言い聞かせ、駅への道をとぼとぼ歩きました。 病院からの帰り、大学病院を紹介してくださった内田耳鼻科に退院したことを伝えに行きました。 院長の内田先生に、大学病院でヤミックが失敗し、ひどい蝶形骨洞炎になったこと。骨も溶け、脳炎になる可能性があること。仕事を辞めたこと。人生は一度しかないと痛感し、助産師を目指そうと思っていることなどを伝えると、 「あんた、うちに勤めなさい。ここは耳鼻科やから、いつでも診てあげられる。そうしなさい。来週からおいで。」 なんと、私を雇ってくださるというのです。 〝ありがたいけど、看護師の募集をしてないのに、ご迷惑になるんとちゃうかな〟と戸惑っていると、それを察した先生は、「ワシ、3年前に胃がんの手術した時に色々あってな。あんたの気持ち、ようわかるんや。来年の3月までということで、どや!」 これまた、よく分からないまま内田耳鼻科に勤務することになったのです。 これは一体何なんでしょう? 一方ではクビになり、もう一方では雇ってくださる。「捨てる神あれば拾う神あり」とでもいうのでしょうか。しかも職場が耳鼻科というのは、退院後も経過観察が必要な私にとって最高の環境です。 急降下に急上昇、まるでジェットコースターに乗っているよう…。この日を境に、自分の考えや意志以外のところで、物事が動き始めたのです。 内田耳鼻科で診てもらいながら、3月末まで働かせていただき、4月から助産師になるための第一歩として産科専門の石田病院に転職しました。 石田病院はこの地域で最も分娩件数が多く、入職して3カ月が経っても、いっぱいいっぱいの毎日。忙しすぎて助産師学校へ進学する気力を失いかけていた頃、神様が練った作戦に気づきかけた出来事がありました。 お産の終わった分娩室で片付けをしていると、ベテラン助産師の大石さんが分娩セットの中から一個のハサミを取り出しました。 「このハサミは臍帯剪刀といって、へその緒を切る専用のハサミよ。へその緒は、ところてんみたいにツルツルしてるから、集中して切るためにわざと切れ味を鈍くしてあるの。先端だけを使って2、3回で切断するの。刃先が丸くて上に反っているのは、へその緒を切る時に赤ちゃんのお腹の皮膚を傷つけないようにするため。助産師だけが使う特別なハサミよ。ほら、よく見てごらん」 手渡された臍帯剪刀を見て、ハッと思い出したことがあります。 私がおさづけの理を拝戴したのは、昭和57年7月17日、17歳の時。拝戴直後、教祖殿で待っていた所属教会の間瀬弘行 前会長さんが、「和加ちゃんは、数字の〝7〟に縁があるなあ。7というのは『たいしょく天さん』のお働きで〝切る〟ということや。上手に切ることも神様の大切なお働きやで。だから、将来はハサミを使う仕事をしなさい」 高校生だった私は、素直に「はい」とうなずきました。 〝そうや、あの時、前会長さんの言わはったハサミって、この臍帯剪刀のことや!〟 さらに、壁に掛けてあるカレンダーを見て息をのみました。 「今日って、あの日と同じ7月17日やんか!」 怒涛の展開はまだまだ続きます。来週の後編をお楽しみに! 「ひのきしん」で胸の掃除を 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、 せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ (三 52) と記され、陽気ぐらしへ向けた各自の胸の掃除は、神様の教えを箒としてなされるのだとお諭しくださいます。その第一の方法として教えられるのが、生かされていることへの報恩感謝の行いである「ひのきしん」です。 教祖は「みかぐらうた」の中の、特に十一下り目において、ひのきしんについて詳しく教えられています。 ふうふそろうてひのきしん これがだいゝちものだねや よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる いつ/\までもつちもちや まだあるならバわしもゆこ むりにとめるやないほどに こゝろあるならたれなりと ひのきしんは、夫婦の心を揃えて行うところに始まり、その姿が周囲の人々に映っていくということ。そして、ひのきしんは利益を目的にするものではなく、あくまで「欲を忘れて」行うものであり、それが陽気ぐらしへ近づく歩みになるということ。 また、ひのきしんは、いついつまでも、どこまでも自ら追い求めて行うことが大切であり、その心意気があるならば、無理に止め立てはしないと仰せられています。 夫婦を台として、人々が心を合わせ、いそいそと一手一つにひのきしんをする姿こそ、陽気ぐらしの縮図であり、各自が胸の掃除を成している姿と言えるでしょう。 (終)
Fri, 18 Oct 2024 - 400 - 神様の大作戦(前編)
神様の大作戦(前編) 助産師 目黒 和加子 私が助産師になったのは35歳の時です。看護大学を卒業すれば22歳で助産師になれるので、かなり遠回りをしました。今回は助産師になるまでの山あり谷あり、崖っぷちありの道中をご紹介します。 高校を卒業後、医療系の専門学校を卒業し、医療秘書として内科病院に勤務していました。23歳で結婚しましたが上手くいかず、仕事を辞めて天理教の教えを学ぶ修養科を志願し、三カ月おぢばで過ごしたのちに離婚。実家に戻っていました。 当時、歯科医院で勤務していましたが収入は少なく、将来を考え看護師免許を取ろうと28歳で一念発起し、まずは准看護師学校へ入学。病院で働きながら学校へ通う勤労学生を2年経験し、准看護師になりました。さらに正看護師の学校へ進学。2年後、32歳で晴れて看護師になったのですが、待っていたのはいばらの道でした。 大阪市内の総合病院に就職し、内科病棟の配属となりました。新人には指導者がついて、マンツーマンで教育・指導を受けるのですが、私の指導者はとても厳しく、課題がどっさり出て休みの日も宿題に追われる日々。 提出しても、「抜けているところがあります。やり直してください」と言われ、「どこが抜けているのですか?」と聞いても、「自分で考えてください」と冷たい返事。再提出、再々提出しても「やり直し!」と突き返されます。何度見直してもどこが抜けているか分からず、やり直しをせずに提出すると、その指導者はなんと「これでOKです」と言ったのです。 このことで緊張の糸がプツンと切れ、胃潰瘍となり近所の病院に入院。就職して2か月で休職となってしまいました。 入院中、「私の指導が行き過ぎていたと反省しています。やり方を変えますので戻ってきてください」と指導者から電話があり、職場復帰を考えていた矢先、風邪をひきました。 その風邪をこじらせ近所の内田耳鼻科を受診し、急性副鼻腔炎と診断されました。薬を飲んでも頬の痛み、黄緑色のドロドロの鼻水、頭痛、身体のだるさは良くならず、大学病院耳鼻科のK先生を紹介されました。K先生は頬の上顎洞に溜まっていた膿を出そうと、鼻に圧をかけて副鼻腔内を洗浄するヤミックという新しい治療をしたのですが、膿は出ませんでした。 後で分かったことですが、このヤミックの治療が失敗し、上顎洞の膿は排出されないどころか、鼻の一番奥、目の後ろにある「蝶形骨洞」へと押し上げられたのです。 治療後、頭痛は一層ひどくなり、目も見えにくくなったので再び大学病院を受診。しかしK先生から、「もう上顎洞に膿はありません。念のため脳神経外科を受診してみますか」と言われ、そちらへ回されました。 しかし、脳神経外科で問題なしと言われると、K先生は「症状は精神的なところから来ているのかもしれません」と言い、今度は精神科に紹介状を書き始めたのです。 ちょうどその時、CTとMRIのキャンセルが出たと連絡があり、急きょ検査を受けました。 検査後、フィルムを見たK先生の表情がこわばり、若いドクターに「すぐに蝶形骨洞開放術が必要だ!手術室の空きがあるか確認しろ!」と声を荒げ、慌てています。 「蝶形骨洞の粘膜が腫れて、腫瘍らしきものも見えます。何が原因でそうなっているかは分かりませんが、早く手術しないと蝶形骨洞内を走る視神経がやられて、失明する可能性があります」と言うのです。 しかし、その日は手術室の空きがなく、「今日はステロイドと抗生剤の点滴をして帰ってもらい、明日の朝一番で手術をします」との説明を受けました。 診療が終わり静まり返った耳鼻科外来。診察室の一番奥で、カーテンで仕切られたベッドに横になり、点滴を受けていると、私がいることに気づかない数人の医師がカンファレンスを始めました。 「このCT見てみ。こんなぐちゃぐちゃな蝶形骨洞、今まで見たことないわ」 「どうせ悪性ちゃう?」 「明日の朝一番でオペやって。どうせ開けてもたすからへんで」 「N病院の看護師やで。結構べっぴんや。32歳か、かわいそうになあ」 カーテン越しに聞こえてきたのは私のことでした。体が震え、頭の中は真っ白。この日、どうやってうちに帰ったのか思い出せません。一睡もできないまま朝になり、大学病院へ。耳鼻科外来から手術室へと運ばれました。 鼻の穴からハサミを使って蝶形骨洞を開放する際、目の神経の近くを触るので、目が見えているかを確認しながら手術を進めます。なので、麻酔は局所麻酔。意識は普通にあり、ドクターの会話も聞こえます。 蝶形骨洞の粘膜は、イチゴジャムのようにぐちゃぐちゃで無残な状態。腫れ上がった腫瘍組織の一部をとり、術中迅速細胞診で調べると、「炎症性病変です。悪性ではありません」と、K先生の言葉が聞こえました。 〝やれやれ、悪性じゃなかった。命拾いした〟とホッとしたのですが、K先生が突然、「脳外科のドクターを呼んでくれ!」と、慌てた声でナースに指示を出したのです。 手術室内に三人もの脳外科医が呼ばれ、私の枕元でヒソヒソと話し合っています。聞こえてきたのは、「さわるな、さわるな」という小さな声。手術は、その小声とともに終了。「何が〝さわるな〟なんかな?」と疑問に思いながら病室に運ばれました。 退院の日、K先生が病室に来て、 「あなたの蝶形骨洞の病変は炎症によるものでした。その炎症がひどい状態で粘膜は腫れ上がり、一部は溶けていました。実は溶けていたのは粘膜だけでなく、脳と蝶形骨洞を隔てている骨、要するに脳をのっけている分厚い骨までもが溶けていたんです。内視鏡で蝶形骨洞の一番奥を見たら、見えるはずのない脳が透けて見えました。 脳外科の医師に手術室に来てもらって相談したところ、『さわらない方が良い』とのことだったので、溜まった膿が鼻へ流れ出る道を作っただけで手術を終わらせました。 今後、風邪をひいて副鼻腔炎が再発した場合、感染が脳に及んで脳炎になる可能性があります。脳炎になれば命にかかわることもあり、後遺症で寝たきりになることもあります。お気の毒です」 と一方的に言うと、さっさと病室から出て行ってしまいました。 〝風邪をひいたら脳炎になるかもしれないって…。風邪をひかないで生きていくことなんかできない。どうしたらいいんやろう…。〟医師に見放されたと感じ、お先真っ暗のまま自宅に戻りました。 翌日、勤務先の看護部長に電話をし、医師から言われたことを伝え、「復職はいつになるか分かりません」と言うと、「ここの病院にも耳鼻科があるのに、どうして自分の勤める病院で診てもらわなかったのよ! 復職がいつになるか分からないなら、辞めてもらって結構です。ロッカーの荷物を取りに来てください」 看護部長の逆鱗に触れ、なんとクビになってしまったのです。 鼻からの出血は止まらず、職も失い、体も心もどん底でした。どん底の時には涙も出ないんですね。泣ける余裕すらない。呆然としながらも、ふつふつと湧いてきた思いは、 「看護師になってこれからっていう時に、なんで神様はこんなことしはるねん!納得できへん!」 無性に腹が立ち、鼻に綿花を詰めマスクを三重にして、おぢばへ向かったのですが、京阪電車萱島駅で衝撃の場面を目撃させられるのです。 来週は、神様の大作戦に翻弄される怒涛の展開。どうぞお楽しみに! たのしみ 「たのしみ」という言葉は、一般には物事を見たり聞いたりして、喜びを感じるという意味で使われますが、神様のお言葉の中にも、再三「たのしみ」という表現が出てきます。 教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」では、 心さいすきやかすんだ事ならば どんな事てもたのしみばかり (十四 50) と、心が澄んだ状態になれば、楽しみ尽くめの日々を送れると示されています。また、親神様が何を楽しみにされているかについては、 にち/\にしらぬ事をやない事を これをしへるが月日たのしみ (八 77) と、世界中の人々がいまだ知らないことを教え、陽気ぐらしへと導いていくことが楽しみであると示されています。すなわち、私たちは親神様の教えによって楽しみを与えられ、その人間の楽しむ姿を見て親神様も共に楽しまれる。これこそ神人和楽の陽気ぐらし世界です。 しかし、楽しみと言っても良いことばかりではなく、親神様は、私たち人間の「今さえ良ければ」という刹那的な「楽しみ」については、厳しく戒められています。 「その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る、なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん」(M22・3・22) そして、「たのしみ」のもう一つの意味、先のことに期待をかけて心待ちにする様を、この道の結構な通り方として示されています。 「神がちゃんと見分けて、一つのあたゑを渡してある。今の楽しみ、先の細道。今の細道、先の楽しみ。先の道を見て居るがよい」(M22・10・26) たとえ今は楽しい道を通れなくとも、先の楽しみを見据えて真実を尽くすことの大切さをお諭しくだされています。 (終)
Fri, 11 Oct 2024 - 399 - 神様にもたれて通る
神様にもたれて通る 岐阜県在住 伊藤 教江 「あなた、このままだと死にますよ! すぐに入院、手術です!」 そうお医者さんから言われたのは、今から遡ること35年前でした。 私は人生の大きな岐路に立たされていました。子供の頃から大きな病気もせず元気に過ごしてきた私にとって、その言葉はあまりに衝撃的で、とても受け入れられるものではありませんでした。 「嘘でしょ…何かの間違いに決まってる。だって、痛くも痒くもない。食欲もある。今だって元気に動き回ってるし…」 確かに私のお腹には、いつからか小さな固いしこりが出来始めていました。それでも、「大したことはない」と少しも気に留めていませんでした。ただ、母が心配してくれていたので、母に安心してもらうために「まあ、一度病院で診てもらおうか」と、とても軽い気持ちで診察を受けました。 その後、いくつかの検査によってデスモイド腫瘍が見つかり、冒頭のお医者さんからの一言で、私の心は一瞬にして奈落の底に落ちたのです。 病院からの帰り道、今まで当たり前に見てきた街並みや、道端の小さな草花、流れる川さえもが愛おしく感じられ、「きっと、私がいなくなっても何事も変わらず、来年もまた花は綺麗に咲き、川も止めどなく流れ、時は過ぎていくんだろうなあ…」と、命のはかなさを感じ、ただただ涙を流したのでした。 当時、私にはまだ幼い二歳と一歳の二人の娘がいました。 「この子たちを置いて死ぬわけにはいかない! もし私がここで死んだら、この先この子たちはどうなるんだろう…。お願いです!何とか救けてください! 山ほど借金して、世界中から名医を探し出してでも、命を救けてもらいたい! たとえ動けなくなっても、どんな姿になっても命だけは救けてもらいたい!」 何度も何度も、どれほど心の中で叫んだことでしょう。しかし、どんなに望んでも願っても、思い通り、願い通りにはならないのが現実です。 そんな時、「人を救けたら我が身が救かるのや」という教祖のお声が、繰り返し繰り返し聞こえてくるような気がしました。 「人救けたら我が身救かる」。その教えは今まで何度も聞かせて頂いていたけれど、実際は頭で理解しているだけで、本当の意味で心の底に治まっていなかった。 親々の信仰を受け継いで今日まで生きてきたけれど、親神様を我が心でしっかりとつかめていなかった、もたれ切れていなかったということに気づいたのです。 そして、「このお言葉が真実なら、親神様は絶対におられる! このお言葉通りに実行して命をたすけて頂いたら、この親神様は絶対に間違いのない真実の神様である」と思えたのです。この病は私にとって、目に見えない親神様のお姿を心で感じ取るための大きなチャンスでもありました。 ある教会の先生からは、「固い鉄は、熱い火が溶かす。やわらかい身体に出来た固いしこりは、熱い心が溶かす。熱い心とは、人をたすける心である」と聞かせて頂きました。 人をたすけるとは、病んで苦しんでおられる方におさづけを取り次がせて頂くこと。これしかありません。この時ほど、教祖から尊いおさづけの理を頂戴していたことを有難く思ったことはありませんでした。 「人救けたら我が身救かる」との教祖のお言葉を胸に、病院中をおさづけの取り次ぎに回らせて頂きました。 見ず知らずの人におさづけを取り次ぐのは、とても大変なことでしたが、当時の私はそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。「もっとおさづけを取り次がせて頂けば良かった」と、悔いを残すことは出来ませんでしたから。必死に我が心と戦いながら、病室から病室へと回らせて頂きました。 そんな私のたすかりを願い、主人は3月のまだ寒い中、水ごりをして十二て頂いている今、一分一秒、この瞬間生かされていることをしっかり喜ばせてもらいなさい」と聞かせてくれました。それは、いつでも教祖のひながたを心の頼りとして懸命に通ってきた親の言葉でした。 そして、来たる手術の日。教祖のお言葉を心に置き、10時間にも及ぶと予定されていた手術に臨みました。お腹の筋肉に付着していた腫瘍が、今まさに内臓を食いつぶしにかかろうとしている状態でしたが、お腹を切り開いたと同時に、その腫瘍が「ポーン」とゴムまりのように出てきたそうです。 そのため、10時間の予定が二時間半で手術を終えることが出来たのです。 この経験を通して、辛い人生のふしに出会った時、先を案じることなく、ひたすら親神様を信じ、心穏やかに神名を唱え、もたれ切ることが何より大切なのだと実感することができました。また、教祖のお言葉を聞かせて頂き、一つずつ素直に実行していくことの大切さも、この病気を通して心から感じさせて頂きました。 だけど有難い「忘れる力」 先日、テレビを見ていたら、長年、認知症の方の世話取りをしている人が、こんな話をしていました。あるとき認知症の方が、ベッドの上に身の回りの物を並べて捜し物をしていたので、「お手伝いしましょうか。何を捜しているのですか」と声を掛けたら、「それが分かったら苦労するか!」と答えが返ってきたそうです。 認知症とまでいかなくても、人は歳とともに物忘れをするようになります。私も、人の名前をよく忘れます。顔は分かっているのに名前が出てこないのです。大事なことをうっかり忘れることもあるので、メモを取るのを習慣にしています。寝るときも枕元に必ずメモ用紙を置いて、夜中に急に起きて書き込むこともあります。 妻も物忘れが多いので、メモを取るように勧めたことがあります。その後、メモを取るようになったのですが、それでも大事なことを忘れることがありました。「なぜ、メモを取らなかった?」と尋ねると、妻は「メモは取ったが、見るのを忘れた」と答えました。習慣になっていないと、メモだけ取ってもだめなのですね。 こんな話をすると、私が物忘れをすることに不足していると思われるかもしれません。実は、その反対に喜んでいるのです。もちろん、人に迷惑をかける場合は喜んでいられません。けれども私は、自分が実にくだらないことにとらわれたり、くよくよ悩んだりする人間だということをよく知っています。もし、忘れることがなかったら、失敗したことや、厳しく叱られたことをくよくよ悩んで、夜も眠れないでしょう。忘れるから、ゆっくりできるのです。こう考えると「忘れる」ということも、神様のご守護として喜ぶことができます。 記憶力というのがあるように、「忘れる力」があってよいのです。「最近、記憶力がなくなってきた」と言うのは当たっていないのです。「最近、忘れる力がますます向上してきた」と言うべきではないかと思います。歳とともに記憶力が低下するのは、ある意味では大変結構なことなのです。体はだんだん衰えていくのに記憶力が低下しなければ、イライラすることばかり増えて、しょうがありません。神様が、ちょうど良いようにしてくださっているのです。 これは勘違いということなのかもしれませんが、こんなことがありました。 私の父がいよいよ衰弱してきたときに、お医者さんが「いかがですか」と容体を尋ねました。これに対して、父は「私はこの歳まで生かしてもらい、子供も七人与えていただいた。孫も次々生まれ、誰一人欠けることなく通らせてもらっている。こんな結構なことはない。なんにも言うことはありません」と言ったのです。 お医者さんは容体を聞いたのです。しかし父は、信仰で答えたのです。そのおかげで、私たち家族は喜ばせてもらいました。人生の黄昏時を迎えたときに、何も言うことがない、結構だという父の気持ちを聞くことができました。もしあのとき、父が勘違いをしていなかったら、こんなうれしい話は聞けなかったと思います。ですから「勘違い」も「忘れること」も、ご守護だと思えるのです。 私たちは、一人でも多くの方をおぢばへ連れ帰らせていただこうと、声掛けをさせていただいています。私たちの先人・先輩方もそうであったように、声を掛けても、すんなり聞いてくれる人ばかりではありません。むしろ、迷惑に思う人もいます。 先人は厳しい迫害・弾圧のなかを通り抜けてこられました。いまでも、あまり褒められることはなく、暴言を吐かれることのほうが多いのです。そんなときに、この「忘れる力」を発揮したいと思います。私たちの先輩は、この力を大いに発揮しました。何事もなかったかのように、翌日また声を掛けに行ったのです。そして意外にも、行ってみれば、おぢばへ帰ってくださるということがあるのです。ですから、コロッと忘れて声掛けをすることが大事なのです。 つまらないことにこだわったり、とらわれたりするのではなく、「忘れる力」も大いに発揮して神様の御用をさせていただきましょう。 (終)
Fri, 04 Oct 2024 - 398 - 産後に起きた大激変
産後に起きた大激変 静岡県在住 末吉 喜恵 私は双子を含む五人の子供を育てる母親です。教会で育ち、少年会の活動などで幼い頃から多年齢の子供とふれ合い、大きくなってからも小さな子と遊ぶのが常で、自分では子供好きを自覚していました。 なので、赤ちゃんが生まれたら、子育ては自然にできると思っていたし、我が子を当たり前のように可愛がれるのだろうと思っていました。泣き始めたら、「今はお腹が空いてるんだな」とか、「おしっこが出たのかな」とか、そんなことも自然に分かるのだろうと。 でも、実際はそうではなかったのです。初めての子育ては、本当に分からないことだらけ! 何で泣いているかなんて、最初は全然分かりませんでした。生後一カ月ほどして、赤ちゃんと一緒の生活にリズムが出来てきた頃にようやく、「お腹が空いているのかな?おむつなのかな?」と、感じられるようになったことを思い出します。 産後の女性に起きること、それは四つの大激変です。 一つ目は、身体的な変化。予想外のダメージが連続します。出産とは、大怪我を負うようなものだと言われています。分娩をスムーズにするために会陰切開をしたり、帝王切開でお腹を切った後も、それはそれは痛いです! 双子を産んだ時は帝王切開で、産後一カ月は痛みが消えませんでした。 また、授乳は予想以上に重労働で、初めは時間もまちまちで赤ちゃんの姿勢も定まらないし、小さい赤ちゃんは大事に扱わなくてはいけないので、神経を使います。母乳で育てた方が丈夫な子に育つ、という周りからの助言がプレッシャーになったことも正直ありました。 二つ目は、精神的な変化です。突然母親になり、不安を抱えながらも自分がやるしかない状態に放り込まれます。妊娠中に色々な本を読んだり、出産準備のための教室を受けたりしましたが、実際に命を預かるのとは大違いで、戸惑うことばかり。その重さに知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてしまいます。 三つ目は、時間的環境の変化。徹底的に時間が細分化され、自分のための時間がゼロになります。赤ちゃんのお世話をするのに、夜昼の区別もなくなり、授乳、おむつ替え、抱っこ、寝かしつけなどなど、休む間もなく24時間稼働状態になります。いつ何が起きるのか分からないので、自分の時間はもちろんないし、トイレに行くことさえもままならない。こんな状態がいつまで続くのか、終わりが見えず不安になります。 四つ目は、社会的環境の変化です。核家族化が進む中、私も夫と赤ちゃんと三人で暮らしていました。外出もできず、話し相手がまったくいないというのは本当にしんどくて、社会から取り残されたような感覚に追い込まれます。私は妊娠期に仕事もやめたので、収入面での不安もありました。 仕事とは異なるスキルが必要で、ましてや相手は生身の人間ですから、思うようにいかないことが多く、毎日お世話をこなすだけで精一杯です。加えて、それまでは自分の名前で呼ばれていたのに、赤ちゃんと常にセットなので、急に「〇〇ちゃんのお母さん」と言われ始め、まるで自分の存在がなくなったようでした。 赤ちゃんは、一人では生きていけない存在であり、常に誰かのお世話を必要としています。もともと母親一人で子育てをするのは難しいことなのですが、しかし現実はどうでしょう? 多くの母親が周りに頼る人がおらず、不安や孤独を感じている場合が多いと思います。 ガルガル期というものを知っていますか? 産後にホルモンバランスが崩れて、情緒不安定になる時期のことで、私も経験しました。この時多量に分泌されるオキシトシンというホルモンは、子供や夫に対して愛情を深める働きを持っているのですが、産後は子供を守るために周囲に対して攻撃的になってしまうという作用もあるのです。大好きな夫にすら、「近くに来ないで!」と思った瞬間もありました。自分でもびっくりです。 それに加え、双子を出産した直後は、夜泣きがひどく眠れない日が続きました。子供は可愛い!でも、虐待してしまうお母さんの気持ちも分かるような気がする…というところまで気持ちが落ち込んだ時期もありました。 片方が寝たと思ったら、もう片方が起きるの繰り返し。二人が一度に泣くこともざらにあり、泣きの一時間コース、二時間コースはほぼ毎日。「今日はオールナイト」という日もあり、そんな状態が三年間続きました。 産後はホルモンバランスが急激に変化するので、いつも以上に不安や孤独を感じやすく、その母親を周りのみんなで支え、子供を育てていくのが本来のあり方なのです。これは「共同養育」と呼ばれていますが、これも「子供はみんなで育てるもの」と私たちが自然に思うようにしてくださる、神様の不思議なご守護なのです。しかし現実には多くの家庭で、子育ての負担が母親に大きくのしかかっています。 そうした時期に必要なのは、アドバイスでもなく、がんばれの言葉でもなく、この大変さを分かってくれる人、共感してくれる人が周囲に一人でもいること、そしてもう一つは、身体を休めること、「休息」だと思います。 赤ちゃんを産んだお母さんに寄り添い、周りのみんなで支えていける社会になることを願っています。 てびき 『天理教教典』第六章は「てびき」と題され、親神様が何ゆえに私たちをこの道にお引き寄せくださるのか、その篤き親心のほどが記されています。 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。 なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや (二 7) せかいぢうとこがあしきやいたみしよ 神のみちをせてびきしらすに (二 22) 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。 さて、教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 山中忠七さんの妻・そのさんは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、何日もの間、流動物さえ喉を通らず、医者にも匙を投げられてしまいました。そんな時、近隣の者から話を聞いた忠七さんが、教祖のお屋敷を訪ねると、次のようなお言葉がありました。 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」 親神様による「てびき」の実際を伝えたお話です。私たち人間は、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと望まれる親神様によって創造されました。すべての人間は、陽気ぐらし実現のための種を持つ存在として生かされているのであって、それが皆が幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って自ら方向を狂わせてしまうからです。 親は、子供が可愛いからこそ、その思案や行動がもどかしく、時に腹を立てることもあります。意見や躾も厳しくなるでしょう。親神様はこのように仰せになります。 にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもふてしやんしてくれ (十四 34) にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) 私たちを何とか陽気ぐらしへ導こうとされる親心が、実に率直に表れているおうたです。その親心に応えて心を正すところに、親神様はその心を受け取ってご守護をくださるのです。 病気や事情の嘆きの中に身を落とし込んでしまうばかりでは、事態は改善しません。大切なのは、親神様の慈愛のてびきを受け止め、前を向いて立ち上がることではないでしょうか。 (終)
Fri, 27 Sep 2024 - 397 - 優先順位
優先順位 大阪府在住 山本 達則 ある日、何気なくインターネットを検索していると、海外のあるお話に出会いました。「マヨネーズの瓶と二杯のコーヒー」というタイトルで、海外でも大きな反響があったお話です。 ある大学の哲学の教授が、授業が始まると、空っぽのマヨネーズの瓶を取り出し、その中にゴルフボールを入れていっぱいにしました。次に教授は小石の入った箱を取り出し、それを瓶の中にあけ始め、ゴルフボールの間を小石で埋めました。 次に教授は砂の入った箱を取り出し、それもまた瓶の中に入れて隙間を埋めました。そして最後に、二杯のコーヒーを取り出して瓶に注ぎ、砂の隙間をすべて埋め尽くしました。不思議な組み合わせに、学生たちは笑い出しました。 「さて」、笑いが静まると、教授は言いました。 「この瓶は、あなた方の人生を表しています。最初に入れたゴルフボールは、人生で最も大切なものです。それは家族であり、健康であり、友人、情熱など、それさえあれば、あなたの人生は満ち足りたものになります。次に入れた小石は、仕事や家、車など。次の砂は、その他のほんの小さな、ささいなものです。 人生において重要なこと、『ゴルフボール』を大事にしてください。子供と一緒に遊び、健康診断を受け、パートナーと一緒に食事を楽しんでください。掃除や物の修理など、家のことをする時間はいつでもあります。 大切なのは、優先順位を間違わないということです。小石や砂で人生を満たしてしまっては、ゴルフボールの入る余地がなくなります」 ここまで話すと、一人の学生が「コーヒーは何を表しているのですか?」と尋ねました。教授は、「あなたの人生がどれだけ手一杯に見えても、友人とコーヒーを飲む時間はいつでもあるということを表しています」と言って、微笑みました。 人間は誰しも、欲望や損得勘定で動いたり、人の好き嫌いで対応を変えたり、いわゆる「自己中心的」な考えを持っています。そしてその感情は、「家族」に対しても向けられることが多々あります。夫は仕事が忙しくなると、妻や子供の声に耳を傾けなくなったり、邪険にしてしまったりすることがあります。 また、家事を担っている妻にしても、余裕がなくなると、夫の仕事に理解を持てなくなったり、思い通りにならない日常にイライラして、家族に当たってしまうということもあるでしょう。子供は子供で、願い通りにならないことに突き当たると、家族に対する態度や言動が粗暴になることもあるかも知れません。私自身も父親として家族と過ごす中で、大いに心当たりのあることです。 このような日常を俯瞰してみると、夫は家族の幸せのために、必死になって仕事をしている中でのこと。家事を担っている妻にしても、家族のことを大切に思うがあまり、行き過ぎた行動に出てしまうのだと思います。 このように、私たちは優先順位を間違ってしまうことがあるのです。お互いの人生という器の中に、何よりも大切な「家族」というゴルフボールを入れる前に、「仕事」や「家事」、すなわち小石や砂で瓶を満たしてしまっているのです。 もちろん、仕事や家事は適当にこなせばいい、ということではありません。何より大切なのは、家族や周りの人たちに対する「心」の使い方ではないでしょうか。 腹が立つけれど、笑ってみよう。面倒だけど、自分から進んでやってみよう。相手が悪いと思っても、こちらから謝ってみよう。忙しい時でも、しっかり相手の話に耳を傾けよう。そういった心の使い方が、ゴルフボールで満たされる人生につながっていくのだと思います。 天理教では、ご守護を十分に頂くための「順序」の大切さを教えられています。 「まいたるたねハみなはへる」 「人をたすけて我が身たすかる」 まず、種を蒔くという行動があってこそ、その先に芽生えを見ることができます。また、あくまで人をたすけて我が身がたすかるのであって、「自分がたすかったら人をたすけますよ」では順番が逆なのです。それではいつまで経っても、神様のご守護に浴することはできません。 地球上のすべての人は、「幸せになりたい」という願いを持ち合わせています。80億人の人がいれば、80億通りの幸せの形があります。同じ家族の中でも四人いれば四通り、五人なら五通りの「幸せの形」があるでしょう。 私たちは、たとえ家族といえども、人の感情や思いをコントロールすることはできません。自分でコントロール出来るのは、自分自身の心だけです。 その自由になる心を、自分の喜びや欲得のために使うのではなく、人様のために費やすことが、遠回りのようでいて、幸せを心から実感できるための一番の近道ではないかと思います。 空いた時間、たまにはコーヒーを飲みながら友人と語らい、自分自身の日常を振り返ってみてはいかがでしょうか。 神、月日、をや 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、親神様の存在とはいかなるものか、私たち人間が得心しやすいように様々な言い方でお示しくだされています。直筆による「おふでさき」において、はじめは「神」といい、次には「月日」と呼び、さらには「をや」と言い表しています。 神という言葉は、当時、信仰の対象を指すものとして一般的に広く使われており、庶民の多くは、福を招き、禍を避けるためにあらゆる神々に祈願していたものです。そのような背景の中、教祖は、 たすけでもをかみきとふでいくてなし うかがいたてゝいくでなけれど (三 45) と仰せられ、親神様は、それまでに拝み祈祷の対象とされていた神々とは全く違う存在であることを示されました。親神様こそ、この世界と人間を造り、昔も今も変わることなく人間の身体から日々の暮らしに至るまで全てを守護している神である。そのお働きを、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと言葉を添えてお説きくだされています。 また、次に親神様を「月日」と呼び、空に仰ぎ見る太陽や月によせて、より具体的にその存在を感じ取れるよう導かれました。太陽の光と熱は、あらゆる物の命の源であり、夜の暗がりを照らす月の明かりもまた、地球の生命にとって欠くことのできない恵みです。 しかもそれらは、何の分け隔てもせず、惜しむことなくこの世のすべてを照らし出している。このような姿を指しながら、昼夜を分かたず、すべての存在に恵みを与えられる親神様の存在を示されたのです。 そしてさらには「をや」という言葉で、身近な肉親への情を喚起させるよう、親しみを込めて親神様を言い表しています。すなわち、親神様ははるか彼方にあり、絶対の立場から人間を支配される、そのような遠い存在ではない。むしろ私たち人間のもとへと、どこまでも身を寄せられつつご守護くださる神様であり、いついかなる時も、すがることのできる親身の親であることを示されたのです。 にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもをてしやんしてくれ (十四 34) にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ (四 79) これらのお歌からあふれ出る親としての情愛は、いかばかりでしょう。親神様こそ、全人類、すべての子供が可愛いという親心から、人間本来の生き方である陽気ぐらしが実現できるようにと、日夜心を砕き、お見守りくださる真実の神なのです。 (終)
Fri, 20 Sep 2024 - 396 - SNSたすけ
SNSたすけ 千葉県在住 中臺 眞治 四年前、世間はコロナ禍となり、私たち家族も「ステイホーム」ということで、教会の中で過ごしていましたが、元々信者さんが一人もいない教会なので、何をしたらいいのか分からないという日々でした。そうした状況の中、私自身、神様から何かを問われているような気がして、夫婦でよく相談をしていました。 そんなある日、天理教青年会主催の「SNSたすけセミナー」が開催され、私も参加しました。「SNSたすけ」とは、SNS上で「生きる気力がない」というようなメッセージを発信している方とつながりを持ち、相談に乗る活動です。そして、必要な場合には教会で受け入れ、衣食住を提供しながら、その方が生き抜いていけるように手だすけをします。 私どもの教会には空いている部屋がいくつかあるので、これなら自分たちにも出来ると思い、妻と半年ほどの相談期間を経て、コロナ禍の令和3年3月に始め、現在まで29名を受け入れました。 活動を始めて間もない頃、ある30代の女性、Aさんとつながりができました。Aさんはすでに自ら命を絶つ日を決めていて、その日までのカウントダウンを日々SNS上で更新しながら、一緒に死んでくれる人を募っていました。 もしかしたら、教会の中で自殺してしまう可能性もあり、妻にその不安を話しましたが、最終的には二人で覚悟を決め、教会でお預かりすることになりました。 教会で暮らし始めてからも、カウントダウンは日々更新され、心配な状況は続きましたが、うちの子供たちを可愛がってくれたり、他の入居者の方とテレビを見ながら大笑いしたりと、楽しそうな姿も見られました。 日によって色々なことがありましたが、数週間が経った頃、Aさんがふと「今は死にたいなんて全く思わないです」と話してくれたことがあり、私たち夫婦もとても嬉しい気持ちになりました。おそらくAさんは、教会で入居者の方や私たち家族と共に過ごすうちに、それまで感じていた孤独感や絶望感が徐々に心の中から消えていったのだと思います。 その後、Aさんのお父さんが教会へお礼に来てくださいました。 「心配でしたが、家族にはどうすることも出来ませんでした。この教会にお世話になっていなかったら、娘は生きていなかったと思います」と、涙を浮かべて話してくださいました。 私たちが何か特別なことをしたわけではありません。振り返ってみると、神様がAさんにとってちょうどいい人との縁を、その時その時に応じてつないでくださっていたのだと思います。 Aさんはその後、一年ほど教会で暮らしながら仕事に通っていました。そして教会を出た一年後に結婚し、先日、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて教会を訪ねて来られ、共に喜びを分かち合いました。 SNSたすけでは、Aさんのように嬉しい出会いや別れもあれば、やるせなさが残る出会いや別れもあります。しかし、それらの縁はすべて神様がつないでくださっているのだと思う時、このおたすけは、私たち夫婦にとっての有難い学びの場であると感じることができるのです。 また、こうした活動は私たち夫婦の力だけでできるものではありません。アドバイスをして下さる方、寄付などで協力をして下さる方、トラブルがあっても許して下さる近隣住民の方など、活動を理解し、応援して下さる方々のおかげで継続できている活動です。そのことを思う時、私たちもたすけて頂いているのだなあと温かい気持ちになり、困っている人を前にした時には、自分にできることを何かさせてもらおうという気持ちになるのです。 私自身、コロナ禍を振り返ってみて思うことがあります。この期間、「ソーシャルディスタンス」や「ステイホーム」が叫ばれ、人との距離をとることが大切にされる一方で、孤立や貧困の問題が浮き彫りになり、そうした報道が連日のようにされていました。 こうした社会状況にも神様の親心が込められているのだとすれば、私たち夫婦が神様から問われていたのは、信仰の有無にかかわらず色々な人と出会い、たすけ合うという生き方であったのではないかと感じています。 天理教の原典「おふでさき」では、 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ (三 40、135) にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) と記され、この世の中は神様の懐住まいであり、神様は人間に陽気ぐらしをさせてやりたいという思いいっぱいでご守護を下さり、導いて下さっているのだと教えられます。 つまり、平穏無事な日々はもちろんですが、目の前で起こる困難にも、陽気ぐらしをさせてやりたいという神様の親心が込められているのであり、それに対してどう応えさせてもらうのか、と思案することで陽気な生き方へと軌道修正していくことができるのだと思います。 悲しみや苦しみに遭遇した時には、「どうしてこんなことが起こるのか」と落ち込んでしまうこともあります。悲しみが深ければ、それが神様の親心だとはとても思えない時もあるでしょう。そうした中で、どう応えさせてもらおうかと思案を重ねるのは簡単なことではありません。 しかし、それでもなお、「たすけるもよふばかりをもてる」とまで仰せられる、その温かい親心だけは忘れずに生き抜いていくことが、大切なのではないかと感じています。 むらかたはやくにたすけたい 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、 むらかたはやくにたすけたい なれどこゝろがわからいで (四下り目 六ッ) なにかよろづのたすけあい むねのうちよりしあんせよ (四下り目 七ッ) とあります。 村方とは、地元の人、お屋敷周辺に住まう人々のことです。近くにいる者なら尚更早くたすけたいが、なかなか神の思惑を分かってくれない、そのもどかしさが表れています。 それまでも教祖に身近に接していた近隣の人にすれば、月日のやしろとなられてからの行動は、到底理解できるものではありませんでした。「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのままに、食べ物や着る物、金銭まで次々に施され、ついには家形まで取り払う様を側で見て、「あの人もとうとう気が違ったか。いや、憑きものやそうな」と嘲笑を浴びせ、ついには訪ねる者さえいなくなったのでした。 そうした中、教祖自らお針の師匠をつとめられ、決して教祖が憑きものでないことを人々に理解させたり、さらに安産のご守護である「をびや許し」をきっかけとして、おたすけを願い出る人が少しずつ出始めたのです。 直筆による「おふでさき」には、 村かたハなをもたすけをせへている はやくしやんをしてくれるよふ (四 78) せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ (四 79) とあります。 村方の人々が、親神様を真実の親として慕い仰ぐようになれば、教祖のされることに疑いを持たず、子供として素直についていくことができる。そのために教祖は不思議なたすけを相次いで見せられ、やがて教祖を生き神様と慕い寄る大勢の人々で、お屋敷は賑わうようになっていったのです。 さらに教祖は、「なにかよろづのたすけあい」と、信心の歩みの目指すべき姿として、「たすけ合い」ということを仰せになり、それについて心の底からよく思案をするようにと教えられています。 「おふでさき」に、 このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら (十二 93) 月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ (十二 94) とあります。 世界中の誰もが人をたすける心になって、たすけ合いを実践できれば、親神様はその心を受け取って、どんなたすけもすると仰せられます。そこに至るまでにまず、「むらかた」と示される、身近な人々に親神様の思召を伝えること。その大切さを、教祖は身をもってお教えくだされたのです。 (終)
Fri, 13 Sep 2024 - 395 - 20年後のラブレター
20年後のラブレター 岡山県在住 山﨑 石根 6月の初旬、妻から私宛てのハガキが届きました。ところが、その郵便を受け取った妻自身が、「あれ?何で私から手紙が届いてるんやろう?」と、心当たりがないようなのです。 よく見ると、宛名が市町村合併以前の住所になっています。そして丁寧に、「市町村合併で住所が変わるかもしれないので、その場合は天理教の教会に連絡してください」との注意書きと共に、教会の電話番号まで書かれていました。 二人で不思議がりながら通信面に目をやると、20年前の日付けと「20年先へのメッセージ」というタイトルの下に、妻の直筆の文章が書かれているではありませんか。 何と、当時29歳の妻から、20年後の私に宛てたラブレターだったのです。この年に天理市の事業として、タイムカプセルに手紙を入れるイベントがあったようで、その時に妻が出した手紙がこの時届いたのです。 「サッキー、今、元気ですか? 今、幸せですか? 私たちは互いにたすけ合って、補い合って、思いやりのある夫婦でいられてるでしょうか?あの頃の私は不足がちの毎日を通っていましたが、サッキーの優しい言葉や周りの人からの神様のお話しで、心に潤いを与えてもらいました。今の私は、逆にサッキーや周りの方々に返せているでしょうか?」 私は結婚当初、妻からサッキーと呼ばれていたのですが、その頃の彼女は、20年後もきちんと夫婦でいられているか、教会で生活をしているのか、子どもを授かっているのか。現在の私たちの様子は全く想像もつかなかったはずです。 そんな新婚ホヤホヤの若い妻からの20年越しの問いかけに、私は少し照れながら、「元気でたすけ合っているよ」と呟き、現在の彼女に「十分すぎるぐらい返してもらってるよ」と伝えました。 20年前の6月13日、私たちは天理市にある教会本部の教祖殿にて結婚式を挙げました。ご縁のあった教会本部の先生に主礼を務めて頂き、夫婦の固めの盃を頂戴しました。 今年の結婚記念日には、挙式の時に読み上げて頂いた祝詞を20年ぶりに取り出し、改めて二人で読んでみたのですが、その中の次のような内容が目に留まりました。 「未だ二人は至らぬ勝ちではございますが、今より後は互いに変わることなく、千代の契りを結び、常に教祖のひながたを心に湛えて、如何なる中も一つ心に睦び合い扶け合いつゝ日々晴れやかに心陽気につとめさせて頂く覚悟でございます」 折りしも20年前の妻からの「たすけ合っているか」との問いかけも相まって、「ああ、結婚とはこういうことなんだなあ」と改めて私は感じ入ったのです。 このように手紙であったり、祝詞もそうですが、実際に書いた文字を読み返したり手に取ることが出来ると、嬉しさも一入です。 この20年間で世の中は目まぐるしく進展し、スマートフォンやタブレットの普及により情報伝達のスピードは格段に上がりました。そのような、老若男女を問わずSNSを利用する時代になったからこそ、誰かが自筆の文字に認めてくれた想いが、一層嬉しく感じるのでしょう。 天理教の教祖「おやさま」は、ご在世中に自ら筆を執って「おふでさき」というご神言を書き残されています。「おふでさき」は天理教の原典であり、私たちが常日頃から親しみ、拝読しているものですが、この教祖のお言葉にふれる度に、20年どころか、実際に教祖が書かれた140年以上前にタイムスリップして、教祖から直接メッセージを頂いているような心持ちになるのです。 そうして私も妻と同じように、神様のお言葉によって心に潤いを与えて頂いているとすれば、これを教祖からのラブレターだと表現するのは言い過ぎでしょうか。 さて、記念日から三日後の6月16日は、世に言う「父の日」でした。その日は一日御用で、夜帰宅したのですが、何だか子どもたちが慌ただしい様子です。どうやら中2の長女に急かされながら、小6の息子と小4の娘が慌てて手紙を書いているようです。 そして、私がお風呂から上がると、3人が「とと、いつもありがとう」と言いながら、父の日の手紙を渡してくれました。長女の心のこもった手紙に比べ、下の二人の手紙はどこか書かされた感が否めない内容でしたが、それでも父親としてこれほど嬉しいことはありません。末娘の手紙には、三回分の肩もみ券まで添えられていました。 さらに翌日の月曜日には、天理の高校で寮生活を送っている息子二人からも、父の日の手紙が送られてきました。 結婚記念日に何か美味しい料理を食べに行ったり、父の日に何か高価なプレゼントをもらったりした訳ではありませんが、妻と子どもたちから何にも代えがたい贈り物を受け取った私は本当に幸せ者だと、しみじみ思いました。 今のこの気持ちをずっと忘れずに、今回のこの原稿も20年後に家族で読み返すことができたなら、どんなに幸せだろうと、まだ見ぬ未来を思い描きます。「肩もみ券」は、それまで大事にとって置こうと思います。 だけど有難い 「火水風」 親神様のお働きを十分に頂戴する通り方とは、どのようなものでしょう。 親神様は、ご自身のお働きについて端的に「火、水、風」と教えられます。それぞれ、どんなものか見てみましょう。 まず「火」。私たちは太陽の光や熱、温みなしに生きていくことはできません。そして「水」。地表の70%は水、私たちの体の70%も水で出来ています。 「火」は太陽、「水」は月。最近の研究で、月には、かなりの量の水が存在すると言われるようになりました。そしてまた、月は地球の生命にとってなくてはならないものであることが、あらためて分かってきました。 地球は自転と公転を続けています。もし月の引力がなかったら、これらの運動が不規則になり、地球環境はとてつもなく厳しいものになるというのです。地球に生命が誕生するには、太陽と地球が、ちょうどいまの距離になければならなかったということは、よく知られています。その確率も相当に低いわけですが、加えて月の存在なしに、現在の地球環境は成り立たないのだそうです。この宇宙のなかで、宝石のような地球の存在、それは太陽と月があるおかげなのです。 潮の満ち引きも、月の引力によるものです。海岸で見られるあの潮の満ち引きは、私たちの体のなかの満ち引きでもあります。人間の誕生や出直しの時期は、私たちの体と月の運行に深い関わりがあるといいます。 「火」と「水」、温みと水気の調和のおかげで、私たちは生きていくことができます。世界の平均気温が数度上がれば地球は砂漠化します。逆に下がれば氷河期がやって来ます。気温にすれば、わずか数度の違いです。同じように、私たちのこの体も、体温が三六度前後で一定しているから生きていけるのです。数度上がっても下がっても、たちまち動けなくなってしまいます。 そして、もう一つのお働きが「風」です。これは、大気や空気のことです。大気や空気は目に見えないので、その存在になかなか気づきません。それを、教祖は「風」と教えてくださいました。なるほど、見えなくても、空気が動いて風になると頬に感じるし、旗ははためきます。見えない姿が動く風になって、私たちに見えるのです。この空気、大気がなくなると、私たちは生きていけません。動物は酸素を吸って二酸化炭素を出し、植物は二酸化炭素を吸って酸素を出しています。大気というものがなかったなら、地球上の生命は存在できません。 「火、水、風」は、まさに親神様の肝心要のお働きです。では、この親神様のご守護をいっぱい頂戴するためには、どんな通り方をしたらいいのか。この道の先人先輩は、こんな悟り方をしました。それは、「火、水、風」のような心で通らせていただくということです。 まず「火」とは、どんなものでしょうか。昔は暖炉の火や囲炉裏の火がありました。火は、私たちに光と温みをたっぷりと与えてくれます。そのおかげで食事を作ることもできます。しかし、火が燃え尽きると、灰になります。蝋燭の火でいえば、最後まで周りを照らして自分は消えてなくなるのです。 「水」はどうでしょう。水は低い所へ流れていって、しかも周りの汚れを取っていく働きをします。「風」もなくてはならないものですが、私たちの目には見えません。見えないけれど、大切な陰の働きをしているのです。 火のような姿とは、周りを温め、輝かせ、そして自分は消えていくような働き方。水のような姿とは、低い心で、人の汚れを自分が被るような通り方。風のような姿とは、大切な仕事をしながらも自己主張をしない陰のつとめ方。こうした「火、水、風」のような心の姿勢で私たちが通れば、間違いなく、親神様のお働きを十分に受けることができると思います。 (終)
Fri, 06 Sep 2024 - 394 - おさづけは世界共通
おさづけは世界共通 タイ在住 野口 信也 私は22歳の時にタイへ留学に出させてもらいましたが、一か月を過ぎた頃、父が倒れたとの連絡があり、日本へ一時帰国しました。そうした節もあり、再びタイへ戻る時、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐに病の平癒を願うおさづけを取り次ぐ」と心に決めました。 私は天理で育ちましたので、周りは天理教の方ばかりです。そんな、いつでもおさづけを取り次げる環境が、かえって二の足を踏んでしまう原因ともなり、取り次ぐ機会を逃すことがよくありました。でも、タイでは私が躊躇してしまえば、その方は一生おさづけを取り次がれる機会を失ってしまう。当時の私は、若いなりにそんなことを考えていました。 タイに戻り、再度タイ語学校へ通い始めました。数日後、クラスメイトが欠席したので、理由を聞くと、お子さんが腕の骨を折ってしまったとのこと。早速、お子さんが入院しているクリスチャン病院へお見舞いに行きました。 そして、付き添っているクラスメイトに、息子さんにおさづけを取り次がせて頂きたいとお願いしましたが、「私はクリスチャンで洗礼を受けているので、受けることができません」とのお返事でした。 しかし、病人さんには必ずおさづけを取り次ぐと、親神様、教祖に約束をしていますから、手ぶらでは帰れません。なので、同室に入院しているタイ人の子供たちに取り次ごうと、親御さんにたどたどしいタイ語で天理教について説明し、何とか取り次がせてもらいました。 その後、毎日学校帰りにその病院におさづけを取り次ぐために通いましたが、ある日突然、「ここはキリスト教の病院です。勝手なことはしないでください」と看護師に言われ、そこでの取り次ぎはできなくなってしまいました。 そんなある日のこと、タイ在住の信者さん方が団体でおぢばがえりをするので、空港へ見送りに行きました。現地で布教している方々と一緒に皆さんを見送った後、出迎えの用もあった私は、一人空港に残りロビーで待機していました。 すると、少し離れた所が騒がしくなり、人だかりが出来ました。どうやら女の子が倒れたようで、そばにいた大柄な西洋人の男性が彼女を抱えて椅子に寝かせました。 私は正直、「あ、しまった。見てしまった」と思いました。病気の方を見たら必ずおさづけを取り次ぐと心に決めていたものの、なかなか勇気が出ません。布教師の皆さんも帰った後で、この大きな空港の人だかりの中で、天理教の信者は私一人かも知れない状況です。 色々考えをめぐらせた挙げ句、「よし、氷でも持って行って、もし症状が良くなったら、今日はおさづけはやめておこう」と心に決め、近くにあったお店で氷をもらい、恐る恐る持って行きました。しかし、女の子の症状は良くなるどころか「頭が痛い」と涙を流し、とうとう痙攣まで起こしてしまいました。 「こうなったら仕方ない」。私は周りにいたその子の友達に、「私は天理教という宗教を信仰するものですが…」とタイ語で話しかけました。すると、一人の男の子から「関係ない奴はあっちへ行け!」と言われ、その態度にカチンと来てしまい、気がつけば「いえ、私はこの子をたすけますから」と勢いよく答えていました。 そして、半ば強引に倒れている子の前に進み出て、柏手を二回打ち、おさづけの取り次ぎを始めました。 ただ、こんな人の大勢いる場所で取り次いだ経験がなかったので、緊張で気が動転していて、何度手を振って、何度神名を唱えたのか、まったく覚えていません。それでも何とか取り次ぎを終え、柏手を二回叩くと、次の瞬間、ひどい痙攣をしていたその子が、ガバッと上半身を起こし、頭をポンポン叩きながら、ケロッとして「あー、頭痛かったあ」と言ったのです。 私は何が起きたか分からず、「良かったですね」と言うのが精一杯でしたが、周りで見ていた友達が、「お兄さん、ありがとう、ありがとう」と、合掌をしながら次々にお礼を言ってくれました。 数分後、空港のスタッフがやって来て、念のためと言って、起き上がった彼女を医務室へ連れて行きました。私はホッとして、出迎えの飛行機の到着までまだ時間があるので、コーヒーでも飲もうかと歩き始めました。 そこで、ふと視線を感じ周りを見ると、おさづけを取り次ぐ様子を見ていた大勢の人が、「こいつは何者だ」という感じで、こちらをジーッと見ているのです。何とも言えず、いい気分でした。 大きな空港に、様々な国籍や職業を持ち、信仰する宗教も違う大勢の方がおられたはずです。しかし、私が居合わせたその日、その場所でその女性を苦しみから救うことが出来たのは、唯一、天理教を信仰する私たちが教えて頂いている〝おさづけ〟だったのです。 親神様、教祖とお約束をすると、その決心を試されるような状況に出会うことがあります。私は急な場面に遭遇し、一旦は逃げ出しそうになりましたが、何とか自分の都合を捨てて、親神様、教祖とのお約束を守ることができ、そこに鮮やかなご守護をお見せ頂きました。 本当にもったいない、有難い出来事で、その後の私の信仰生活において、大きな一歩であったと思います。 戦いを治める 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の二下り目で、 「四ッ よなほり」 「六ッ むほんのねえをきらふ」 「十デ ところのをさまりや」 と教えられています。 世直りとは、この世界を陽気ぐらしへと建て替えること。謀反とは主君に背くことや、広く対立や抗争を意味しており、所の治まりとは、人間社会の場の治まりと解されるでしょう。 この二下り目は冒頭で、「とん/\とんと正月をどりはじめハ やれおもしろい」と、足取りも軽やかにおつとめをつとめる楽しさが歌われています。つまり、二下り目全体を通して、おつとめによって世の対立の治まりを願い、世界平和の実現に向かうべきことを教えられているのです。 明治十年、国内最後の内戦と言われる「西南戦争」が勃発した頃、教祖は直筆による「おふでさき」で、争いを治める道筋を次のようなお歌で示されました。 せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43) このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや (十三 44) 高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい (十三 45) それよりもたん/\つかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ (十三 46 ) それしらすみなにんけんの心でわ なんどたかびくあるとをもふて (十三 47) 月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい (十三 48) これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに (十三 49) 月日よりしんぢつをもう高山の たゝかいさいかをさめたるなら (十三 50) このもよふどふしたならばをさまろふ よふきづとめにでたる事なら (十三 51) 世界中の人間は皆きょうだいであり、それぞれの身体は皆神のかしものであるのに、人々はその真実を知らず、なにか人間に高い低いの分け隔てがあると思っている。神は一れつきょうだいという真実をはっきりと知らせたいのだ。そして皆がこれを知ったならば、必ずや争いの根は切れてしまうだろう。神は上に立つ者の戦いを治めることを切に願っているのだが、そのためには早く陽気づとめに取り掛からなければならない。 このように、世界の治まり、世界平和実現という救済過程の中で、おつとめが持つ重要な意義をお示しくだされています。 (終)
Fri, 30 Aug 2024 - 393 - おやつのポシェット
おやつのポシェット 兵庫県在住 旭 和世 今年の元旦、能登半島で信じがたいような災害が起こり、一変した街の様子が報道を通して伝わってきました。 私が住んでいる神戸の街も、29年前の1月17日、大地震に襲われました。嫁ぎ先の教会は新神戸駅近くにあり、当時の避難生活の話をよく聞かせてもらいます。誰も予想だにしなかった天変地異に、成すすべもなく、日常がどれだけ有難いものだったのかを思い知らされた。そして、変わり果てた景色の中で、必死にたすけ合って復興への道のりを歩んできた。皆さん口々にそう話してくださいます。 神戸市の小学校では、年が明け、1月17日が近づくと「しあわせ運べるように」という歌を歌います。神戸の街の復興を願うこの歌を、子供たちが初めて聞かせてくれた時、私は涙が止まりませんでした。 親しんだ街並みが一瞬にして消え去り、切なくて、悲しくて、倒れそうな心を何とか奮い立たせている情景が目に浮かぶような歌なのです。 私は特に「届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように」という最後の歌詞にいつも感動します。「しあわせを運びたい」という、辛い思いをした人たち自らが発する前向きなメッセージに心を打たれるのです。 神様のお言葉に、「人たすけたら我が身たすかる」とあります。このお言葉は、「自分がたすかりたいから人をたすける」という意味ではなく、人のたすかりや幸せを願う心を持つことが、何より自分がたすかっていく姿だと教えられているのです。そんな神様がお望みくださっている「人のたすかりを願う心」が、この歌から伝わってきました。 私どもがお預かりする教会では、「こども食堂」や「学習支援」を行っています。その活動を通してつながった地域の方から、「子供たちに震災のことを伝えたい」との声があがり、ある日のこども食堂で、神戸で被災された時のお話をして頂きました。 そして、お話のあと、参加してくれた子供たちと一緒に、被災した能登の子供たちに届ける「おやつのポシェット」を作りました。 被災地には、命に直結しないおやつなどは中々届きにくく、「あめ玉一つあったら、きっと子供たちは笑顔になれるだろう」という被災経験から生まれた取り組みで、何種類かのお菓子を詰めたポシェットをたくさん作り、それに応援メッセージを添えました。 すると、そのポシェットが現地の避難所に届いた翌日、私のケータイに一本の電話がかかってきました。 「昨日、能登市でおやつを頂いた子供の父親です。子供がとても喜んでいるので、ひと言お礼が言いたくてお電話しました」。 そのお父さんは、「みそらこども食堂」からの支援だと聞き、インターネットで調べて電話をくださったのです。 私がびっくりして声も出さずにいると、お父さんに続いて、「お菓子ありがとう!」と、お子さんが直接お礼を言ってくれるではないですか。私は急なことで慌てましたが、「神戸もね、大きな地震があって大変だったけど、みんながたすけ合って元気になれたのよ。能登もいま大変だと思うけど、たすけ合ってがんばろうね!お電話ありがとうね!」と伝えることができました。 このお電話を頂いて、神戸のみんなの真実が能登の子供たちに伝わったんだという喜びがあふれてきました。そして、こんなに喜んでくださるなら、継続的な支援として続けられたらいいなと思いました。 しかし、被災地の様子は刻々と変わっていきます。避難所ではまだまだ帰宅できない方も大勢おられますが、子供は二次避難をしているため、人数は減っていると聞きました。 その子供たちに、どうすれば継続的にポシェットを届けられるかと思案していると、ある方から、珠洲市で自ら被災しながらも、地域支援のために活動されている「メルヘン日進堂」という和洋菓子店を紹介されました。 そのお店では、被災された方たちの憩いの場として「たすけ愛カフェ」を開設していて、その方いわく「そこの社長さんだったら、『おやつのポシェット』をカフェに置いてくださると思うよ!」とのことでした。 そのお店の支援活動については、今年3月の『天理時報』に大きく取り上げられていたので、こんな素晴らしい活動をされている真実の方がいるのかと、私も感動と勇み心を頂いていました。 さっそく連絡してみると、お店の再開準備で忙しい中を快く引き受けてくださり、ポシェットを店内に置いて頂けることになりました。 こうして、神戸の子供たちが心をこめて作った「おやつのポシェット」と応援メッセージは、メルヘン日進堂さんのステキなお店を窓口にして、地域の子供たちに届けられています。 このようなめぐり合わせを頂けたことが本当に有難く、親神様、教祖に心から感謝申し上げています。 天理教の教祖「おやさま」は、ひと房のぶどうを手にとって、小さな男の子に仰いました。 「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで」と。 この度のご縁が、このお言葉を思い出させてくれました。人と人とがみんな、まあるい心でつながる事で、笑顔が生まれ、心が温かくなり、力が湧いてくるのです。 これからも、被災地の一日も早い復興と人々の心の安寧を願い、小さな取り組みではありますが、心をつなげていきたいと思っています。 おふでさき 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」は、天理教の原典の中で最も重要なものであり、教えの根幹をなすものです。 このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ (一 21) せめるとててざしするでハないほどに くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22) なにもかもちがハん事ハよけれども ちがいあるなら歌でしらする (一 23) 「理でせめたる世界」は、理詰めと解釈できるでしょう。この世は理詰めの世界である。その理合いについては、全て歌でもって説いていく。決して手で指し示したり、また、口で言うのでもない。筆先をもって教え諭すのだ。そして、何か通り方に間違いがある場合にも、それは歌によって知らせていく。 ここに、教祖の深い親心が感じられます。直接口に出して間違いを指摘されれば、あまり面白くないと感じる人もいるでしょう。そこで、自ら悟っていけるように話を進めてくださるのです。しかも普通の文章、いわゆる散文ではなく、歌で示すことによって、わずかな字数の中から深い意味合いを感じ取れるようにお計らいくださっています。ゆえに、 だん/\とふてにしらしてあるほどに はやく心にさとりとるよふ (四 72) これさいかはやくさとりがついたなら みのうちなやみすゞやかになる (四 73) このような、神の思いを自ら悟ってくれ、とのお歌も多いのです。 しかし、この親心が分からない人間の側からすれば、そんなにじれったいことをせずに、そのものズバリを言ってくれたほうが分かりやすいのに、との思いが拭えないのです。 そこで、「言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」とのお言葉を噛みしめなければなりません。「言わん言えんの理」つまり、神様の口からああせい、こうせいと言われてから行動に移すようでは、鮮やかなご守護は頂けないのです。 「おふでさき」全1711首の最後は、 これをはな一れつ心しやんたのむで (一七 75) とのお歌で締めくくられています。教祖は、私たちにどこまでも、自ら思案し、神の思いを悟ることを強く望んでおられるのです。 (終)
Fri, 23 Aug 2024 - 392 - ランドセル
ランドセル 岐阜県在住 伊藤 教江 三女の佳乃が五歳の時です。突然息つくことも出来ないほどの激しい咳をし出し、それが何日も止まらなくなりました。42、3度の高熱も続き、肺炎と診断され、入院を余儀なくされました。一度は回復して退院できたものの、半年も経たないうちにまた肺炎に見舞われ、再度入院することになりました。 二度の肺炎で、小さな身体は弱り果てていました。目の前で苦しんでいる我が子、代われるものなら代わってあげたい…でもそれは叶わないという辛さと悲しさで、私は心を倒していました。 そんな時、主人の母が、「より子はねえ…、より子はねえ、病院から元気に帰ってくることが出来なかった。でも、佳乃ちゃんはきっと元気になって帰って来てくれるから、何も心配しなくていいよ」と声を掛けてくれました。 より子ちゃんは、義母の三女で、主人の妹にあたります。より子ちゃんは五歳の時に白血病を患いました。何ヶ月も辛く苦しい闘病生活を送りながらも、早くから買ってもらった新しいランドセルを病院のベッドの枕元に置いて、元気に小学校へ通うことを何よりも楽しみにしていました。 でも、より子ちゃんはランドセルを一回だけしか背負うことが出来ずに、その後も病院のベッドで何度も何度も血を吐きながら、短い生涯を閉じたのでした。 より子ちゃんが出直した後、教会の客間の袋戸棚の中の誰にも見えない所に、「より子は死ぬの…」と書いてあるのが見つかりました。辛い闘病生活の中、最後の一時退院でうちに帰ってきた時により子ちゃんが書いたものでした。 血を吐くたびに、「私はこの先どうなっちゃうんだろう…」と不安は募っていくけれど、それは誰にも言えない。ましてやお父さんやお母さんに言ったらどんな悲しい顔をするだろう…。小さな胸は張り裂けそうだったに違いありません。 そうして病状が悪化する中、より子ちゃんはお母さんに必死の思いで尋ねたのです。 「お母さん、より子は死ぬの?死んだらどうなっちゃうの?」 苦しむ我が子にそう聞かれて、もし私が母親の立場なら、きっと何も言えず、ただただ涙があふれるばかりだと思うのです。 しかし義母は、「より子、何も心配しなくていいよ。より子は死んだら、またお母さんのお腹の中から産まれてくるんだよ! だから、何も心配しなくていいんだよ!」そう微笑みながら答えたのです。 我が子を失うという、これ以上ない辛く悲しいふしの中、義母はひたすらに教祖を信じ、「出直し、生まれ更わり」の教えを心の支えとして通ってきました。その義母が「佳乃ちゃんは、きっと元気で帰ってくる」と言ってくれたからこそ、私はその言葉にすがることができたのです。 佳乃は肺炎で高熱が出ていても、まだ命をつないで頂いている。義母が通ってきた道に比べたら、私の苦しみはほんの些細なものだ。私は親神様に心からお礼を申し上げました。 親から子、子から孫へと運命が受け継がれ、本来なら佳乃も同じように命が切れていくはずのところを、喜びを見つけて通ってくれた親のおかげで、魂に徳を頂き、大きな病を二回に分けてもらえた。大難を小難にして頂いたのです。 もうすぐ小学生になる佳乃には、ランドセルを背負って元気に学校へ通えるだけの徳を頂きたい。そのためには、身の回りの一つ一つの物を大切にして、その物の命を生かすことが、我が命を守って頂ける徳につながるのではないかと思いました。 そこで小学校入学にあたり、服も下着も靴下も学校の用具も、一切新しい物は買わずに、すべてお古として頂く物だけで通らせることにしました。 ランドセルは、長女が六年間使い終わったばかりのものがありました。親の目から見ても、とても綺麗とは言えないランドセルです。佳乃は、このランドセルを喜んで使ってくれるだろうか…。 「こんなボロボロのランドセル、誰も持って来ないよ。みんなピカピカのだよ。嫌だよ!」そんな娘の声を想像してしまいました。 しかし、徳を積むためには全ての与えを喜んで受け入れなければならないと思い、まず長女に話をしました。 「六年間、ランドセルを背負って元気に学校に通えたことを親神様・教祖にお礼をさせてもらおうね。それから、ランドセルにありがとう、ありがとうってお礼を言いながら綺麗にしようね」 そして、家族全員を揃え、佳乃の目の前でランドセルを拭いてもらい、綺麗になった後で贈呈式をしました。「お姉ちゃんが六年間、大事に大事に使ったランドセルだよ。誰もこんな素敵なランドセル持ってないよ。良かったねえ、嬉しいねえ」と、みんなで手を叩いて喜びました。 佳乃は、「うん!嬉しい!ありがとう!」と満面の笑顔で、翌日からそのボロボロのランドセルを背負って元気に学校に通ってくれました。 親としては、たとえ不充分な与えでも、それを子供が喜んで受け取ってくれれば、今度はもっといい物を与えてあげたいと思うものです。きっと私たち人間の親である親神様も、私たちが不充分な与えを喜んで受けて通ったならば、もっと与えてやりたい、守ってやりたいという大きな親心で抱えてくださるに違いないと思うのです。 強い者は弱い 神様のお言葉は時として、私たちの常識では理解することが不可能な場合があります。 「強い者は弱い、弱い者は強いで。強い者弱いと言うのは、可怪しいようなものや。それ心の誠を強いのやで」 「強い者は弱い」。誠に矛盾している表現です。しかし、日常生活に何かしら行き詰まりを感じている時、この一見理解し難いお言葉は、人間思案に慣れた心の目にハッと気づきを与えてくれます。人は大抵の場合、一般的な常識や自ら積み重ねてきた経験知によって日常の歩みを進めています。しかし、その物事の奥深くには、人間思案によっては割り切れない神様のご守護の世界、いわゆる「理の世界」が存在しているのです。 このような逸話が残されています。 泉田藤吉さんは、ある時、十三峠で三人の追剥に遭いました。その時、頭にひらめいたのは、かねてから聞かせて頂いている「かしもの・かりもの」の教えでした。そこで、言われるままに羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい」と言って、頭を上げると、三人の追剥は陰も形もありません。 追剥たちは、藤吉さんの余りの素直さに薄気味悪くなって、何も取らずに逃げてしまったのです。そこで藤吉さんは、脱いだ着物を着ておぢばへ向かい、教祖にお目通りしたところ、結構なおさづけの理を頂戴したのでした。(教祖伝逸話篇114「よう苦労してきた」) 藤吉さんのおたすけは、いつでも人並み外れていて、深夜に冷たい淀川の水に二時間も浸かり、身体が乾くまで風に吹かれることを三十日も続けたり、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってからおたすけに向かうこともありました。 ところが、教祖から「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」とのお言葉を賜り、藤吉さんは、人間思案を離れて「かしもの・かりもの」の教えを深く理解するに至ったのです。 何が強い、何が弱いという価値判断は、人間の常識では計り知れないことのようです。次のお言葉をかみしめたいと思います。 「日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」(「おかきさげ」) (終)
Fri, 16 Aug 2024 - 391 - 共に生きる
共に生きる 埼玉県在住 関根 健一 今年で23歳になる我が家の長女は、出産時のトラブルで、一時仮死状態となった影響で脳性麻痺が残り、今でも身体の障害と知的障害があり、車椅子で生活しています。 日常では言語によるコミュニケーションに困ることもあまりなく、社交性も高いほうで、初めて会った人にもきちんと自己紹介をします。最近は、福祉サービスで移動支援をお願いし、ヘルパーさんと一緒にショッピングモールや映画館へ出かけるなど、家族と離れて楽しむ時間も増えてきました。 ある日、タレントさんが気になるお店に入ってグルメを味わったり、商品を見たりする、いわゆる「街ブラ番組」を家族で見ている時のことです。その回は、我が家からもほど近い川越の街を紹介していました。 おしゃれなカフェを見つけたタレントさんが、中に入って店主おすすめの抹茶ラテを楽しむ場面を見ていた時、長女がふと「かわいいジュースだね」とつぶやきました。言われてみれば、グラスの中には抹茶のグリーン、季節に合った桜のピンク、ホイップクリームの白などが幾つもの層をなしていてとてもカラフルで、よく言う「SNS映え」するメニューでした。 学生時代を川越で過ごした私は、お店の周りの風景を観てすぐに場所が分かったので、「今度みんなで行ってみようか?」と提案しました。すると家族みんなが喜んで賛成し、その話題でひとしきり盛り上がりました。 しかし、長女と一緒に出かけるには、そのお店は車椅子で入れるのか?という確認が必要になります。そこで、タレントさんがお店を出入りする場面を確認すると、階段があって細い通路を通らなければならないことが分かり、さっきまで盛り上がっていた雰囲気も一気に諦めムードに変わっていきました。 もちろん、お店に行って店員さんに相談すれば、車椅子ごと持ち上げるのを手伝ってくれたり、裏口からスロープで上がれたりする可能性もあります。しかし、そこまでして行きたいお店か?と考えて二の足を踏んでしまったり、過去にお店に入れなかった時のガッカリした気持ちを思い出したりして、諦めてしまうことは少なくありません。 結局、長女とのお出かけは大きなショッピングパークなどの、バリアフリーが整った施設になることが多く、路地裏を入った隠れ家的なお店は考えにくいのが現状です。 それでも、長女が生まれた頃に比べると、障害者を取り巻く環境が少しずつ良くなってきているのは事実で、私が子供の頃と比べれば格段の差です。 長女が小学部に入学する一年前、特別支援教育の推進のために学校教育法が改正され、「養護学校」という名称が「特別支援学校」に変わりました。私は、障害児を取り巻く環境については肌感覚でしか理解していなかったので、特別支援学校のPTA会長になったことをきっかけに、それまでの障害児の教育環境について調べてみました。 すると、40数年前に養護学校が義務教育になる以前は、障害児は就学を免除されていた、すなわち義務教育を受けなくていい時代が続いていたことが分かりました。制度上「免除」と言ってはいますが、実質的には障害児は学校に通うことを拒否されていたと言っていいかも知れません。そんな時代に「我が子が人として当たり前に教育を受けられるように」と、声を上げた人たちがいたのです。 今でも問題がないとは言い切れませんが、少なくとも現在はすべての障害のある子供たちが教育を受けられる社会になっています。 最近では、障害者が飛行機や電車など交通機関の利用がままならなかったことに声を上げ、SNS上で議論が巻き起こることがしばしばあります。時代に応じ形は変わっても、常に誰かが声を上げてきたおかげで社会は少しずつ変わってきたのです。 私は仕事で建築の設計に携わっていますが、一定の基準に該当する建物の場合、車椅子でも快適に過ごせるようにという法律や条例に則って設計をしなければなりません。 一般の個人経営のお店では、すべての人が快適に過ごせるような環境作りはなかなか難しいのが現状ですが、「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」という言葉が浸透してきたことで、一般的にも障害者に対する考え方が変わったように思います。 少し前、日本で「ニート」という言葉が使われ始めた頃に、ニートが一気に増えたというデータがあります。これは、実数が増えたということ以外に、認知されるようになったために対象者が顕在化したという側面もあるようです。世の中の状況が変化し、起きてきた現象に名前がついたことで対象が顕在化し、人々の意識が変わる。社会の常識は、その状況を表す言葉と一緒に変化してきたとも言えます。 最近よく耳にするようになった「共生社会」という言葉があります。差別のない、誰もが暮らしやすい社会の象徴として語られる言葉ですが、ある福祉施設で働く知人から、こんな意見を聞きました。 「共生社会という言葉は、文字通りに捉えれば『共に生きる』という意味で、どちらが上でも下でもないはずだが、昨今この言葉の使われ方を見ていると、安全な場所にいる側が、上から目線で『共に暮らしてあげよう』と言っているような傲慢さを感じる」 私はこれを聞いて、ハッとさせられました。こうした小さなすれ違いや、感覚の相違はまだまだ残っています。共生社会という言葉の浸透とともに、障害のある人が安心して暮らせる社会になるには、もう少し時間がかかるようです。 では、本質的な共生社会とはどのようなものなのか? 自分なりに想像してみると、心に浮かんできたのは天理教の教えにある「陽気ぐらし」でした。 陽気ぐらしとは、大自然を司る親神様の恵みに感謝し、そのご守護によって生かされて生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち一人ひとりが互いに尊重し合い、たすけ合って暮らす、慎みのある生き方です。 共生社会の実現を目指すという目標は、親神様によってすでに私たちに向けて示されている。そう言えるのではないでしょうか。一人の信仰者として、共生社会の理想像とも言える「陽気ぐらし」の実現を目指していきたいと思います。 慈愛のてびき 人間はどこから来て、どこへ行くのか。この世界の始まりに関しては、多くの人が関心を持っていることと思いますが、その興味の中で、人生の意義についても考えが及ぶのではないでしょうか。 私たちは陽気ぐらしをするべく、親神様によって創造されたことを知りました。それが、私たち皆が例外なく、幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って、自ら方向を狂わせてしまうからです。 『天理教教典』には、次のように記されています。 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。 なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや (二 7) せかいぢうとこがあしきやいたみしよ 神のみちをせてびきしらすに (二 22) 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。(第六章「てびき」) 我が子が地図も持たず、自分勝手にやみくもに歩いていこうとする危うさを、をやとしては黙って見ていられないのです。そして、今にも落ちていきそうな崖っぷちに立つ子供を、襟首をつかんででも安全な場所へ引き戻そうとします。いかに子供が嫌がっても、そうせずにはいられないのが親心なのです。 私たちは苦悩を抱えていない時には、足元を見つめずに過ごしています。身を病んではじめて、いまさらのように自分自身を省みるものです。病気や事情に遭った時には、そこに親神様のたすけたいばかりの慈愛の手が差し伸べられていることを信じ、喜びの人生を開くきっかけとしたいものです。 (終)
Fri, 09 Aug 2024 - 390 - 「想い出ノート」はじめました
「想い出ノート」はじめました 岡山県在住 山﨑 石根 今年の四月、信者さんが立て続けに二人お亡くなりになり、教会長である私はその方々のお葬式をつとめました。また、この四月にはもともと二件、故人を偲ぶ年祭を行う予定があり、「待ったなし」にやって来たお葬式と合わせて、その準備や段取りにバタバタの月となりました。 天理教の年祭やお葬式では、故人の生涯を思い起こし、生前の功績やお徳を偲ぶために祭文を読み上げます。今回の年祭は二件とも、私の父が教会長の時にお葬式をした方の年祭でした。私は、当時父が書いたものを参考に今回の祭文を作成しながら、「ああ、このご夫婦はこういう人生を通ってきたんだなあ」と、感慨深い気持ちになりました。 当然のことですが、家族の数だけ、否、人の数だけ人生があります。お葬式や年祭を執り行う度に、その人が生きた証を強く感じることができます。 しかし、このような祭文も、故人の情報がなければ書けません。いざ訃報が届き、そこから故人のことを尋ねても、夫婦であれば容易に振り返ることができますが、子や孫が喪主の場合は知らないことも多かったりするのです。 かと言って「お葬式に必要なので、人生について教えてください」とあらかじめ根掘り葉掘り聞くのは、何だか失礼な気もします。私は以前からそんなジレンマを抱いていました。 四年前の春先、ちょうど世の中がコロナ時代に入る頃、牧さんという年配の女性信者さんがお亡くなりになりました。牧さんは遠方にお住まいですが、講社祭というおうちでのお祭りを毎月欠かさず勤めていた熱心な信者さんでした。 晩年は病気のため、同じお話ばかり繰り返されることが多かったのですが、私の曽祖父に導かれてこの信仰に入った話や、ご主人が病気だった時の苦労話など、私にとって非常に関心のある内容でした。 あまりに毎月同じお話を聞くので、細かい内容まで覚えてしまいましたが、「いつかお葬式で必要になる内容だから、きちんと記録しておきたい」との思いに至りました。 そこで「牧さん、来月ICレコーダーを持ってくるから、このお話し録音させてください」とお願いをしたのですが、その翌月に牧さんは突然お亡くなりになり、お話を録音することは叶いませんでした。 世の中がコロナ時代を迎え不安に包まれる中、また遠方で何かと移動や準備が大変な中、家族の方がとても親切にしてくださり、滞りなくお葬式をつとめることが出来ました。また、録音こそ叶わなかったものの、繰り返し聞かせて頂いたお話を元に、きちんと牧さんを偲ぶ祭文を読ませて頂くことも出来ました。 さて、私の教会では数年前から毎月、信者さん方と色々なことを相談する「談じ合い」の時間を設けています。そこで、私のほうからジレンマを抱えていたお葬式について、ある提案をしました。 今、世の中では「終活」や「エンディングノート」と呼ばれる取り組みが注目されています。命の危険が差し迫った時、七割の方は意思伝達ができなくなると言われており、十分な準備が出来ないままに亡くなる方も大勢おられます。そうしたことから、元気なうちに遺産相続、医療や介護の希望、葬儀やお墓についてなど、様々なことを家族に書き残しておく必要があるのです。 教会長である私は、遺産や法律的なこととは直接関係ありませんが、「なぜ信仰をしてきたか」ということについては、故人の信仰を確実に後進に伝える意味で、言葉が無理でも何とか文字で残して欲しいと以前から願っていました。生い立ちからご両親のこと、信仰を続けてきて良かったと思うこと…。お葬式の準備のためではなく、自分自身の信仰を振り返る意味でノートに書き記して欲しいと提案しました。 みんなで相談した結果、このノートには「みちのこ想い出ノート」という名前が付きました。さっそく書式を作り、教会に所属する信者さん方にお手紙を添え、老いも若きも問わず皆さんに送り届けました。すると、たくさんの「想い出ノート」が私の元に返ってきました。 そこにしたためられた内容は、長いことお付き合いのある信者さんであっても、私が初めて知るその方の人生が書き記されていて、驚きと共に何だか胸が熱くなりました。 皆さん時間はまちまちで、すぐに届けてくださった人もいれば、一年かかった人もいます。途中までは書いたけれど、未だに迷っている人もいれば、なかなか筆の進まない人など様々です。 当然そこには、その方の通っただけの、歩んだだけの確かな足跡が記されています。それらは良い想い出ばかりではないにしても、そこをどのように思案して乗り越え、今、この瞬間があるのか。その陽気ぐらしへ向けたポイントが必ず描かれているのです。そして何より、このことをきっかけに、信仰について家族同士で話し合う機会が生まれることを願ってやみません。 さて、牧さんのご家族が、早くも「来年の二月に五年祭をしたい」と日程の相談をしてくださいました。 牧さんが出直してからも、ご家族には色々な出来事がありました。息子さんが養子を迎えられたこと。その養子さんに赤ちゃんが生まれたこと。また、生前の牧さんと同じように、息子さんが講社祭を毎月欠かさず勤められ、さらには教会の月次祭にも養子さんたちと共に遠方から駆けつけ、参拝してくださるようになったこと。 牧さんの人生だけでなく、「亡くなられた後に、こんなことがあったんですよ」と祭文で読み上げ、五年の節目の年祭で報告したいと思います。きっと牧さんの霊様だけでなく、牧家のご先祖様も喜んでくださるのではないかと、私は思うのです。 だけど有難い 「華のある人」 テレビ、映画、舞台、あるいは野球やサッカーといったスポーツの世界などを見ると、「華のある人」というのはいるものですね。その人がやって来ると周りまでパッと明るくなるような、なんとも言えない魅力がある。そういう人には、人の心が寄ります。人の心が寄るから、物も寄ります。 たとえば、アテネオリンピックで野球競技の日本代表監督を務めた長嶋茂雄さんがそうです。巨人ファンでなくても、長嶋ファンだという人は多いですね。それだけ魅力があるからでしょう。途中で病気になってアテネへ行けない状態になったのに、監督は代わりませんでした。普通なら、そのまま続けることはあり得なかったと思いますが、周囲から文句も出なかった。まさに「華のある人」です。みんなが「長嶋さんなら」と認めてしまう素晴らしさがあるのです。 私は、道友社発行の『すきっと』という雑誌が「華」という特集を組んだ際に、フジテレビの元プロデューサー・横澤彪さんの話を聞いたことがあります。昔、「オレたちひょうきん族」というバラエティー番組をプロデュースしていた人です。ビートたけしや明石家さんまが出演していて、大変人気がありました。 その横澤さんが、こう言うのです。 「華のある人というのは、まず何より『陽気な人』である。『明るい人』である。暗い人には華はない。また、どんなに苦労していても、苦労が顔に出る人には華はない。役者でも、苦労が顔に出ると華はないんです、あとは下り坂です」 また、こうも言っていました。 「華のある人というのは、人を喜ばせたいという気持ちを持っている人である」 たとえば、落語家の初代・林家三平師匠は、明るく陽気で、人を喜ばせる心が人一倍あったそうです。ネタが受けないときは、草履を投げてでも受けたい、お客さんに喜んでもらいたい。笑ってもらえるなら、なんでもするというのが、あの三平師匠だった。師匠がいるだけで、みんなうれしくて楽しくて、そばへ寄っていったということです。 この話を聞いて思いました。そんな話なら、わざわざ横澤さんを取材しに行かなくても、お道の人こそ「華のある人」のはずです。親神様を信じているのですから、当然、明るく陽気な心になれますね。そして、お道では「人をたすける」ことを学びますから、当然、人に喜んでもらいたい、たすかってもらいたいという心を持っているのです。 では、お道を信仰してさえいれば良いのか。そうではありませんね。教えを実行しないと、人の心も物も寄るような魅力のある人にはなれません。 「信じているが、にをいがけができない」「人をたすけるなんて、おこがましい」と言う人がいます。しかし、それは考えようによっては、災害や事故のときに、自分がたすかって「ああ良かった。でも、人をたすけるなんて気持ちにはなれない」と言っているようなものです。 人のことを思いやれない、考えられないというのは、たすかりにくい姿です。犯罪を起こす人たちは、たいてい後のことは考えていません。人の痛みに気がつけば、そんなことはできないのです。 私たちお互いは、教えを実行させていただいて、「あの人がいると、うれしくなるな」「あの人に会って、話が聞きたいな」「あの人の話を聞くと、何か明るい気持ちになれるな」 そんな華のある人、魅力ある人を目指したいものです。 (終)
Fri, 02 Aug 2024 - 389 - 幸せを求める心
幸せを求める心 大阪府在住 山本 達則 あるテレビ番組で、一人のアスリートについて特集していました。現在も世界の表舞台で活躍されている方ですが、そのアスリートの日常を良く知る方がインタビューに答えていました。 「彼が一番優れているところは、どこでしょうか?」という質問に対して、その方は「自分自身が今、必要としている事以外に惑わされない強い心だと思います」と答え、食事を例にあげました。 今、自分自身がアスリートとして食べるべき物は何かを常に考えながら、食事をとる。もちろん人間ですから、好きな食べ物や飲み物も当然あります。多くの人は「今日ぐらいいいだろう、少しぐらいはいいだろう」と栄養を考慮せずに好きな物を口にし、自分に癒しを与えますが、彼は妥協をしません。 またアスリートといえども、時には競技から離れて、友人たちとお酒を飲みながら開放感を味わいたいと思うこともあるでしょう。しかし、常にアスリートとしての最高の結果を求める彼は、友人たちと楽しく過ごす時間を少しでも身体を休めるための睡眠に当て、必要以上にそういった場に参加することはありません。 プロスポーツの世界で活躍できる人は、選ばれし才能をすでに持ち合わせている人たちですが、その中でも彼がさらに優れている点は、「求める力の強さとその実行力」、そして「求める姿のために費やす時間のかけ方」である、と結んでいたのが印象的でした。 つまり、自分自身の行動の結果が、今の姿を形づくっているということでしょうか。 神様のお言葉に、「善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。(中略)理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」とあります。(M25・1・13) 世界中の人々に対して、その姿をすべて見通しておられる神様の目は、絶対的に平等であるということ。善き事をすれば善き結果が表れ、悪い事をすれば、悪い結果として表れてくる、と教えられます。 私たちは誰しも家族が健康に恵まれ、幸せな毎日を過ごすことを望んでいます。しかし、現実には少なからず不安や不満を抱えながら日々を暮らしている人が多いのではないでしょうか。 日々、自分自身の成したことが結果として返ってくる。このことに気づく必要があると、神様は教えてくださっているのです。 50%の力で投げれば、50%の結果として自分の手元に返ってきます。100%の力で投げれば、100%の結果として返ってきます。 しかし、私たちは時に、50%の力で投げながら、100%の結果を待っていることがあります。極端に言えば、何も投げていないうちから、与えを待っていることさえあるかも知れません。 神様は、「まいたる種は皆生える」と教えられますが、裏を返せば、何事も種をまかずして、芽生えを見ることはできないのです。 現在、世界には80億人の人々が暮らし、80億通りの「幸せを求める心」があります。自分だけの幸せを求める種は、神様から見れば良い種ではないかもしれません。なぜなら、神様は世界中の人々を絶対的に平等な目でご覧になっているからです。 世界中の人々の幸せまで考えを及ぼすのは難しいかもしれませんが、せめて家族はもちろん、身近な周囲の人々の幸せを考えながら、それに向けて自らの行動を変えていくこと。これが良い種まきとなり、ひいては喜びの芽生えにつながるのではないかと思います。 目の前に起こる事柄に対して、それをどのように考えるか、またそれをふまえてどのように行動するか、私たち一人ひとりはそれぞれに「自由」を与えられています。この「自由な心」の使い方を変えていくことが、誰もが望んでやまない「幸せな毎日」につながっていくのではないでしょうか。 をびや許し、ほうその守り 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、 ひろいせかいのうちなれバ たすけるところがまゝあらう(五下り目 一ッ) ふしぎなたすけハこのところ おびやはうそのゆるしだす(五下り目 二ッ) とあります。 広い世界の中であれば、人々をたすける所があちこちにあるだろう。しかし、不思議なたすけをするのはこの元なるぢばであり、ここから「をびや許し」や「ほうその守り」を出す。このように仰せられています。 安産のご守護である「をびや許し」、また当時大流行した感染症、疱瘡をたすけるための「ほうその守り」がどのようなものであり、それらがなぜ人々にとって「不思議なたすけ」であったのか。当時の状況を振り返ってみましょう。 江戸時代の平均寿命は、現在の半分以下の三十歳から四十歳ぐらいだったと言われています。もちろん、当時でも六十や七十を過ぎるまで長生きした人は大勢いましたが、それでも平均寿命が短かったのは、当時は出産直後の母親と子供が、今よりはるかに多くの割合で命を落としていたことが原因でした。 そんな命がけである出産に関して、当時は安産祈願として、妊婦が出産の前後に「腹帯」をしたり、柿はお腹を冷やすなどの理由で「毒忌み」として避けたり、頭に血が上らないように「高枕」をしたりと、様々な慣習がありました。 教祖はそうした状況の中で、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」。だんないとは、大事ない、大したことはないという意味の方言ですが、をびや許しによって、そのような慣習に頼らなくとも安産できる道を教えられたのです。 また、当時は、たとえ無事に出産したとしても、その後の幼児死亡率が高く、その大きな原因となっていたのが疱瘡やはしかなどの感染症でした。 疱瘡にかかると、高熱とともに顔から全身へ赤い発疹ができます。ひどい場合は化膿した箇所から出血し、肺炎や腎炎などを引き起こして死に至ることもありました。 予防接種もまだ一般には広まっていない時代にあって、「ほうその守り」は、まさに不思議なたすけであったに違いなく、人々にとってどれほど有難いものであったことでしょう。 この「をびや許し」や「ほうその守り」を頂くに際して、何より肝心なのは親神様を信じ切ることです。こんな逸話が残されています。 清水ゆきさんという身ごもった婦人が、「をびや許し」を自ら願い出て頂いた時のこと。ゆきさんは「人間思案は一切要らぬ。親神様にもたれ安心して産ませて頂くよう」という教祖の仰せに反して、毒忌みなど昔からの習慣に従っていました。すると、出産後に高熱が出て三十日ほど寝込んでしまったのです。 そこで教祖にうかがうと、「疑いの心があったからや」とのお言葉があり、ゆきさんはこれに深く感銘し、心の底からお詫びをしました。 その後、教祖は産まれたばかりの赤子を預かってお世話をされ、ゆきさんも程なく全快しました。そして翌年、再び妊娠したゆきさんは「今度は決して疑いませぬ」と誓って、二度目の「をびや許し」を願い出ました。今度は教祖の仰せ通りにしよう、ひたすら親神様にもたれようと念じていたところ、不思議なほどの安産で、産後の患いもまったくありませんでした。(教祖伝第三章「みちすがら」) 当時のをびや許しは、教祖が直接お腹に息をかけられたり、撫でられたりするものでした。現在では、「をびやづとめ」に供えられた洗米を、「御供」として頂くことができます。 (終)
Fri, 26 Jul 2024 - 388 - 「生き方が分からない」と嘆く少年
「生き方が分からない」と嘆く少年 千葉県在住 中臺 眞治 私どもがお預かりしている畑沢分教会では、現在さまざまなたすけ合い活動を行っていますが、その中で補導委託と、自立準備ホームとしての活動があります。 補導委託は、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で数日間から半年間預かる制度です。家庭環境が複雑だったり、友人関係が良くなかったりで、今の場所から一度離れたほうが本人のためになると、家庭裁判所から判断された少年たちがやってきます。 また、自立準備ホームとしては、少年院や刑務所を出た後、帰る家がないという方を、保護観察所からの委託で数カ月間預かります。どちらも北海道のある教会長さんから「是非やった方がいいですよ」と勧めて頂き、妻にも相談の上、了承を得て始めた活動です。 この二つの活動で、一年半の間に八人の少年をお預かりしました。委託を受ける際には委託書という書類が届くのですが、そこには少年たちがどのような家庭環境で生まれ育ち、どのような非行歴があり、どのような困難を抱えているのかが記されています。 その中でも、特に驚かされるのは家庭環境です。もちろん、家庭環境が複雑だから非行に走るとは限りませんが、そうした中で少年がどんな思いを味わいながら生き抜いてきたのか、それを想像すると胸が締め付けられる思いがします。 ある少年、仮にA君とします。A君は罪を犯し、少年院に入ったのですが、収容期間を終える時、「家には帰りたくない」と、自ら家庭に戻ることを拒否しました。そのため、保護観察所の委託で当教会にやってきたという経緯があります。 A君は元々手持ちの衣類が少なかったので、私が「それなら一度家に受け取りに行ったらいいんじゃない?電話してみたら?」と提案しました。A君はちょっと嫌そうな顔をしながらも笑っていたので、「ほらほら」と言って携帯電話を渡し、連絡を取ってもらいました。 その直後、私は後悔することになりました。私が想像していたのは、長いこと会っていない子供を心配する親の声でした。しかし、現実は違ったのです。我が子を心配する言葉は一切なく、それどころかA君は親から一方的な罵声を浴び続けたのです。 その間、A君の声と身体は震えていました。そして、「二度と帰ってくるなよ!」という親の言葉で通話は途切れました。 電話が切れた後、本当に申し訳なかったと謝ると、A君は「いつも通りですよ。お酒を飲んでいる時はもっとヤバいです」とあきらめ顔で言いました。 「家族円満」というタイトルがついているこうした時間に言うのはふさわしくないかも知れませんが、「どんな親子も分かり合える」という考えは、恵まれた家庭で生まれ育った私自身が持つ幻想なのだと思い知らされた出来事でした。 子供に関心のない親、子供の気持ちを想像することが出来ない親はいます。A君の親が悪者だというわけではありません。親もまた様々な困難を抱えて生きているのだということを実感しました。 A君は教会に来て数カ月の間に、何度か私に「どう生きていけばいいのかが分からないです」と話してきたことがありました。大抵の人の場合、生き方は親から教わるものだと思いますが、それを経験していないA君にとっては、生きていくこと自体が不安なことだったのだと思います。 A君は衝動的な行動から、近隣住民や職場の方などとトラブルになってしまうことも度々で、私もどうしたらA君が幸せに生きられるのだろうかと悩み、色々と試みてはみるものの状況は変わらず、ただただ時間ばかりが過ぎていきました。 そのような中で半年ほど経った頃、A君と他愛のない会話をしている時、ふと彼が「最近毎日楽しいです」と言ったのです。私はその言葉に「あー良かったな~、嬉しいな~」と思うと同時に「なんで?」という疑問が湧いてきました。でも、次の言葉で、なるほどそういうことかと思いました。 「中臺さんの周りって、優しい人ばっかりですね」 A君はうちの教会で実施している「こども食堂」に、毎回ボランティアスタッフとして参加したり、また、天理教の行事にも度々参加してくれています。そうした場にはA君を理解し、味方になろうとしてくれる大人たちが大勢います。そうした人たちの存在が、A君の心に安心をもたらしているのだと思います。 子供に関心を持たず、子供の気持ちを想像することが出来ない親がいるのは事実ですが、その親の代わりを沢山の優しい大人で埋めていく、そういうやり方もあるのだと感じた出来事でした。 A君に限らず、世の中には生き辛さを抱え、生きていくことに不安を感じている方は少なくないと思います。そうした方々と、どう関わっていったらよいのか? 天理教の原典「おさしづ」では、 「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み。悪気(あっき)々々どうもならん。何か悠っくり育てる心、道である。悠っくり育てる心、道である/\。」(M34・3・7) と教えて下さっています。 そもそも人が育っていくというのは、時間のかかることなのだと思います。いけないことをした時に、「ダメだよ」と伝えることももちろん大切ですが、同時に「許す心」「あたたかい心」で関係していくことが大切なのだと思います。そうした積み重ねが、生き辛さを抱えて苦しんでいる方々の安心につながり、生き抜いていく力になっていくのではないでしょうか。 私自身の人生を振り返ってみても、間違いだらけの人生で、正しく生きてきたなんて口が裂けても言えません。その都度、周りの方に「しょうがないなあ」と許されながら日々を過ごしてきました。おそらくこれからもそうだろうと思います。 自分自身も許されながら生きていることを忘れずに、生き辛さを抱える人々に寄り添っていきたいと思います。 いまさいよくば 私たち人間には、人生の先々までを見通すほどの力はありません。ゆえに、目先の楽な暮らしを求めて、自分勝手な行動や考えに陥ってしまいがちです。 そのような私たちの心得違いを、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、 めへ/\にいまさいよくばよき事と をもふ心ハみなちがうでな (三 33) と戒めてくださいます。 銘々が勝手に目先のことばかりを考える、今さえ良ければいいんだという刹那的な心づかい。それは全て間違っているとの仰せです。これは言い換えれば、自分のことばかり考えて周りが見えていない、また今のことばかり考えて将来を見据えていないということです。 さらに教祖は、 てがけからいかなをふみちとふりても すゑのほそみちみゑてないから (三 34) にんけんハあざないものであるからに すゑのみちすじさらにわからん (三 35) と、私たちの「あざない」あさはかな道の通り方が、いかに危ういものであるかをお示しくだされています。 私たち一人ひとりの存在は、神様がご守護くださるこの広い世界の中の一点であり、今とは、悠久の時の流れの中の、これまた一点に過ぎません。周囲の人々に気を配り、また先々のことに思いを馳せたり、過去を振り返ることによって、物の見方や受け止め方が変わり、身の処し方も自ずと変化してきます。今さえ良くばといった狭い視野、刹那的な考え方ではなく、神様の大いなるご守護を基準とした広い視野で、また長い目で物事を見るように心がけたいものです。 いまのみちいかなみちでもなけくなよ さきのほんみちたのしゆでいよ (三 36) 今がどれほど困難な道中であっても嘆いてはならない。天の理に沿っていさえすれば、必ずや確かな本道に出られるのだから、それを楽しみに通るようにと、教祖は励ましてくださいます。 (終)
Fri, 19 Jul 2024 - 387 - ふしから芽が出る
ふしから芽が出る 静岡県在住 末吉 喜恵 今から25年ほど前の話です。私は結婚を機に奈良から静岡に来ました。大恋愛の末、三年間の遠距離恋愛を経ての結婚です。 大好きな人と結婚できて、見るもの全てキラキラと輝いて見えました。市街地から見える雄大な富士山に、車の運転中でも散歩中でも、少しでも見えたら「富士山だ~!」「きれいだなあ、おっきいなあ」と大感激していました。また、海なし県で育ったので、青く澄み渡る穏やかな海を見ては、心がウキウキしたものでした。 妊娠が分かったのは、結婚して三ヶ月経った頃でした。うれしくてワクワクしながら病院に行ったのですが、医師から「あなたはガンかも知れない」と言われ、目の前が真っ暗になりました。通常の卵巣は親指の爪ぐらいの大きさなのに、私の卵巣は直径10センチまで膨れ上がり、3センチの腫瘍ができていたのです。 もしその腫瘍が悪性だった場合、赤ちゃんを諦めて自分の命を守るか、それとも赤ちゃんを産むために妊娠を継続させるか、難しい選択をしなければなりません。がんで妊娠を継続した場合、若いこともあって転移しやすいので、命の保障はないと言われました。 結婚してから毎日が楽しくて仕方がなかったのに、医師からあっさり告知を受け、一気に谷底に突き落とされたような感覚になりました。病院からどのように家にたどり着いたのか覚えていませんが、泣いて夫に電話をかけると、仕事を早退してすぐに帰宅してくれました。 それまでも、おさづけによって神様の不思議なご守護を頂いた話をたくさん聞いていたので、私もご守護を頂きたくて、夫におさづけを取り次いでもらいながら、「がんよ消えろ、消えろ、消えてなくなれ!」と神様の前で必死に願いましたが、消えてなくなりはしませんでした。 医師からは「妊娠安定期に入ったらすぐに卵巣を取ってしまうか、出産時に帝王切開して取るか」と判断を迫られましたが、出来るだけ早く取った方がいいのではないかと思い、安定期に入った妊娠五ヶ月の時に開腹手術をし、卵巣を一つ取りました。 取った腫瘍の精密検査の結果は「ボーダーライン」。良性でもなく悪性でもないという結果で、そんな状態があることを初めて知りました。子供は諦めなくてはならないし、自分の命もどうなるか分からない。そんなところまで追い詰められていましたが、ギリギリのところでたすかったのです。本当に良かった、ありがたいと思いました。 幸い術後の経過も良く、順調に回復し、健康な妊婦さんと同じような生活を送ることができました。お腹が大きくなるにつれて、手術した傷跡も広く伸びてきて、「もしかして、お産でお腹が破れるのかしら?」と不安になりましたが、人間の身体というのは本当に不思議で、皮はしっかりつながっていました。 お腹に赤ちゃんが宿ることも、お腹の中で成長して生まれてきてくれることも、一つとして当たり前のことはないのだと実感できました。 その時お腹にいた長女も無事に出産でき、その後も卵巣は一つですが、双子の次女、三女、そして長男、四女と5人の子供に恵まれました。親々が通ってきて下さった信仰のおかげだと、感謝する毎日です。 四人目を妊娠中の2004年、同じように子育てをしている親子同士が一緒に楽しめる場を作りたいと思い、音楽を使って身体を動かす「リトミック」を取り入れた子育てサークルの活動を始めました。 サークル活動を始めてしばらく経った頃、夜、子供を寝かしつけていると、「ママの子供に生まれてきてくれてありがとう 大好きよ」という歌詞と共に、子守唄のメロディが天から降ってきたように突然浮かんできて、急いで枕元でメモを取りました。 サークルでその歌を歌うとママたちはほっこりと笑顔になり、それを見る子供たちも幸せそうな顔をしてくれます。中には、その歌を聞くたびに感動して泣き出す子もいました。 サークル活動も軌道に乗り、児童館や保育園、子育てサロンや子育て支援センターなどに広がり、私もリトミックの講師として依頼を受けるようになりました。 子育て中のお母さんたちを前に、卵巣の腫瘍ができたところを何とかたすけて頂き、無事出産できた体験をお話しします。 そして、 「私が親になれたのは、当たり前ではなく奇跡です。皆さん、寝る前には『ママの子供に生まれてきてくれてありがとう 大好き!』と言って我が子を抱きしめてあげてください。そうすると必ず子供の心は育ちます。日々子育てに追われる中でも感謝の気持ちを忘れずに、言葉でちゃんと子供に伝えましょうね」 そう語りかけて、最後にみんなで子守唄を歌います。 命の尊さ、ご守護のありがたさを伝える私なりの「にをいがけ」として、この活動を続けています。 天理教では、「ふしから芽が出る」と教えて頂いています。たとえ困難なことがあっても、それは神様からの陽気ぐらしへ向けたメッセージで、心を倒すことなく感謝の心で取り組むことで、いい方向に向かうことができます。そして、これは決して短い時間のことを言うのではなく、何年、何十年を経て振り返った時に、本当に身にしみて有り難く思える教えなのです。 子育てをしていると、毎日がやらなければならないことの連続で、いっぱいいっぱいになることが多いと思います。しかしその中にも、幸せの種はたくさん散りばめられています。 そこに気づけるかどうかは、自分の心次第です。日々、小さな幸せを見つけることで、子育てはより楽しいものになるのではないかと思います。 早く陽気に 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、 にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) とあります。このように、実の親である親神様は、常に私たち一人ひとりをたすけることだけを考えて、日夜お見守りくだされているのです。 では、私たちはこの切ないほどの親心にどうお応えすればいいのでしょうか。朝に夕に唱える「みかぐらうた」を紐解いても、教祖は決して私たちに難しいことを求めておられないことは良く分かります。 しばしば出てくる「何々してこい」という表現に注目してみます。まず一下り目で、「こゝまでついてこい」と、ただひたすらに信じてついて来るように、また三下り目で、「ひとすぢごゝろになりてこい」と、疑いの心を持たず、一筋にもたれてついて来るようにと仰せられています。 さらに、四下り目において、「いつもたすけがせくからに はやくやうきになりてこい」と、常に私たち人間をたすけたいと急き込んでいる親心を述べられ、早く陽気な心になるようにと促されています。 これらのお言葉から、親神様が私たちに陽気ぐらしを望んでおられるということは明らかですが、なかなかそう簡単には実行に移せない現実もあります。「早く陽気になりて来い」と言われても、病気になったり、家族の関係がこじれたり、仕事がうまくいかないなどの現実に直面し、そのような思い通りにならない状況の中では、とても陽気な心になどなれないというのも、仕方のないことかも知れません。 そのような人々を、教祖はどうやって導かれたのか。教祖は、教えを詳しく説かれる前に、まずはそうした人々の心に寄り添い、困窮している人には食べ物や着る物、金銭などを与え、さらには病気や事情をたすけて、一人ひとりの悩みや苦しみを取り除かれました。 しかし、たすけてもらった喜びを感じ、一時的に陽気な心になった人々も、また違う問題に直面しては再び悩むということを繰り返していきます。 そこで次の段階として、どれほど悩みや苦しみから救われても、自分自身の心を入れ替えなければ本当のたすかりではないことを教えられました。 そして、人々が自ら心のほこりを払い、陽気な心へ入れ替えていく道として、「おつとめ」を教えてくださったのです。 なにもかもよふきとゆうハみなつとめ めづらし事をみなをしゑるで (七 94) おつとめこそ、真の陽気ぐらしへとつながる一番の手立てであり、あらゆるご守護の源であることを示されています。 (終)
Fri, 12 Jul 2024 - 386 - へその緒は曲者
へその緒は曲者 助産師 目黒 和加子 「先生、指が折れます!」 「指が折れても押せ!絶対に抜くなよ!」 手術室に向かうストレッチャーに乗っているのは、膝を付き、うつ伏せでお尻を高く上げた「膝胸位」という体勢をとっている産婦と、産婦の足の間に入り込んでいる私です。私は産婦の子宮口に右手の人差し指と中指を突っ込み、胎児の頭を必死で押し上げているのです。 なぜ、こんなけったいなことになっているのでしょう。 後藤さんは一人目、二人目ともに3,500グラムを超える赤ちゃんを出産した経産婦。明け方に陣痛が来て入院しましたが、痛みが弱くお産が進みません。昼前に熱を測ると37度6分。 「熱が出てきたか。感染が進む前に促進剤を使ってお産にした方がいいかな。診察して決めるわ」と困った顔の浜田先生。後藤さんを内診台に乗せ、内診を始めました。 「子宮口6センチ開大。頭の位置が高い。朝9時と同じ所見や。一人目も二人目も大きかったから産道はめっちゃ広いわ。それにしても羊水が多いなあ…」と言ったその時、バッシャーと破水。おしもを見ると、ニョロニョロしたへその緒が垂れ下がっているではありませんか。破水の勢いで出てきたのです。 「先生、臍帯が出てます!」 浜田先生はギョッとした顔で、後藤さんを素早く膝胸位にさせ、「目黒さん!指で頭を持ち上げろ! 臍帯の血流を遮断させるな!」と、真顔で指示を出しました。 私は素早く右手の人差し指と中指を直径6センチに開大した子宮口に突っ込み、胎児を押し上げました。次に先生はナースステーションに向かって、「臍帯脱出や!緊急帝王切開!」と、大声で叫んだのです。 一斉にスタッフが集まってきて手術の用意を始め、あっという間に準備が整いました。そして、後藤さんと私をストレッチャーに乗せ、急ぎ手術室へ。冒頭のけったいなシーンへと続きます。 後藤さんは痛くもかゆくもないので、「へその緒が出ちゃったのね。帝王切開ですか。よろしくお願いします」と、まるでピンときていません。 先輩助産師が後藤さんに張り付き、穏やかな口調で声をかけつつ胎児心拍を聴いています。しかし、口調とは逆に先輩の手は震えていました。 赤ちゃんはオギャーと産声をあげることで、肺呼吸へと劇的に変化します。それまでは、胎盤からへその緒を通る血管を経由して酸素をもらっています。へその緒は酸素をもらう命綱。この命綱が赤ちゃんと産道の間に挟まると血流が遮断され、完全に息の根を止められてしまいます。先生が「指が折れても押せ!絶対に抜くなよ!」と、私にカツを入れた理由はここにあります。 後藤さんと私はストレッチャーから手術台に乗せ替えられ、すぐに腰椎麻酔がかけられました。後藤さんを仰向けにし、麻酔が効いたことを確認した浜田先生は、「メス、三刀で出すぞ」と呟くと、予告通り三回メスを入れただけで、あっという間に子宮から赤ちゃんを取り上げたのです。 この時、お股から胎児の頭を持ち上げている私の指先と、切開した子宮の中から赤ちゃんを取り上げる先生の指先が、コツンと触れるのを感じました。赤ちゃんはすぐに産声をあげ、元気いっぱい。私は手術台から降りると、へなへなと床にへたり込んでしまいました。 「目黒さんがしっかり持ち上げてくれたから、元気に産まれたで。ご苦労さん。あとで指のレントゲン撮ろう。折れてたら労災やな」と浜田先生。骨折はしていませんでしたが、しばらくお箸が持てませんでした。 真夏の熱帯夜に起きた臍帯脱出も、思い出すと背筋が寒くなります。 その日は夜勤。夕方、出勤すると陣痛室には経産婦の小田さんがいました。真夜中に分娩室に入ったのですが、胎児が下がってきません。 「子宮口は8センチ開いているのになあ。この状態で破水したら臍帯脱出の可能性があるわ。当直医に連絡しておこう」と思った途端、バーン!と音を立てて破水。お股からへその緒が垂れ下がっています。恐れていた臍帯脱出が起きたのです。 その日の当直医は、大学病院の若手の産科医でした。急ぎ内線で呼ぼうと分娩室の扉を開けると、目の前に当直医が立っているではありませんか。 「先生、臍帯脱出しました!8センチ開大の経産婦なので、すぐに全開大させます。吸引分娩してください!」 「あの~、吸引分娩に自信がないので院長を呼んでください」 「なにを言うてるんですか。そんな時間はない!すぐに吸引カップ用意してください!」 後ずさりする医師を、分娩室に引っ張り込みました。 不安そうな顔の小田さんに、「今の破水でへその緒が出てきたの。へその緒は赤ちゃんにとって命綱やから、すぐにお産にしないと命に係わる。私が指で子宮口をグリグリして開きます。めっちゃ痛いけど頑張ってや!」とカツを入れると、「痛くても我慢します。赤ちゃんをたすけてください!」と、覚悟を決めた顔に変わりました。 両手の人差し指と中指に力を入れて、子宮口をグリグリねじ開けると、「うわー!いたいー!」。小田さんの絶叫が分娩室に響きます。 オロオロする医師に、「先生、ボーッとしてんと機械に吸引カップつないで!」 「は、はい」 「小田さん、全開したからね。吸引分娩するから、陣痛きたら教えてや。先生、早くカップ装着して!」若いドクターのお尻を叩きまくります。 「陣痛きましたー」 「吸って、吐いて。吸って、吐いて。大きく吸って、それ!思いっきり息んでー。先生、吸引圧上げて! カップを上下にゆっくり動かしながら引っ張って!」 間一髪、赤ちゃんは無事に産まれました。 当直医はなぜ、分娩室の前にいたのか。そこには職員用の冷凍庫があり、暑いのでアイスキャンディーを取りに来たとのこと。 「先生、落ち着いたのでアイスキャンディー食べてもいいですよ」 「臍帯脱出で背筋が凍りました。アイスは結構です」 青い顔をして当直室に戻っていきました。 へその緒が赤ちゃんより先に出てくるだけで、命に係わるのです。新人の頃、先輩助産師から「へその緒は曲者や。気抜いたらあかんで!」と厳しく習いました。先輩の教えを噛みしめ、胸に深く刻み込みました。 だけど有難い 『奇跡』 奇跡というものは、山のようにあると思うのです。現に、河原町大教会の祭典後のおさづけの取り次ぎで、「医者に余命二週間と宣告された方がご守護いただいた」「ガンが消えた」「手術をしなくて済んだ」「手術が大変うまくいった」「歩けなかった人が歩けるようになった」「膝が曲がらず座れなかった人が、座れるようになった」といった報告を、毎月のように聞かせていただきます。この教会だけでも、数々の奇跡を見せていただいているのです。 今日は、そういう奇跡の話ではなく、私たちが「いま、ここにいる」という奇跡の話をしたいと思います。驚くようなご守護も奇跡です。しかし、そればかりではありません。むしろ本来、私たちが「いま、ここにいる」ということ自体が、奇跡的なご守護の真っただ中にいるということだと思うのです。 たとえば、私は一歳のときに母を亡くしました。考えてみれば、母の出直しが一年早ければ、私は生まれていないのです。私の母もまた、幼いときに祖母と死別しました。これもわずか数年出直すのが早ければ、母も生まれていません。私の家は信仰して五代目ですが、二代目の徳次郎も、生まれるのとほぼ同時に母を亡くして顔も知りません。五代目の私は、本当に奇跡的に、いま、ここにいるのです。それとても、四代前のこの教会の初代会長を務めた源次郎が信仰してくれたおかげで、こうしているわけで、そうでなければ百数十年前になくなっている家なのです。 さらに遡って、親神様がこの世人間をお創りくださってから今日まで、いったい何人の親がいたのか分かりませんが、その親が一人でも欠けていたら、私はいま、ここにいないのです。私だけではありません。人は皆、自分が全く知らない親がいてくださったからこそ、いまがあるのです。 また、過去から今日までの生命の営みだけでなく、いま、ここにある私たちの体を考えてもそうです。人間の体は、およそ三十七兆個の細胞から成り立っています。しかし、この細胞が全部生きていたらいいというわけでもありません。細胞それぞれの寿命が来たときには、死んでもらわなければならない。たとえば、血液の成分である白血球、血小板、赤血球は、それぞれ寿命が違います。数時間で死んでしまうものもあれば、十日生きるものもある。また、百二十日ほど生きているものもあります。そして、死んでいくものの代わりに、新しいものが生まれてくるから、私たちは生きているのです。 親神様のご守護というものは、本当にきりがないのです。人間をお創りいただいて以来、今日までに、どれほどのご守護を頂いてきたか。いま、ここにいるという事実のなかに、どれほどのご守護があるかと考えたら、どれだけお礼を申しても、し過ぎることはないと思います。 ですから、いま体が不自由で悩んでいる人も、お願いの前に、まずお礼を申し上げていただきたいのです。私たちは病気や事情で悩むと、必死になってお願いします。必死になってすがるというのは大切なことです。このすがってお願いする気持ちと同じくらい、お礼が大切だと思うのです。私たちはつい、それを忘れます。山のようにご守護を頂いているのに、たった一カ所、膝が痛いと、そのことで思い悩みます。まず、親神様のご守護に対するお礼を、しっかりさせていただきたいものです。 そのお礼の仕方を、教祖は教えてくださいました。その第一が、おたすけです。世界中の人は皆、山のようにご守護を頂いていることを知らずに生きています。この教えは、信仰している人だけのものではありません。お道を信仰している者だけが兄弟姉妹ではないのです。世界中の兄弟姉妹に、一日も早く教えを伝え、親神様のご守護に共に感謝してもらえるよう、つとめさせていただきたいと思います。 (終)
Fri, 05 Jul 2024 - 385 - 世界で咲く花
世界で咲く花 兵庫県在住 旭 和世 私は大学を卒業した後、天理教語学院、通称「TLI」という、海外布教を目指す人が、語学や天理教の教理を学ぶ学校に勤めることになりました。 私の受け持ちの学科は「おやさとふせこみ科」略して「おやふせ」と呼ばれている所で、海外からの留学生が人類のふるさと「おぢば」で教えを学び、真実を伏せ込むという、世界でも唯一無二の学科でした。 まだ20代そこそこだった私は、お世話取りをするどころか、教えてもらうことばかりで、とても新鮮でユニークな毎日でした。 一つのクラスの中で、韓国、台湾、香港、タイ、インド、ブラジル、アメリカなどなど、多国籍の人たちが一堂に会するのですから、色々なことが起こります。 様々な言語が飛び交う中、歌ったり踊ったりの陽気な人や、おおらかでのんびりしている人、日本の文化にはないスキンシップで毎日あいさつしてくれる人、時にはお国対抗で荒々しいケンカが始まったりと、毎日大忙し。でも、そこで教わったことが、今の私の信仰生活の基盤になっています。 「ふせこみ」とは、「欲の心を忘れ、親神様が喜んでくださる真実の種を蒔くこと」であり、いつか必ずその種から芽が出て、花が咲き、一粒万倍となってあらわれてくるのだと教えて頂きます。 学生さんと共に「おやさと」でしっかり伏せ込み、いつかそれぞれの国に帰った時、その「ものだね」から芽が出て花が咲くことを楽しみに、毎日頑張っていました。 その取り組みの一つとして、校舎の裏に畑を作り、農作物を育てることを通して、「ふせこむ」ことの意味を体感できる機会を作りました。農作業は世界共通であり、親神様の火・水・風のご守護をとても身近に感じることができます。 しかし、実際の作業は地味なもので、土を耕し、種をまき、そして毎日毎日、水をやり、草を抜き、追い肥をやり、脇芽をとり、と、作物の丹精にはとても手間がかかるのです。 みんなで汗を流しながらその作業をする時間、いつも決まって私のそばに寄ってくる一人の学生さんがいました。 「せんせ~、なんでこんな事してるんですか~? こんなことやったって意味ないですよ~。もっと大事なことあるでしょう?」 その作業に意味を見出せない彼は、私に向かって不足の言葉をシャワーのように浴びせてくるのです。 最初は私もどうしていいのか分からず、「暑いししんどいけど、頑張りましょう」と、通り一遍の返答しかできなかったのですが、毎回そんな不足の心で作業をしていることは、彼にとってとても勿体ないことに思えてきたのです。 そんな時、教祖・中山みき様「おやさま」のこのようなお言葉を思い出しました。 「どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」(教祖伝逸話篇144「天に届く理」) それからは、彼に「ねえ、もしかしたらくだらないことだと思うかもしれないけど、ここ『おぢば』で頑張ったことは神様がちゃんと見てくださって、あなたがお国に帰った時、きっと大きな芽を出し、花を咲かせてくださる。だから、先を楽しみに今しかできないことを喜んで頑張りましょう」と伝えるようにしました。 他にも、日本語で布教をしたり、神殿の警備をする境内掛のひのきしんや神殿掃除。また、重度の心身障害のある方と一緒に遊んだり、ふれあったりする活動もありました。 そんな、とってもハードで充実した一年間を過ごす中で、学生さんもスタッフである私自身も大きく成長することができました。 さて、あれから20数年が経ち、その時代の記憶も薄らいでいた時、韓国から一本の電話が掛かってきました。 「先生、ぼくです!覚えてますか?」 声を聞いた途端、20数年前の記憶がパッと戻ってきました。不足シャワーの彼です。 「もちろん覚えてるよ!元気にしてるの?」 「はい!とても元気で頑張っています。今度大阪に出張に行くので、先生たちに会いたいです」 さっそく他の先生方とも都合を合わせておぢばで集まることになり、大阪で彼と合流しました。彼専用の運転手付きの高級車でおぢばに向かったのですが、慣れていないこちらは何だか落ち着きません。 彼は自国に帰ると一流企業に入社し、何度かのヘッドハンティングを経て、今では役員の地位にあるとのこと。そんな立派になった彼を見て、「おやふせ」当時の思い出がよみがえりました。 「あの時、最初は草抜きなんて意味ないって言ってたのが懐かしいね。あの一年でコツコツ蒔いた種は、神様がちゃんと見ていてくださったんだね。すごいね」 「ホントに、あの時はよく先生を困らせたね~。日本に出張に来て、おぢばがえりする度に思い出すよ。先生たちにちゃんと恩返ししないとね!今は重要な仕事についていて責任もいっぱいあるけど、がんばってるよ」 「重要な立場になると、いいこともあれば大変なこともあると思うけど、立場が上がれば上がるほど、周りへの感謝を忘れず低い心で通らせてもらってね。神様のご守護は低い所に流れてくるからね」 「先生、それ、いつもおやふせの同級生に言われてるよ!心は低く、高慢になったらダメってね」 卒業しても世界中の仲間たちとつながり続け、神様の望まれる通り方をお互いに求め合い、たすけ合っていることを知り、とても嬉しく思いました。 教祖がお残しくださった「おふでさき号外」に、 にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし とあります。 再会した彼をはじめ、当時一緒にがんばった学生さん一人ひとりが伏せこんだ理によって、親里ぢばで蒔かれた種は芽を吹き、生き生きと成長し、世界中でたくさんの花を咲かせているに違いないと、今、思いを馳せています。 浅知恵に走らず 信仰によって開かれる神様の世界は、知識として目で見て確かめられる世界よりも、はるかに広く大きいものです。それは神様の物差しによってはかり、判断する世界だからであり、次元が違うと言ったほうがいいかも知れません。次のお歌は、そのことを端的に示しています。 このせかいなにかよろづを一れつに 月日しはいをするとをもゑよ (七 11) このはなしどふゆう事にをもうかな これからさきのみちをみていよ (七 12) どのよふな高い山でも水がつく たにそこやとてあふなけわない (七 13) なにもかも月日しはいをするからハ をふきちいさいゆうでないぞや (七 14) この人間世界のことは何もかも、神の支配によって成り立っている。神が諭しているこの話を何のことかと思うかもしれないが、これから先、現れてくることをしっかり見ておくように。たとえどんなに高い山であっても水びたしになることもある。必ず谷底のほうへ水が流れるということもない。そのような常識とはかけ離れたことも現れてくるが、何もかもすべて神が支配しているのだから、やれ大きい小さいと、目に見える形に囚われて判断してはならない。 支配という言葉からは、やや権威的な響きが感じられるかも知れませんが、それは世界中の人間をたすけようとされる親神様の断固たるご意思の表れに外なりません。 水は低いところへ流れていくのが私たちの常識です。大きいほうがいいとか、小さいからよくないなどと物事に固執するのも私たちの常です。そのようなこだわりを捨てて、もっと広く深い神様のご守護の世界に目覚めるべきであることを仰せられています。 この信仰について、「道と世界はうらはら」などと言うことがあります。人間の浅知恵に走るべきではないことを教えられているのです。 (終)
Fri, 28 Jun 2024 - 384 - トイレのスリッパ
トイレのスリッパ 岐阜県在住 伊藤 教江 「大切なことは、目には見えないんだよ」 これは、不朽の名作『星の王子さま』に出てくる有名なセリフですが、目に見えないからこそ、大切なことを伝えるのは難しいのだと思います。 私は四人の娘を持つ母親です。娘たちはすでに成人していますが、まだ幼い頃は毎日がドタバタで、本当に大切なことをちゃんと伝えてあげられたかなあ、と反省するばかりです。 もう二十年以上前になりますが、長女が幼稚園に通う前の入園説明会でのことです。先生が園児たちに向かって、こう言いました。 「皆さん、今日はお母さんにお礼を言いましょうね。お母さんは毎日、皆さんのために朝早くからご飯を作ってくれたり、お掃除をしてくれたり、お洗濯をしてくれてますよね。だから、今日はお母さんにお礼を言いましょう」 すると、一人の園児が「先生、どうしてお母さんにお礼を言わなくちゃいけないの?だって、ご飯は炊飯器が炊くし、お掃除は掃除機がするし、お洗濯は洗濯機がするんだよ」と言ったのです。 その言葉に私は衝撃を受けました。幼い子供にとって、目に見える物事は分かるけれど、そこにあるはずの目に見えない母親の心までは分からないのだと…。 世の中には、形があり、目に見えるものだけが存在しているわけではありません。生活する上での習慣や規則、さらに人の心など、形もなく目にも見えないけれど、確かに存在するものがたくさんあります。そして、大切なものほど、目には見えないものなのだと思います。 この園児に限らず、子供にとっては、目に映る毎日の何気ない母親の言動が全てだと言えるかも知れません。ただ、そこにある親心が伝わらなければ、子供のためになりふり構わず頑張っているお母さんにとっては、少し寂しいことです。 では、どうすれば毎日の生活の中で、目に見えない大切なものについて子供たちに伝えられるのか…。そう考えた時、祖父のある思い出がよみがえりました。 私は、六人兄弟の二番目の長女として育ちました。兄と三人の弟に挟まれ、いつでもどこでもお構いなしに走り回って遊んでいたので、履いていた下駄を、一日のうちに何度も玄関に脱ぎ散らかしていました。 すると、祖父がニコニコと微笑みながら玄関へやって来て、決まって「下駄の乱れは心の乱れや」と言いながら、私たちの下駄を一つ一つ丁寧に揃えてくれるのでした。そんな祖父を真似て一緒になって下駄を揃えると、祖父は私の頭を優しく撫でながら、「いい子だね。上手に揃えられたね。みんなが下駄を履く時、喜ぶよ。教祖も、お手々たたいてお喜び下さっているよ」と褒めてくれたものでした。 当時の私は、「下駄の乱れは心の乱れ」という言葉の意味までは理解できませんでしたが、ただ祖父がニコニコと微笑んで褒めてくれるのが嬉しかったのです。 しかし、今思うと、祖父は幼い私に形ある「下駄を揃える」という行いを通じて、目に見えない心のあり方、たとえ小さなことでも心を込めて行うことの大切さを、繰り返し繰り返し、根気よく教えてくれていたように思います。祖父にはきっと、幼い子供たちに対して、「将来、少しでも人様に喜んでもらえるように育ってほしい」との強い信念があったのだと思います。その祖父の心が、自分自身が親になって初めて見えてきたような気がしたのです。 そこで、幼い娘にも出来る、人に喜んでもらえる行いは何だろうと考え、トイレのスリッパを揃えることを思いつきました。毎日一緒にトイレに行き、スリッパを揃えながら、このように言い聞かせました。 「こうやってきちんと揃えると、トイレに急いで来た人がすぐに履けるよね。あなたもスリッパが揃っていたら、すぐにトイレに入れるから嬉しいでしょ?」 「うん!そうだね、嬉しい!」 そうして、お手本を見せては同じ会話をし、娘が揃えた後で思いっきり褒めてあげることを繰り返しました。 そして入園式当日、早速、幼稚園のトイレに行き、一緒にスリッパを揃えて、それから思いっきりの笑顔で褒めてあげました。 次の日からは朝、幼稚園に行く前と、帰ってきてから、毎日同じ会話を繰り返しました。 「いってらっしゃい。今日もトイレのスリッパ上手に揃えてきてね」 「うん。わかったよ。お母さん、行ってきます」 「ただいま。お母さん、今日もトイレのスリッパ揃えてきたよ」 「おかえり。お利口だったね~」 私が祖父に褒めてもらって嬉しかったように、娘にも「お母さんの喜ぶ顔が嬉しいから」と思って楽しく実行してもらいたくて、毎日思いっきり褒めてあげました。 それから一年が過ぎたある日、娘の担任の先生が、「どうしてこんな幼い子が、毎日毎日トイレのスリッパを揃えられるのかを知りたい」と、教会を訪ねてきて下さいました。 「幼稚園ではみんなで一緒にトイレに行くんですが、娘さんは自分が用を済ませた後もずっとトイレの前にいて、最後のお友達が済んだ後に、バラバラになったスリッパを、タイルの床に手をついて、楽しそうに一足ずつ揃えてくれるんです。私も結婚して子供が授かったら、こんな素敵な子に育てたいです」 先生は、そう話して下さいました。 その後、先生は結婚を機に夫婦揃っておぢば帰りをされ、神様のお話を聞く「別席」を運ばれました。そして、安産の守りである「をびや許し」を戴いて出産した二人のお子さんと、幸せな家庭を築いておられます。 トイレのスリッパを揃えるという小さな行いが、人の運命をも変える大きな喜びとなりました。子供や孫たちには、自ら進んで人の心に寄り添い、人だすけができるように育ってほしいと、心から願っています。 月日にんけんをなじ事 人間誰しも、「いつ、どこへ生まれようか」などと考えて生まれてきた訳ではありません。皆、自分の出生については、後に親に教えられて知ることができるのですが、たとえ生みの親であっても「どう生きていけばいいのか」については、親の願いを話すことはできても、絶対に間違いのない道を指し示すことはできません。それができるのは、この世界と人間を創られた創造者のみです。 創造者は、造られたものの側、すなわち人間の方から認識することが難しい存在です。だからこそ創造者である親神様は、この世の表に現れ、自ら「元の神・実の神」であると宣言され、人間創造の目的であり、私たちの目指すべき「陽気ぐらし」について教えられたのです。 次のようなお言葉があります。 せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら (七 109) 月日にもたしか心がいさむなら にんけんなるもみなをなし事 (七 110) このよふのせかいの心いさむなら 月日にんけんをなじ事やで (七 111) 世界中すべての人々の心が澄み切って、陽気あふれる暮らしをするようになれば、神の心が勇んでくると共に、人間も同じように勇んでくる。こうして世界中の皆の心が勇み立ってくるなら、神も人もその喜びと楽しみとを一つにした、神人和楽の世界が実現するであろう。 「月日にんけんをなじ事」とのお言葉で、真実の親子なればこその響き合う間柄をお示しくだされています。親神様は、決して彼方に仰ぎ見るばかりの遠い存在ではなく、進んで親子団らんの輪の中に入り、私たちに優しい眼差しを注がれる実に身近な存在です。その親神様の思いに応えることが、私たち子供のたどるべき道であり、陽気ぐらしへとつながる道なのです。 (終)
Fri, 21 Jun 2024 - 383 - 子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」
子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」 和歌山県在住 岡 定紀 この春、高校生になる長男と信仰について話す機会がありました。長男は小さい頃から朝夕のおつとめや、神様に報恩感謝を捧げる「ひのきしん」などを素直に実行し、小学生になってからは、毎年夏の「こどもおぢばがえり」には、多くの友達を誘って参加していました。また、教会で「こども食堂」を始めた時も、積極的に手伝ってくれました。 ただ、小学生も高学年になると、教会について、信仰について真剣に考えることが増えてきます。教会は世のため、人のために活動しているということは分かっていても、では周りの友達がしていない信仰を自分はなぜしているのか?と、深く考え始めるのは当然のことです。 親子で信仰について深く話すようなことは、これまでありませんでしたが、高校では親元を離れて寮に入るので、その前に話せてとても良かったと思います。私自身、教えについて理解を深めるいい機会になりました。 長男との話の中で、「人たすけたら我が身たすかる」という教えについて話題になりました。これは教祖が書き残された「おふでさき」の一首、 わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる(三 47) の下の句にあたります。現在教会で、教祖140年祭に向けての指針となる『諭達』を毎日読んでいますが、そこで引用されているので、子供たちにとっては聞き慣れているお言葉です。 『諭達』には、その引用の後で、「ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」と説明されています。しかし、「我が身がたすかりたいから、人をたすけるようにも思えてしまう」ということが話題になったのです。 確かに「我が身」が先に来るとそうなりますが、「人たすけたら」が先に来るので、決してそうはなりません。しかし時には、「これは我が身のために行っているのではないか」と思えるような状況もあるのです。 例えば、教会で「こども食堂」をしていると、食材などを寄付して頂くことが増えてきます。個人で寄付をしてくださる方は、こちらが名前を尋ねても「名乗るほどの者ではありません」という感じで、匿名でされる方が多くおられます。 一方、企業から寄付を頂く場合、大概は会社名を書いたポスターやチラシが一緒になって送られてきます。まるで、「わが社は社会貢献をしています」と宣伝をしているかのようです。そんな場面に出会うと、こちらが人に対して親切にする時、何かを得ようと期待しているようなことはないか?と反省させられます。 長男が、「大切なのは、見返りを求めて人をたすけるわけじゃないってことやろ?」と聞くので、「そういうことだよ」と答えましたが、その後も何かすっきりしないものが残り、色々と思案しました。 数日後、再び長男と「見返りを求めない人だすけ」について話しました。まず思い浮かぶのは、病気や怪我をしている人に対してのたすけです。皆が似たような経験をしたことがあるからこそ、そんな人を目の前にすると、自然と身体が動くのでしょう。何とかして痛みや苦しみを取り除いてあげたいという一途な思いに、我が身の欲が入る余地はありません。 また、能登半島地震で多くの方が被災しましたが、被災地に駆けつけるボランティアの人たちや、寄付をしたり支援物資を届ける人たちも、決して見返りを求めているわけではありません。 そして、子供には言いませんでしたが、もっと身近な例があります。それは我が子を育てる時です。子供を育てるのに、決して自分の老後の面倒を見てもらおうと期待しているわけではありません。 特に、我が子を産んだ母親の愛情は、私には想像できないものです。「母子一体」という言葉がありますが、そこには「自分」と「子供」という隔てがなく、「人たすけたら我が身たすかる」の中にともすれば聞こえるような、「人」と「我が身」の区別さえないのでしょう。 だからこそ、「身内」と言われるように、自然に我が事として共感できる家族同士からたすけ合っていくこと。そして、その身近な所から共感の輪を広げていくことが大切なのだと深く気づかされました。 今後も、親子で信仰について話す機会を持ちたいと思います。 心のほこり 曇りや雨の日の飛行場には、雨雲が低く垂れこめています。暗い空を仰ぎ見ながら、これで飛行機は無事に飛べるのか、と不安な気持ちになります。ところが、ひとたび機体が舞い上がり、雲の上に出れば、そこには太陽が煌々と輝き、いつもと変わらぬ明るさいっぱいの世界が開けています。一見暗く見える雨の日も、決して光がなくなってしまったわけではなく、ただ雲や霧が太陽をさえぎってしまっているだけのことなのです。 私たちの日々の心遣いに関して、この雲や霧にあたるのが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」がお教えくだされた、「心のほこり」と言えるのではないでしょうか。 教祖は、私たち人間の間違った心遣い、神様の望まれる陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえ、神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をするようにと諭されました。 心のほこりを払うとは、言わば雲や霧を取り去って、太陽のような、人間本来の明るい澄んだ心を取り戻すことです。ではどうすれば、ほこりを払うことができるのでしょうか。 たとえば、顔に泥がついてしまったら、鏡に顔を写して拭き取りますが、心のほこりを払うのもこれに似ています。私たちはややもすると、自分のことを棚に上げて、人の欠点をあげつらうことが多いものです。 しかし、その目に映った人の欠点こそ、実は自分の心のほこりを映し出している鏡なのです。鏡に映った人のほこりは、自分のほこりの影であると反省し、心を治めるところに、たすけ合いの精神が生まれ、陽気ぐらしへの道が開かれるのです。 「心というのは、コロコロ変わるから心というのだ」などと言われます。単なる語呂合わせのようで、実に本質をついています。要するに、心は自由で、どんな姿形にも変わるということです。 私たちは誰しも、明るく楽しい、陽気な暮らしをしたいと望んでいます。そうであれば、皆が求める楽しい暮らしに向けて、心が自由自在に動いていけば何の問題もありません。ただ、お互いに相手のあることを忘れてしまうと、自分だけの楽しい暮らしへ向かうあまり、知らず知らずのうちに人を不快にさせることがあるかも知れません。これは自由ではあっても自分勝手な心であり、反省しなければならないほこりの心遣いです。 神様は、 「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん」(M30・12・11) 「勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん」(M33・11・20) と仰せられています。 (終)
Fri, 14 Jun 2024 - 382 - ある女性教友の終活
ある女性教友の終活 インドネシア在住 張間 洋 先日、ジャカルタ郊外で教友のAさんが81歳で出直されました。その知らせに、その月のインドネシア出張所月次祭に参拝した誰もが耳を疑ったと思います。なぜなら、祭典でてをどりをつとめ、直会の席で談笑し、自分の足で公共交通機関を使って帰るAさんの元気な姿を皆が目にしていたのですから。しかも突然の訃報が入ったのは、その月次祭の翌日のことでした。 ただでさえ歩行者に優しくないジャカルタの交通事情の中、公共交通機関のみで片道二時間かけ、月次祭に毎月欠かさず参拝してくださる姿を見て、常々頭の下がる思いがしていました。 知らせを受け、夕暮れ前にジャカルタ郊外にあるAさんの自宅にうかがいました。寝室に通してもらうと、白布を掛けられている亡骸が目に飛び込んできました。布をとってお顔を見た瞬間、前日お会いしたばかりでこんなことがあるのかと、感情を抑えきれませんでした。 Aさんはここ数年、人生の終わりを見据え、終活に取り組んでいました。生涯独身で、親戚も海外在住の実の姉と、疎遠になっている義理の妹がいるだけだと聞いていました。 数年前に持ち家を手放し、家具や家電も少しずつ処分し、写真や思い出の品なども整理しているとのこと。私にも「出張所でこのDVDプレーヤーを使ってね」とか、「このこけしは日本に行った時のものだから、出張所で引き取ってね」などと声を掛けてくれていました。 また、寝室にはすでに死装束として、教服一式や下着などが一つのかばんに入れて準備されていました。出張所の月次祭でも以前は教服を持参していたのですが、それをしなくなった理由がこの時に分かりました。 Aさんは1987年、インドネシア出張所が開設される年におさづけの理を拝戴して以来、ずっと途切れることなく足を運び続けた方で、出張所では世間話もお好きでしたが、いつも教祖のお話をすることを好まれました。ここ数年はさらに熱心に教えを求め実践し、周囲の方々に伝えることを地道に続け、時折そうして声を掛けた方を出張所に導いていました。 また終活の一環として、近隣の方々とのお付き合いをとても大事にしていました。訃報を受けて自宅を訪れた際、「あの、もしかしてコミュニティからの方ですか?」と声を掛けられました。 何のことかと思ったのですが、よく聞いてみると、コミュニティとは天理教のことを指していました。Aさんは「私にもしものことがあったら、後のことはすべてコミュニティの人たちに委ねてほしい」との遺言を、近隣の親しい方や町内会長さんに託していたのです。 インドネシアでは、一般的に「宗教」とみなされるのはイスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー、仏教、儒教の6つで、全国民がこの中のどれか一つに所属し、宗教省という行政機関のもとに管理されています。ゆえに、出生や結婚、死亡などの節目の際には、所属宗教の認可と書類手続きが必要になるのです。 Aさんの遺言は、当然それを理解した上でのもので、どのように見送ることができるか、私たち天理教の者数名と近隣の方々で話し合いを持ちました。 まず、遺言通り天理教式で葬儀をすることは現実的に不可能なので、所属している宗教に則った葬儀を行うことになり、葬儀ののちは火葬し、海へ散骨してほしいとの遺言についても検討しました。喪主となるべき家族や親族が不在で、決定権があいまいな中、その夜のうちに居合わせた者で相談し、まずは斎場を押さえるところから動き始めました。 すると、数珠繋ぎのように信じられないことが立て続けに起こりました。まず斎場に行くと、夜中にも関わらず、同行していた近隣の方の同級生だという神父さんがたまたま居合わせ、その方に頼んで葬儀を取り仕切って頂くことになりました。その神父さんはその場で実に手際よく、斎場への亡骸の搬送から、式に至る段取りまでつけて下さいました。 さらに驚いたことに、斎場に寄贈者不明の棺が届いていたり、町内会で霊柩車を所持していたことも重なり、日付が変わる頃にはすべての準備が済み、その日に葬儀を行い、夕方には火葬まで終える手筈が整ったのです。 疎遠だった義理の妹さんとその家族にも連絡が取れ、葬儀への参列が叶い、無事見送って頂くことができました。 斎場での式が終わった後、出張所において、天理教式の葬後霊祭という形をとって信者一同で見送らせて頂きました。その直会の席で、いかにAさんの出直し、去り際がきれいなものだったか、そして、Aさんをいい形で見送りたいという近隣の方々の思いがどれほど強いものであったかが話題になり、それもAさんの温かい人柄と、何より信仰者としての日々の通り方によるものであったのだと感心せずにはいられませんでした。 このインドネシアで天理教の信仰を続けることがいかに大変なことかを考えると、今さらながら頭の下がる思いがします。 そして、出直す前日の月次祭の参拝は、親神様がAさんの真実のつとめに対して与えられた最後の贈り物だったのかもしれないと、今、思いを馳せています。 だけど有難い 『幸せの条件』 私は時々、若い学生さんが集まった席で、こう尋ねることがあります。「幸せの条件って、どんなことだろうか?」。そして、手を挙げてもらいます。 たとえば「財産がある」―意外に手は挙がりません。若いですから、お金なんか要らないと思っている人もいますし、そんなことはあまり重要ではないと思いたい、という気持ちもあるのでしょう。そこで「本当に要らないの? なかったら困らない?」「何回、手を挙げてもいいよ」と言うと、ジワジワと増えていって、最後には大半が手を挙げます。 「大好きな人と結婚する」―これは文句なしにたくさん挙がります。 「健康」―これも文句なし。 「仕事」―これは全員ではありませんが、男子はほとんど手を挙げます。 「生き甲斐になるような趣味」―これも、そこそこ挙がります。 「子供」―これはたくさん挙がります。 ほかにも「地位」や「名誉」―これも数は少し減るけれども手が挙がります。こんな調子で列挙していくと、「幸せの条件」はいろいろあるのです。 そこで次に、「大好きな人と結婚して、仕事が順調で、子供も生まれて、家族みな健康。言うことなしの状態で一年経ったとして、幸せだろうか?」と聞くと、あまり手が挙がらないのです。「先ほど挙がった条件が入っているのに、なぜ手が挙がらないんだろう」と尋ねると、「そのときになってみないと分からない」という答えが返ってきました。 そうなのです。実は大好きな人と結婚しても、一年経ったら大好きかどうか分からないのです。財産があっても、揉めている家もあります。子供がいたらうれしいなと思っても、子供で困っている家もある。つまり、「幸せの条件」が与えられているからといって、幸せとは限らないのです。世界中で一番お金持ちの人は、きっとどこかにいるに違いありません。じゃあ、その人が幸せかといえば、それは分かりません。 では、幸せの元はどこにあるのでしょうか。それは心です。「子供がいることがうれしい」「配偶者がいることがうれしい」と思えたら幸せですし、「嫌だなあ」と思ったら不幸せなのです。 以前、ある六十代の女性がおたすけを願ってこられました。その方は、喉頭ガンで食道を全摘出されました。大変苦しいと、泣きながら訴えられます。全摘出ですから食べ物が入りにくくて苦しい。体は手術の跡も生々しい。「自分は手術してほしいと思っていたわけじゃない。承知した覚えがない。痛い苦しいと言っても、家族が分かってくれない」と泣いて訴えられるのです。 その方の話を聞いたうえで、私は尋ねました。 「教祖が貧のどん底を通られたときに、明日炊く米がないなかを、『世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある』と子たちを励ましながら通られたというお話があります。私はそれを聞いて知っているけれども、実際にその状況になったことがないので、どれだけ有難いことなのか実感はありません。奥さんは、水も喉を越さない状況で長い間過ごされましたが、初めて物が通った瞬間はどうでしたか?」 すると、その方の顔色が変わって、「そら、美味しかったよ」と。 「そんなに美味しかったですか」「あんなに美味しいと思ったことはなかった」と、先ほどまでの涙とは反対の、うれし涙で話されました。私が「奥さん、それをお子さんにお伝えになったらどうでしょう」と言うと、「良い話を聞かせていただいた」と喜ばれました。 これは心の向きが変わったということですね。心がたすかったということなのです。来るときは悲しくて苦しくてたまらなかったのに、おさづけを受けて、帰るときは笑顔でニコニコと帰られました。 つらいこと、苦しいこと、悲しいことは、わざわざ数えなくてもつらいし、苦しいし、悲しい。それは誰しも分かっているのです。この女性が、水が喉を越した喜びを感じたときにうれしくて泣けたように、私たちも数えてみれば、ご守護をいっぱい頂いています。そのご守護を喜ぶ心になったとき、実は体もたすかっていくのです。 (終)
Fri, 07 Jun 2024 - 381 - トゥクトゥクに揺られて
トゥクトゥクに揺られて タイ在住 野口 信也 私がタイへ初めて来たのは35年以上前、22才の時です。タイ語の勉強のため、タイ語学校へ通っていました。また、生活の中でも出来るだけタイ語に触れるために、信者さんのお宅に下宿させてもらっていました。 その下宿は、旧市街地のトンブリという地区にありました。地区の主要道路から小路を5、6キロほど入り、さらにそこから車一台が通れるぐらいの細い砂利道を200メートルほど入っていきます。 毎朝、お手伝いさんが「元気が出るから飲みなさい」と言って作ってくれる、砂糖と練乳の入ったあま~いコーヒーを飲んで出発。砂利道を出たところで、満員の乗り合いトラックにつかまって大通りまで出ます。 そこから、6人ぐらいが乗れるトゥクトゥクというオート三輪で船着き場まで行き、定期船に乗っておよそ20分で学校近くの船着き場に到着。そこからさらにバスに乗って2、30分、ようやくタイ語学校に到着します。バスだけを使って学校まで行くルートもありますが、バンコクの朝のラッシュ時は渋滞が激しく、船を使ったルートが最も快適でした。 私の通っていたタイ語学校は、キリスト教の布教師のために開かれた個人経営の学校で、クラスメートは10人全て違う国の方々で、私以外は全員がキリスト教の関係者でした。授業はベテランのタイ人の先生が、ほぼ英語も使うことなくタイ語のみを使って教えるスタイルで、みんな和気あいあいと楽しく勉強していました。 授業が始まって数日後、その日の会話の内容は自分の兄弟についてでした。私は11人兄弟ですので、兄弟の話になるといつもみんなに驚かれて、色々と質問されたりします。タイでも同じような反応をされるだろうと思い、構えていました。 先生はまず最初に、カナダ人女性に「あなたの兄弟は何人ですか?」と尋ねました。すると「13人です」とのこと。私はびっくりしてその人のほうを見ましたが、他の生徒は驚きもせず少し違和感を感じました。 でも、すぐにその意味が理解できました。次に聞かれたアメリカの婦人が「私は14人兄弟で、末っ子の双子です」と言ったのです。その隣のオーストラリア人も10人以上の兄弟でした。ですから、私が「11人兄弟です」と答えた時も、当然誰も驚きませんでした。実にクラスの半分以上の人が、10以上の兄弟がいると答えたのです。 キリスト教という宗教を少しは知っているつもりでいたのですが、神様を信じて、授かった子供たちを大切に育てる。そうした信仰を持つ人たちに囲まれていることに、強い安心感や親近感を覚えました。 また、私のクラスメートの共通点の一つは、疑問に思ったことは遠慮なく率直に聞くということです。自分たちより若いタイ人の先生に、タイで見聞きして疑問に思ったことを遠慮なく質問するので、内容によっては先生も大変答えにくそうでした。 例えば、消防署について。家が火事になれば、当然どの国でも消防署に連絡を入れ、すぐに消火活動が行われます。ところがタイの場合、消防署に電話を入れると、まず最初に行われるのが金額の交渉です。いくら支払うかによって、消防車が何台出動するか、といったやり取りがされるというのです。さすがに先生も、「恥ずかしいので本当のことは言えません」と答えてその場をしのいでいました。 私はそれを聞いて、日本で教わっていたタイ語の先生が、「『地獄の沙汰も金次第』と言いますが、あれはタイのことです」と、冗談ぽく仰っていたことを思い出しました。タイは貧富の差が激しく、首都バンコクには多くの方が田舎から出稼ぎにやってきます。貧しい人々が身を寄せ合って暮らすスラムも多く存在し、障害のある方が道端で物乞いをしたり、子供が路上で車の窓ふきや花売りをしている姿を見かけることも多いのです。 こうした問題は何もタイだけの話ではありませんが、若かった私は、こうしたタイの現実に少なからずカルチャーショックを受けました。 さて、そうした中、ある日知り合いと遅い夕食を終え、繁華街から下宿へ帰る時のことです。道路の混雑もないので、トゥクトゥクで帰ることになり、運賃は交渉の末、60バーツに決まりました。 途中、半分眠りかけながらトゥクトゥクに揺られていると、急に停車しました。どうしたのかと思い目を開けると、検問のようです。警察が次々にタクシーやバイクやトゥクトゥクを止め、運転手から免許証を取り上げていきます。私が乗っていたトゥクトゥクの運転手は、免許証を警官に渡す時に「どうしてですか」と、聞き取りにくいタイ語で尋ねていました。警官は彼の免許証を一瞥すると、返事もせずにそれをポケットに入れ、別の車の方へ歩いて行きました。 なるほど、普通に走っていただけなのになぜ捕まったかと思えば、酔っぱらった警官が小遣い稼ぎで車両を止めているようでした。100バーツを支払った運転手にはすぐに免許証が返され、解放されるという仕組みのようです。 運転手は「お兄さんごめんね」と私に申し訳なさそうに謝り、「私は地方からバンコクへ出てきたばかり。今日も今、仕事を始めたところで売り上げもなく、警察に払うお金がないんだ」と状況を説明してくれました。 私は運転手にではなく、警官に対して腹が立っていたので、何とか粘って100バーツを払わずにここを通り抜けることを考えていました。しかし、警官は我々を気にも留めず、やって来る車両を次々に止めて同じことを繰り返しています。とうとう私も粘り負けで、運転手に100バーツを手渡しました。 こうした状況の場合、普通なら乗客は警察に止められた後すぐに下車して、近くを走っている車に乗り換えてしまうのですが、私は運転手が気の毒でそうはしませんでした。私のような外国人が乗っていれば、警察が諦めるのではという期待もあり頑張ってみましたが、結局だめでした。 100バーツを支払い、免許証を返してもらった運転手は、合掌して何度もお礼を言ってくれました。そして再びトゥクトゥクを走らせ、下宿前の砂利道の入り口に到着。「砂利道に入るとUターンが難しいので、ここからは歩いて行きます」と言って、降ろしてもらいました。 私が運賃の60バーツを渡そうとすると、運転手は驚いて「結構です」と断りました。警官への100バーツを払ってもらった上に、乗車賃までもらえない、という意味であろうと理解しましたが、運転手に責任があるわけではないし、また、彼の優しい人柄にほだされた面もあり、「乗車賃ですから」と言って、何とか受け取ってもらいました。 すると彼は急に涙を流し、合掌をしながら何度も何度もお礼を言ってくれるのです。私も少しはいいことをした気持ちになっていましたが、まさか涙を流されるほどとは思わず、驚いてしまいました。彼としては、本当に切羽詰まった思いだったのでしょう。 下宿までの砂利道を、色んなことを考えながら歩いて行きました。この砂利道は周りが木々に覆われ、電灯などもなく、夜は真っ暗です。しかし、ふと「いつもより明るいな」と感じて後ろを振り返ると、何と先ほどの運転手が、私の歩く砂利道をトゥクトゥクのヘッドライトで照らしてくれていたのです。どこまで行っても、ずっとずっとです。私は手を振り下宿へと歩いて行きながら、何とも言えない気持ちになりました。 「むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい」 と、天理教の教祖「おやさま」は教えてくださっています。当時の私は警官の所業に腹を立てていましたが、運転手の純粋な心に、嫌な思いも全て吹っ飛んでしまいました。そして、彼には無事で元気に頑張ってほしいと、心から願いました。 人を責めるようなむごい心遣いは、争いや苦しみを生むだけです。そうではなく、困っている人や苦しんでいる人に、少しでも優しさを届ける。そうした行いが自分を含め、人に幸せをもたらしてくれるのだとあらためて思う、今日この頃です。 はなしのたね 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の十下り目において、 三ツ みづのなかなるこのどろう はやくいだしてもらひたい 四ツ よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや 五ツ いつ/\までもこのことハ はなしのたねになるほどに と教えられています。 三ツと四ツのお歌で、水と泥のたとえを用いて、人間の心の欲について仰せられています。このような話になると、厳しい禁欲的なイメージが思い浮かぶかもしれません。しかし、教祖が欲を離れるように促されるのは、あくまでも、それによって私たちが陽気ぐらしを味わうことができるからなのです。 江戸時代末期の人々には、病気や事情などのつらく苦しい状況が表れると、やみくもに神仏に祈ったり、あるいはこの世での解決を諦め、理想の世界を極楽浄土に求めたりする風潮がありました。そんな中、教祖は、自らの心を濁らせている「欲」を取り払い、心を澄み切らせることによって、この世で極楽のような世界が味わえることを教えてくださいました。 現在は医療が発達し、昔ほど神仏にすがる状況ではありません。しかし、医療がどれほど発達しても、それによって根本的な心の問題を解決することは難しいでしょう。 この世界には、自らの人生に希望を見出せずにいる人が多く存在します。そのことからしても、私たちが本当の幸せを手に入れるためには、自らの欲の心に向き合っていくことが必要であり、そこに誰もがたすかっていく道があるのです。 そして教祖は、続く五ツで、これらの教えは、いついつまでも話の種になる。つまり永遠に変わることのない、人々がたすかっていくための真理であることを仰せられています。 (終)
Fri, 31 May 2024 - 380 - じいちゃんにまた会える日
じいちゃんにまた会える日 埼玉県在住 関根 健一 先日、立て続けに親戚や知人の訃報が届きました。人が亡くなるというだけでも悲しいことですが、まだ私と同年代の50代の知人や、私よりも若い人、特に娘の同級生の訃報を聞いた時には、同じ親として何とも言えない気持ちになりました。 親戚の葬儀は天理教式で執り行われました。天理教を信仰していない参列者も多く、開式前に葬儀業者が式次第や作法などを丁寧に説明してくれました。亡くなった親戚は80代でしたが、家族にとってはいくつであっても悲しい気持ちに変わりはありません。悲しみの中にも、故人の人柄同様の温かさに包まれた葬儀になり、無事に送り出すことができました。 天理教式の葬儀では、故人の生い立ちや人柄について書かれた「誄詞」というものを読み上げます。故人と参列者との関係性はそれぞれ違いますが、どんな人だったのかをより詳しく知ることで、祈る気持ちも深くなる気がします。 そしてもう一つ、天理教式の葬儀を特徴的にしているのが「出直し」の教理だと思います。天理教では、人の死を「出直し」と呼び、親神様からの「かりもの」である身体をお返しすることだと教えられています。死は再生の契機であり、新しい身体を借りてこの世に帰ってくる、「生まれ替わり」のための出発点でもあるのです。 以前、ある天理教の教会長さんから、「葬儀は天理教を信仰していない人も多く参列する貴重な機会です。故人との別れを惜しむ人たちに、少しでも前向きな気持ちになってもらえるように、必ず出直しの教理についてお話しさせて頂きます」と聞かせてもらったことがあります。死は「永遠の別れ」だと思っていた人が、出直しについてのお話を聞いて、心が前向きになる場合もあるとのことでした。 二十数年前、57歳だった父が亡くなりました。当時25歳だった私は、何も分からない中、言われるがままに喪主を務めることになりました。鳶職人だった父を偲んで多くの方が弔問に来てくださり、皆さんへの対応をするので精一杯でした。 当時、一番上の姉の子供で、小学一年生の姪と幼稚園に通う甥がいました。父にとっては初孫と二人目の孫で、父は二人をとても可愛がり、姪と甥も「じいちゃん、じいちゃん」と慕っていました。 そのじいちゃんが突然亡くなったのです。小学一年生の姪は父の亡骸と対面するなり、目を真っ赤にして泣き始めました。 その一方で、甥の方はというと、まだ人の死を理解することができないのか、「じいちゃん何で寝てるの?」と不思議そうな顔をしていました。周囲もその姿を見て、まだ理解できないことで却って傷つかないで済むだろうと、ちょっとホットした気持ちになりました。 自宅で数日亡骸を安置した後、式場に向かうために納棺をする時のことです。棺に納められた父の姿を見た甥が、突然大きな声で泣き出したのです。 「じいちゃん!じいちゃん!どこに行っちゃうの?」 家中に響き渡る甥の泣き声に、たちまち大人たちも涙を誘われました。送り出す準備が整い、家族がひと通り父に声をかけ終わっても、甥が泣き止む様子はありません。見かねた二番目の姉が、「じいちゃんはね、一度お空に行って、また身近な誰かのお腹に戻ってくるんだよ」と言うと、それまで泣いていたのが嘘のようにピタッと泣き止み、「ほんと?」と聞きます。 家族みんなで「ホントだよ」と答えると、甥は納得した様子で、それからは泣くことはありませんでした。式場での姪と甥は、「いい子にしてたら、じいちゃんが戻ってくるからね」とみんなに声を掛けられ、大人でも退屈になりがちな葬儀の時間を、きょうだい揃ってお利口に過ごしてくれました。 そして葬儀が終わり、火葬場に移動しました。火葬炉の前に父の亡骸が到着すると、最後のお別れに参列者のすすり泣く声が父の周囲を埋めていきます。そんな中、甥を中心に最前に並んだ私たち家族にもう涙はありません。 「さあ、じいちゃんがお空に飛び立つぞ!」 「じいちゃん、また帰ってきてね!」 姪と甥に聞かせるように大人たちが声に出します。 火葬炉の扉が閉まり、参列者のすすり泣く声がピークに達すると同時に、カウントダウンが始まりました。 「5、4、3、2、1、0!」 最後は甥の「出発、進行!」の声に見送られ、父は旅立って行ったのでした。 葬儀が終わり、私たちは父のいない日常に戻りました。父が亡くなってから葬儀が終わるまでの間は、目まぐるしく時が過ぎ、悲しむ暇もありませんでした。ですが、日常に戻り、ふと、いつも居た場所に父がいないことに気づくと、涙があふれてきました。 そんな中、「じいちゃんにまた会える日」を楽しみに元気よく過ごす甥の姿が、私たちに希望を与えてくれました。 教祖から教えて頂いた「出直し」の教理が、父の死という大きな節を、我が家の希望に変えてくれたのでした。 くちわにんけん心月日や 天理教は、元の神・実の神である親神様が、いち農家の主婦であった当年四十一歳の中山みき様、私たちは「おやさま」とお呼びしてお慕いしていますが、その教祖の身体に入り込まれ、教祖が親神様の話を取り次ぐ「月日のやしろ」とお定まりくだされたことにより、始まった教えです。すなわち、教祖のお心は親神様のお心そのままですが、お姿は私たち人間と何ら変わるところはありません。 このことを、直筆による「おふでさき」に、 いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や (十二 67) しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている (十二 68) と記されています。 また、『天理教教典』には、 「教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違った人と罵った。」 とあります。 とかく私たちは、理解できないものに対して警戒心を抱き、時にそれを否定し、排除しようとします。浅はかな人間思案とはいえ、それはむしろ当然のことと言えるかも知れません。 いまゝでハをなじにんけんなるよふに をもているからなにもハからん (七 55) 何も知らない人々に納得を与え、真実の道へ導こうとされる教祖のご苦労は、並大抵のことではなかったでしょう。その深い親心たるや、まさしく一れつ人間の親である所以です。そのご苦労に思いを馳せ、次のお言葉をかみしめたいと思います。 「神の話というものは、聞かして後で皆々寄合うて難儀するような事は教えんで。言わんでな。五十年以来から何にも知らん者ばかし寄せて、神の話聞かして理を諭して、さあ/\元一つの理をよう忘れんように聞かし置く。さあ/\それでだん/\成り立ち来たる道。」(M21・8・9) (終)
Fri, 24 May 2024 - 379 - みんな神様のこども
みんな神様のこども 千葉県在住 中臺 眞治 私どもの教会では、様々な事情で行き詰った方々が共に生活しています。人数はその時々によって変わりますが、血のつながった家族以外に4人から8人の方が、入れ替わり立ち替わりで暮らしています。 仕事を失った人、DVから逃げてきた人、心を病んでしまった人、罪を犯してしまった人など事情は違いますが、一人ひとりは皆とても優しい方ばかりです。しかし、元々ぎりぎりの状況で生活をしていた中で、ちょっとしたことをきっかけに人との縁を失い、帰る家を失い、人生に行き詰って教会で暮らすようになったのです。 私は大学を卒業後、23歳の時から、そうした方々と一緒に暮らすようになり、今年で20年目になります。そのような暮らしを始めるきっかけを与えてくれたのは両親でした。 私は、東京の目黒区にある教会の次男坊として生まれ育ちました。今から30年ほど前、私が中学生の頃の話になりますが、当時の東京には、バブル崩壊のあおりを受けて路上生活を余儀なくされた方が大勢おられました。今と比べると人権意識も低く、福祉的な支援も受けにくかった時代。そうした社会状況の中で自殺者は急増し、大きな社会問題になっていました。 父はそのような時代に、「住むところのない方、ご相談ください」と書かれたチラシを配ってまわり、教会で受け入れ、母が生活のお世話取りをするようになりました。教会の土地面積は56坪で、それほど大きくない建物ですが、多い時には家族以外に30人から35人ぐらいの方が身を寄せていました。 中学二年生の頃、当時食べ盛りだった私は、人が増えるたびに自分のご飯のおかずが減ることにイライラし、会長である父を責め、「なんで他人と一緒に暮らさなきゃいけないんだ!他人なんだから放っておけばいいじゃないか」と言い放ったことがあります。すると父は穏やかに、「他人じゃない。きょうだいなんだよ。不幸になっていい人なんていないんだよ」と諭してくれました。 その後、私は地元を離れ、奈良県にある天理高校、天理大学へ進学したので、両親がどのような思いでこの活動を続けていたのかはあまりよく知りませんが、この時の父の言葉が今も心に残っています。 そんな両親の影響で、大学卒業後、様々な事情で行き詰った方々を、当時青年づとめをしていた日本橋大教会でお預かりするようになり、その三年後に教会長に就任してからは、自教会で共に暮らすようになりました。今ではそうした暮らしが私の生きがいになっています。 私は、教会で一緒に暮らす方々とは、たすけ合って生きられる関係でありたいと思っています。そのために毎日一緒におつとめをつとめ、一緒にご飯を食べます。また、うちの教会で実施している「こども食堂」や、高齢者宅でのお手伝いなど、ボランティア活動にも参加してもらっています。 そうして適度に一緒に過ごす時間を持つことで、相手に対する情が芽生えてきます。すると何か問題が起きた時にも、何だか放っておけないという感情が自然に湧いてくるのです。 少し話は変わりますが、一時期、若い人の間で「無敵の人」という言葉が流行したことがありました。お金もない、頼れる家族もいない、友達もいない。そのような人は失うものがないから、凶悪な犯罪をためらいなく引き起こす。そういう意味で「無敵の人」というレッテルを張り、社会から排除しようとする。そのような流れがありました。 うちの教会で一緒に暮らすようになった方々は、お金もない、頼れる家族もいない、そんな方ばかりですが、では「無敵の人」なのかといえば、そんなことはありません。それぞれに、本人の責任がすべてとは言えないような困難を抱えて行き詰ってしまい、頑張りたいけれど頑張れない状況の中で、今は誰かの支えを必要としているのです。 相手の存在を不安に感じ、「無敵の人」というレッテルを張り、排除しようとしたり、いなかったことにしてしまうのは、その人のことをよく知らないからだと思います。だからこそ色んな人に出会い、一緒に時間を過ごしてみることが大切なのだと感じています。 天理教の原典、「おふでさき」では、 せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや (十三43) と教えられています。また、 このさきハせかいぢうハ一れつに よろづたがいにたすけするなら (十二93) 月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ (十二94) とも仰せになります。 世界中の人間はみんな神様の子供で、お互いはきょうだいであり、対等な関係なのだということ。そして、差別が良くないことはもちろん、お互いを尊重し合い、たすけ合って生きることを神様は喜んでくださり、不思議なたすけを与えてくださるのだと教えられています。 自分勝手で、ついつい我が身可愛いという心が先立つ私ですが、教会で共に生活をする方と、たすけ合って生きていく関係を築けるよう、こども食堂や地域のボランティア活動など、一緒に時間を過ごせる場を大切にしていきたいと、日々考えているところです。 理ぜめの世界 この世は、親神の身体であって、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。 実に、この世は、理ぜめの世界であって、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。 『天理教教典』には、親神様のご守護についてこのように記されています。 この世界は神の身体である、と教えられることからすれば、ご守護は親神様のお働きの「すがた」ということになるでしょう。あるいは、親神様のご意志の現れであるとも言えます。 そう考えれば、この世界の営みすべてが、親神様の恵みであることも、また、時として出合う厳しい状況が、可愛い子供をたすけたいばかりの慈愛の警告であることも理解できます。 しかもそのご守護は、いついかなる時も整然と筋道立った展開を見せられるのです。 お言葉に、「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」(M25・1・13)とあるように、厳然と、一分のすきもない天の理を諭されています。 親神様の見抜き見通しの眼を前にしては、私たちの隠れる場所はどこにもありません。日頃の言葉や行いはもちろん、心の中でひそかに思うことすら見通され、思召しのままに守護されているのです。このような親神様の眼差しを前に、かしこまり慎むことはもちろん大切ですが、ただそれだけでは、ご守護を存分に味わうことはできません。むしろ自ら進んで、その温かい懐に身をゆだねて通ってこそ、深い親心がより身近に感じられてくるのです。 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする (三下り目 7ッ) めへ/\にハがみしやんハいらんもの 神がそれ/\みわけするぞや (五 4 ) 親神様は、寸分の違いもなく公平に、一れつ人間をお見守りくださっているのです。 (終)
Fri, 17 May 2024 - 378 - ガラポン出来たのに!
ガラポン出来たのに! 岡山県在住 山﨑 石根 私の教会では、年末年始に色々な行事があるため、私は子どもたちとゆっくり冬休みを過ごしたことがありません。そんな中、1月4日だけは唯一私の予定が空く日なので、例年この日に子どもたちと買い物に行くことが多いのです。今年のお正月も、この日に朝から子どもたちと買い物に行きました。と言っても予算が限られているので、この日の妻は、新春の特別値引き商品を狙って一日、本気モードです。 まず、アウトレットのお店で子どもたちの冬服を見ます。今回もアウターやパンツなどを手際よく選んで、見事な買い物をしていました。私はおしゃれには疎いので、こういう時は邪魔をしないように見守っているだけです。次第に飽きてくる下の子の相手をするのも、私の大事な役目です。 次に大型ショッピングモールに行きましたが、それまでに洋服の買い物が済んでいたので、ここでは子どもたちが100円ショップで好きなものを買ったり、お昼のお弁当を買って車の中で食べたりしました。五人も子供がいると、レストランで食べるというのはなかなかハードルが高いものなのです。 そして、最後に大型靴専門店に行き、子どもたちの新しい靴をそれぞれ購入しました。もちろん「広告の品」や「特価セール」の靴ばかりですが、子どもたちもその中からお気に入りの物を上手に選びます。そんな中、高校生になった長男だけはファッションへのこだわりがあり、自分のお年玉で買うということもあるので、妻と同じぐらい真剣モードです。 そんな彼が、次のような提案をしてきました。 「これと同じ靴がこっちでは7,000円だけど、さっきのショッピングモールでは4,000円だった」とのことで、もう一度さっきのお店に行きたいと言うのです。正直、私は「またあの人混みの中に行くのか…、車を駐めるのも大変だし…」と少しげんなりしましたが、長男の思いにも応えなくてはなりません。 そして、再びショッピングモールの中の靴屋さんに向かい、お目当ての靴を手にとりました。ご満悦の長男と一緒にレジに並び、会計をしていると、店員さんがお釣りやレシートと一緒に「大抽選会」と書かれた抽選券を4枚渡してくれました。 店内で開催されていたイベントを思い出し、「え?ガラポン出来るんですか?」と尋ねると、「はい。でも5枚で1回出来るので、あと1枚必要ですね。1,000円のお買い物で1枚お渡しできるんです」と店員さん。 「じゃあ無理かぁ」と残念がる私の横で、長男が「いや、一回目来た時に百均で1,000円以上買い物したから、お母ちゃんがその券一枚もらってたで!」と言うではありませんか。 ところが、にわかに希望の光を見出した私に、長男が続けて言いました。「でもお母ちゃん、その券を〝誰かに使ってもらえたら〟って広告の所に置いてたわぁ」。 「え?どういうこと?」すぐに理解できなかった私は、ベンチで休憩する妻のもとに駆けつけ、「さっきの抽選券、どうしたん?」と尋ねました。すると、「1枚だけあっても仕方ないから、入り口の広告が置いてある籠に入れておいた」と言うのです。 「もう!ガラポン出来たのに!」とプンプン怒る私を横目に、「まだ、あるかも!」と、子どもたちがショッピングモールの入り口に向かって走り出しました。が、案の定、無くなっていました。当然です。もう一時間以上前のことなのですから。 「あ~あ、ガラポン出来たのに!」と諦めきれずに文句を言う私に、妻は「だってガラポンは今日までやし、一枚では役に立たんのやから、今日中に誰かに使ってもらったほうがええかなって思ったんやもん」と言うのでした。 車で帰路につく時、ようやく残念な気持ちが落ち着いた私は、ふと、天理教教祖「おやさま」の次のような逸話を思い出しました。 明治七年のこと。教祖に我が子をおたすけ頂き、熱心に信心を続けていた方の家に、ある夜、泥棒が入りました。ところが、物音で気づくことができ、何も盗られずに済んだその方は大層喜んで、その翌朝さっそくお詣りして、「お蔭で、結構でございました」と、教祖に心からお礼を申し上げました。 すると教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と仰せになり、その方は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、というお話です。(教祖伝逸話篇39「もっと結構」) このお話を耳にする度に、「実際盗難にあったら、欲しい人にもらってもらえて結構だったなんてとても思えないなあ」と、よく夫婦で話していました。しかし、今回の妻の「誰かに喜んでもらいたい」との思いからとった行動は、たとえその域までには達していなくても、教祖はその心配りをきっとお喜びくださったことでしょう。それに比べて、文句ばかり言っている器の小さい自分が恥ずかしくなりました。 もう使う予定がないのなら、「誰かの役に立てば」と潔く差し出す妻と、持っていてもゴミにしかならないのに未練がましく持っている私。そっと4枚の抽選券を車のゴミ箱に捨て、件の教祖の逸話を伝えながら、「さっきはゴメンね」と謝りました。すると、「この4枚で私の4倍役に立ったかも知れないのにね」と、妻が少し意地悪な返答をしました。 ゴミ箱の中で、4枚の抽選券が寂しそうに頭をのぞかせていました。 病にこめられた神様の思い 人は皆、病気になどなりたくないと思って暮らしていますが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、次のように仰せくだされています。 せかいぢうどこのものとハゆハんでな 心のほこりみにさハりつく (五 9) みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ (五 10) 病とは、心のほこりが身の障りとなって表れたものである。そのほこりについて反省し、神様にもたれる心になるよう思案をしてもらいたい。そうお諭しくだされています。 病とは、人間に思案のきっかけを与えるために神様がもたらすものであり、そこには、私たち一人ひとりに知らさなければならない神様の深い思わくが込められているのです。そういう見方ができないと、病気というものが単にネガティブに受け取るだけのものになってしまいます。 教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 ある信者が、長年の足の痛みをすっきりご守護を頂いたのですが、そのあと手のふるえが止まらなくなりました。それをたすけて頂こうと教祖のもとへうかがうと、教祖は、 「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで」とお諭しくださいました。(教祖伝逸話篇147「本当のたすかり」) たとえ身体の十分な回復がかなわない場合でも、心一つで陽気ぐらしを味わうことができるのがこの教えです。表面的な病気を治すことだけが目的ではありません。 病というものがなければ、多くの人は本来の神様の思いを知る機会もなく、いつまでも陽気ぐらしの本質を知らないままです。神様の目的は、私たち人間の曇ってしまった心の姿を、病という〝影〟を通して知らせると共に、その先にある〝光〟としての神様のお働きに気づかせようとされるところにあるのです。 (終)
Fri, 10 May 2024 - 377 - そこにある幸せ
そこにある幸せ 大阪府在住 山本 達則 アラブの寓話に、このようなものがあります。 ある人が、自宅の前で這いつくばって何かを探していました。そこを通りかかった友人が「何をしてるんだい?」と尋ねると、その人は「家の鍵を失くしたから探しているんだ」と答えました。そこで「それは大変だ」ということで、友人も一緒になって同じように這いつくばって鍵を探し始めました。 ところが、二人で一生懸命に探してもなかなか見つかりません。友人が「その鍵はどの辺りで失くしたんだ?」と聞くと、その人は「家の中だ」と答えました。「それなら、なぜ家の中を探さないんだ?」と友人が再度尋ねると、「家の中で探すよりも、ここの方が明るくて探しやすいから」と。 家の中で失くしたと分かっている鍵を、家の中は暗くて探しにくいから、明るい家の外で探しているという、何ともバカバカしい話です。でも、私はこの寓話と出会って、日常生活の中で見失いがちな大切なことを教えられたように感じました。 私たちは日常、「当たり前」の連続の中で生活しています。例えば朝、目が覚めること。仕事に行くこと。家族で食事ができること。家族がそれぞれの立場で、無事に一日を過ごしてくれること。そして、当たり前のようにそれぞれがうちに帰ってくること…。数え上げればきりがないぐらいに、当たり前の中で日々を過ごしています。 でも、それらのことは、本当に「当たり前」なのでしょうか。朝を迎え、家族それぞれが一日を過ごす中に、本当はありとあらゆる奇跡が起きているのでは?と感じることがあります。 学校で、どんな一日が子供たちを待っているのか?辛い思いをしたり、悲しい思いをしたり、不慮の事故に巻き込まれてしまうことも、絶対にないとは言い切れません。仕事で思い通りに事が運び、納得のいく一日を送れるかも、誰も保証はできません。穏やかだった近所のお付き合いが、何かのきっかけで崩れてしまい、そこで生活するのが辛くなることだって、絶対にないとは言い切れないと思います。 それらの可能性が、数えきれないほどたくさんの奇跡によって回避され、今日も家族が食卓を囲んで談笑できる、家族円満の姿がある。それには本当に、感謝しかありません。 でも、私たちは時に、幸せというものを見つめる場所を見誤ってしまうことがあります。もっといい家に住みたい、もっと豊かな生活を送りたい、もっといい車に乗りたい、もっといい仕事に就きたい…。暗い家の中よりも、こちらの方が明るくて探しやすい世界のようです。 もちろん、誰にでもそんな希望や欲求があり、それは決してダメなことでも責められることでもありません。それらの感情があるからこそ、向上心が芽生え、生きる活力が湧いてくることもあると思います。ですが…順番があるのです。 天理教では、「まいたるたねハみなはへる」というお言葉があります。 喜びの種を蒔けば、さらなる喜びの芽生えを見せて頂ける。反対に不足、不平、不満の種を蒔けば、その後でさらに喜べないことが目の前に現れてきてしまう。そう教えられます。 私自身、日常で感謝に値することを当たり前としか感じられず、何か思いもよらないことに出会った時に、不満を感じてしまう。知らず知らずの間に、そんな感情が身についてしまっているところが確かにあります。しかし、見方を変えることができれば、そこには間違いなく感謝できることがたくさんあります。 「決して当たり前ではない、感謝に値すること」。それに目を向けるのは実は簡単なことではなく、反対に目の前にある「足らないこと」に目を向けることの方が簡単なのかも知れません。 幸せな日常を求める場所は、探しやすい明るい場所であるとは限りません。たとえ探しにくい暗い所であっても、まずは「今ある感謝できること」を探していきたいと思います。そうすることが、誰もが求めてやまない「幸せを実感すること」への最短距離ではないかと思います。 だけど有難い 『病は気から?』 病気という言葉は、「気を病む」と書きます。「病は気から」と言いますが、確かにそういうところがあって、たとえば薬ではない物でも薬だと信じて飲めば、何パーセントかの人には効くそうです。 アメリカ西海岸のある病院で、こんな調査が行われました。病気が回復するようにお祈りをしてもらっている患者さんと、そうでない患者さんの病状の変化を比較して統計を取ったのです。すると、お祈りをしてもらっている人たちのほうが、明らかに良くなる率が高いという結果が出たそうです。それでも考えようによれば、「病は気から」で、薬ではない物を薬と信じて効能があるのと同じと言えるかもしれません。 しかし、同じ調査で、この病院のある西海岸から遠く離れた東海岸の人たちが祈り続けた場合も、同じ結果が出たそうです。しかも、祈られた患者さんたちは、自分が祈られていることを知らなかった。これは不思議です。 理由は科学的には分からないので、もっと調査をしなくてはならないそうですが、おそらく、調べても答えは出ないでしょう。それは、人間をお創りくだされた親神様が、祈る人々の真実をお受け取りくだされたからだと思うのです。 河原町大教会では、月次祭の祭典後、希望する参拝者におさづけの取り次ぎをしています。これは、この世と人間をお創りくだされた親神様に直接お願いするのですから、こんなに心強いことはありません。実際、有難いことに、毎月、不思議なご守護を頂戴した喜びの声を直接聞かせていただいたり、お礼状を頂いたりするようになりました。 偽薬でも、その気で飲めば「病は気から」程度には効くのです。おさづけの取り次ぎは親神様から直接ご守護を頂くのですから、「本当にたすかるのだろうか」などと疑っていたのでは、せっかく「たすけてやろう」と思っておられる親神様が「たすけられない」ということにもなりかねません。本気で信じて、もたれて、ご守護を願っていただきたいのです。 『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、「子供が親のために」というお話があります。お道の草創期の先人の一人、桝井伊三郎(ますい・いさぶろう)先生がまだ若いころのこと、病気で危篤状態の母親をたすけていただきたくて、教祖のところへお願いに行かれました。 しかし、教祖は「せっかくやけれども、身上救からんで」と仰せになりました。 教祖が「救からん」とおっしゃるのだから仕方ない。そう思って、伊三郎さんは家に帰りました。しかし、苦しむ母の姿を見ると、それでもたすけていただきたいという気持ちでいっぱいになって、再び教祖のところへ行き、「ならん中を救けて頂きとうございます」とお願いしました。けれども、教祖は重ねて「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と仰せになりました。 教祖が二度にわたって「救からん」とおっしゃるのだからと、そのときは得心して家に帰ったけれども、伊三郎さんは母の苦しむ姿にどうしてもジッとしていられませんでした。三たび、教祖のところへ行って、「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と、お願いしたのです。すると、教祖は「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と仰せくださり、お母さんは鮮やかにご守護いただいて、八十八歳まで長生きされたということです。 この姿勢が大事なのです。 私たちは、どうしても合理的・論理的にものを考えようとします。科学を信仰しているようなところがあります。お医者さんに「だめだ」と言われたら、がっかりして、神様から宣告を受けたような気になって諦めてしまう。しかし、お医者さんは神様ではありません。 最近、病院でも「病気と明るく闘おう」とか「病気と共に生きよう」などと書いたポスターを貼っているところがあります。それはなぜか。暗い気持ちで後ろ向きに生活するより、明るく素直な人のほうがたすかりやすいということが統計的に分かってきたからです。では、どうしたら明るく生きられるのか、どうしたら前向きに生きられるのか、その方法は病院では教えてくれません。 私たちは、本当の人間の生き方、陽気ぐらしの生き方を知っています。そして、親神様を信じ、心を入れ替えることで、ご守護が頂けることを知っています。こんな有難いことはないのです。 (終)
Fri, 03 May 2024 - 376 - 欲しい愛情のかたち
欲しい愛情のかたち 奈良県在住・臨床心理士 宇田まゆみ 先日、自営でカウンセリングをしている夫が、「背中や腰が痛い」と言って、しんどそうにしていました。仕事の依頼が以前より増え、疲れがたまっていたのかも知れません。さっそく夫の背中をさすりながら、ねぎらいの言葉をかけると、「普段からもっといたわって欲しい」と言われてしまいました。私としてはいたわっているつもりだったので、少し心外に思ったのですが、夫には「妻にこのようにして欲しい」と望む形がはっきりとあったのです。 それは「普段からマッサージをして欲しい」ということでした。振り返ってみると、私はこれまで頼まれた時にしかマッサージをしたことがなく、夫に言われるまでそのことに気が付きませんでした。私にとっては、夫の好きな食事を作ることが一番のいたわりだと思っていたのですが、それは夫が一番嬉しい形とは違っていたのです。 カウンセリングの現場にいると、夫婦間でも、親子の間でも、このように双方の大事に思う視点がズレているという話をたくさん聴きます。 誰しも自分の視点でしか世界を見ることはできませんが、それは決して悪いことではありません。先の私の例でも、夫の好きな食事を作っていたわってあげたいと思う気持ちや行い自体は、悪いことではないのです。大事なのは、それが相手の望んでいる形と必ずしも一致するわけではないと理解することです。 一緒に暮らす家族同士は、時間や空間を共有しているので、知らず知らずのうちに、相手も自分と同じように感じているものだと思ってしまいます。子供のために良かれと思っている親の愛情の形が、子供の欲しい形と一致する場合はいいのですが、往々にしてズレが生じるものです。 たとえば、子供が初めて一人で電車に乗る時、不安そうな子供を叱咤激励する親もいれば、優しく抱きしめる親もいるでしょう。あるいは何もせずに見守るか、そんなものだと気にしない親もいるかもしれません。 そのような子供への態度は、親自身が自分の小さい頃に親から与えられた愛情の形の影響を受けていると言われます。その形をそのまま我が子に与える場合もあれば、それが嫌だったので、自分のして欲しかった形を我が子に与えようとする親もいます。 子供は幼い頃には、親の与えてくれる愛情の形をそのまま受け入れます。たとえそれが欲しい形ではなかったとしても、時に反発しながらでも我慢して受け入れるのです。 それが自分の親だからであり、そこに愛情があるからです。これは夫婦も同じで、そこに愛情があると分かるので、受け入れることができるのです。 でも、家族が円満でより幸せになりたいと願うなら、相手の欲しい愛情の形があると気づくことが必要です。それは自分が思っている形とは違う場合が多いので、相手に聞いてみないと分からないものです。私自身も夫に言われて初めて気がつきました。 ただ、その時は「分かった!毎日マッサージをしてあげよう」と思ったのですが、それまでの習慣になかったので、日々のやることに追われて忘れてしまうことが多く、夫に「マッサージして欲しいな」と言われて、あらためて気づくこともありました。 愛情を形にするためには、ただ気づいただけでは不十分で、それまでの自分になかった視点を意識して、自分の心を向けることが必要です。そして実践してみて感じるのは、純粋に夫が何を喜ぶだろうかと意識することで、自分の心にゆとりが生まれるということでした。心理学では、人を思いやる気持ちを持つことで、むしろ自分に余裕ができると言われます。 時間を気にしてやるべきことを忙しくこなしている自分から、ふわっと視点を広げて相手の喜ぶ形に心を向ける自分になると、相手はもちろん喜んでくれますが、同時に自分も嬉しくなるのです。 こうして自分が喜びを与えられるようになると、相手からも喜びが返ってくるようになり、より円満で幸せな家庭が築けるのです。相手の欲しい愛情の形を知り、お互いに与え合うことのできる家族でありたい。そして、そんな家族円満の輪を周囲に広げていきたいと思います。 ひながた 天保九年、四十一歳にして月日のやしろとなられた教祖の最初の行動は、日々の暮らしに困っている人々への限りない施しでした。それはおよそ常識からかけ離れた、家財を傾けてしまうほどのものでした。そこに見られるのは、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」と諭される、親神様の思召しを素直に実行されたお姿です。 こうして赤貧洗うような中、社会の底辺に降り立って過ごされた歳月は十年にも及びました。「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とのお言葉が、新鮮な驚きをともなって心に刻み込まれます。 この徹底した通り方をもって、教祖は私たちに様々なことを教えられています。たとえば、どんな困難な状況でも心の明るさを忘れないこと、常に相手の身になって判断し行動すること。また、物事への執着を去った末に得られる、すがすがしい喜びの境地、さらには社会的な権威や格式にこだわらない生き方こそ、陽気ぐらしへ向かうための第一歩であることを示されているようにも受け取れます。 やがて、安産のご守護であるをびや許しが道あけとなって、不思議なたすけに浴する人が次々に現れます。その時すでに、立教から二十数年が経っていました。 ここで、立教に際しての、「誰が来ても神は退かぬ。今は種々(いろいろ)と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に」との親神様のお言葉が思い起こされます。 人間の感情から推し量れば、教祖のご生涯は苦渋多き、波乱に満ちたものとして映ります。そんな中で教祖は次々に、おつとめの完成に向けた段取りを進めておられます。そのことがまた、官憲の取締まりの標的となりました。 しかし、お姿をおかくしになる直前の緊迫した状況の中でも、教祖が求められたのは、あくまでおつとめの実行でした。こうして明治二十年一月二十六日、一同、拘留を覚悟の上でのおつとめが勤められたのです。 教祖は、休息所に休まれながら、この陽気なおつとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられましたが、北枕で西向のまま、眠るがごとく現身をおかくしになったのです。御年、九十歳でありました。 その日、不思議にも、取り締まりの巡査は一人も来ませんでした。それはまさに、世界一れつをたすけたいという親心から教えられたおつとめの力であり、それを実行した人々の真実に他ならないのです。 (終)
Fri, 26 Apr 2024 - 375 - 東京スカイツリーから、こんにちは ~母と子の絆は永遠です~
東京スカイツリーから、こんにちは ~母と子の絆は永遠です~ 吉永 道子 これまで、こそだて広場「かぁかのおうち」のママと子供の絆をお伝えしてきました。最後となる今日は、私自身と母との絆をお話しします。 母は天理教の教会に嫁ぎ、私と妹が生まれました。しかし私が5才の時、父は病気で亡くなりました。妹はまだ2才でした。私は父の枕元で、「これからは、私が母を守ることになるんだ」と直感し、「絶対に泣かない!」と心に決めました。 あの日から56年が経ち、母と妹との三人家族が、今では35人になりました。妹は5人の子供を授かり孫が5人、私も4人の子供と10人の孫がいます。当時、今日のような有難い日常がやって来るとは、想像もしていませんでした。 母は、会長である夫を亡くし、二人の子供と実家に帰るか、それとも会長を継いで教会に残るかを考えた末、今は苦しくとも、先々の楽しみを見させてもらいたいと、教会に残る決意をしました。56年前のその母の思いから、当時を振り返っていきます。 当時、母は、幼い妹を連れて毎月、大阪の上級教会と奈良県天理市のおぢばに足を運び、参拝をしていました。私は教会に泊まりに来てくださる信者さんや、叔父や叔母たちと留守番です。 小学校に入ってからもその生活は変わらず、母のいない時間が当たり前になっていました。授業参観があっても、絵具や道具箱が必要になっても、母に伝えることさえできません。 間もなく、私は母のいない寂しさからか、昼間、学校ではなく、少し離れたスーパーで過ごすことが多くなりました。家の人には分からないように、下校時間に合わせて帰っていました。 そんな頃、私を心配した祖母が、田舎から様子を見に来てくれるようになりました。祖母の存在は、固まっていた私の心を溶かしてくれた温かい光でした。 祖母は月のうち、一週間か、長ければ十日間ぐらい泊まりに来てくれました。私は嬉しくて嬉しくて、毎晩祖母の布団にもぐり込んでいました。祖母は、必ず私の頭をなでてくれました。たばこの香りが混じった独特の匂いが、とても好きでした。 祖母は、「教会に生まれた時から、道子の役割は決まっているのですよ」と、私に優しく諭してくれました。私が神様の御用をやり切ることで、母や亡き父との絆が強く結ばれていくのだと。祖母のおかげで、私は母の気持ちを少しずつ理解し、必死に育ててくれている母へ感謝の気持ちを持つようになりました。 それでも高校は、それまでの生活から逃れたい一心で、定時制の天理高校二部に進学しました。昼間は教会本部の部署に勤務し、夕方から授業を受けます。初めて厳しい寮生活を体験し、母に何度も「帰りたい」と電話をしました。 けれど四年間、母と離れておぢばで生活したおかげで、かえって母の気持ちに近づくことができたような気がします。卒業後は素直に教会に戻り、就職し、主人と出会い結婚、現在に至ります。 人生の折々に、5才の時に父の枕元で直感した「母を守る」という言葉が私の脳裏によみがえってきます。親の思いは、計り知れないほど広く深いものだと、今つくづく感じています。 かぁかのおうちに「ただいま」と帰ってくるママがいます。そのママが広場を利用し始めて間もない頃、持病で緊急入院することになりました。お子さんは一才になったばかり。実家や嫁ぎ先の両親のお手伝いも期待できない様です。 広場の利用からは時間外になりますが、ご主人が病院のママに付き添っている間、お子さんをお預かりすることにしました。それ以来、ママは「ちょっとお願いなんですが…」と言って、本当の娘のように何かと私を頼ってくれるようになりました。 ある時、ママ自身の子供の頃の話を聞きました。両親が仕事で家に帰って来るのが遅いので、食事はいつもコンビニ弁当。家族で食卓を囲むことはほとんどなかったそうです。その話を聞いて、私は自分の小さい頃の母のいない生活が重なりました。そして、私がこのママに寄り添っていこうと心に決めました。そうすることで、ママが実のお母さんと過ごすことが出来なかった時間を少しでも取り戻せるように…。 誰でも母親と過ごす時間は、かけがえのないもの。お腹の中にいた時と同じように温かく包まれる、幸せそのものの時間です。 「母と子の絆は永遠です」。私はこの言葉を胸に秘めて、母との残り少ない時間を大切に過ごしています。生まれ変わっても、またお母さんの子供でありますように。 「お母さん、ありがとう」 だめの教え 天理教の教えが伝え始められたのは江戸時代末期のことですが、それ以前の長い年月においても、この世界は常に元の神、実の神である親神様の大いなるご守護の中にありました。そしてその間も様々な教えが世に広まり、人々の間に浸透していたのです。 次のようなお言葉があります。 いまゝでもどのよなみちもあるけれど 月日をしへん事わないぞや (十 42) 月日よりたいてへなにもだん/\と をしゑてきたる事であれども (十 43) このたびハまたそのゆへのしらん事 なにもしんぢつみなゆてきかす (十 44) 今までにも、人の道を説いたものや、教えと呼ばれるものが色々あるけれども、それらはすべて、月日親神が時に応じて教えてきたものばかりである。しかし、この度は親神が直々世の表に現れて、人間世界の真実について、未だ誰も知らないことを説いて聞かしていく。 ここに、この教えが「だめの教え」と言われる所以が記されています。だめの教えとは、最後の教え、究極の教えという意味です。今までも十のものなら九つまで教えてきたが、この度はいよいよ残るだめの一点である親神の存在を明かし、この世を陽気ぐらし世界へと建て替えていこう。そのような力強いご宣言なのです。 教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 文久三年、桝井キクさんは、夫の喘息の平癒を願い、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けました。 キクさんが、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と仰せになりました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠廻わりをして」) 親神様がこの世界のすべての元であり、人類の親である証拠を、実に優しいお言葉で教えてくださったのです。 (終)
Fri, 19 Apr 2024 - 364 - お空でかくれんぼ
お空でかくれんぼ 奈良県在住 坂口 優子 昨年の夏、ある五歳の可愛い女の子に出会いました。彼女はとっても元気で人懐っこくて、出会ったばかりの私に上手におしゃべりをしてくれます。幼稚園に通っていることや、ピアノを習っていて発表会に向けて一生懸命練習していること、お母さんがお習字の先生をしていることなど、次から次に色んなことを話してくれました。 「私はね、実は英語の先生なの」と言うと、「わあ!そうなの?」と手を叩いて喜んで、突然、テレビ番組で覚えたという英語で堂々と自己紹介を始めました。 そんな可愛い彼女のことをもっと知りたくなって、私も色々と質問をしました。ところが「きょうだいはいるの?」と尋ねた瞬間、彼女は少し困った顔になりました。そして「お母さんのおなかにね、妹がいたんだけど、いまはお空で遊んでるよ」と、小さな声で呟きました。 私には四人の子供がいますが、その子たちとは別に、お空にも二人、子供がいます。一度目の流産は16年前、三人を授かった後の四度目の妊娠。そして二度目は五年前、四人目を授かった後の六度目の妊娠でした。 最初の流産の後、主人が「これから毎月家族全員でおぢばへ参拝して、いつかまたこの子に会えるように神様にお願いさせてもらおう」と言ってくれて、それからはその子の魂に会いにいく気持ちを込めて、家族揃って毎月欠かさず参拝に行きました。そして八年後、四人目の次女が生まれた時には、小さな妹の身体をみんなで代わりばんこに抱きながら、喜び合いました。 その次女が三歳になる頃、私のお腹にまた小さな命が宿りました。天理で寮生活をしていた長男と次男に知らせると、弟が欲しい二人は「次は男の子やな。間違いない!」と言って喜んでくれました。 ところが、直後の妊婦健診で突然、「赤ちゃんの心音が確認できません」と告げられました。二度目の流産です。頭の中が真っ白になり、診察室を出ると涙が止めどなくこぼれ落ちました。 このまま教会へ帰っても普段通りに振る舞う自信がなく、私の足は自然とおぢばへ向かっていました。神殿に上がりおつとめをつとめましたが、その時何を思い、何を祈ったのか、記憶がまったくありません。それほど、心の中は悲しみでいっぱいだったのだと思います。 回廊を歩きながらも涙が止まらず、2、3歩進んでは窓から見える景色に足を止め、考え込んだり、また歩いたりの繰り返し。帰りの遅い私を心配して母が電話をくれた時、はじめて三時間もそこにいたことに気づきました。 「帰らなきゃ…」電話を切り、足取り重く歩き始めると、静かな回廊に外からの賑やかな声が響きました。「なんだろう…」初めて気が紛れた瞬間でした。その時、戸のわずかな隙間から、天理で寮生活をしている長男の姿が目に飛び込んできました。 「みーくーん!!」大声で名前を呼ぶ私に気づいた長男が、「おかあさーん!!」と嬉しそうに近寄って来てくれました。 「もう四時やで。何してるん?」私の心を見透かしたような言葉に、「うん…ちょっとお参拝」と答えると、「ならいいけど。おばあちゃん心配するから早う帰りや!」と、まるで親子が逆になったような言い方で私を諭すのです。 「そうだ、おぢばで勇んで頑張っている長男への報告は今日じゃなくていい」。ニコニコ笑ってお友達の元へ走っていく長男の背中を見送りながら、そう思いました。そして、悲しみで立ち止まりそうな私を励ましてくださる神様の親心を感じ、胸が熱くなったのでした。 あれから五年の歳月が経ちましたが、子供を失った悲しみはまだ癒えていません。テレビで赤ちゃんの映像を見る度にあの時を思い出し、生きていたら今頃はこのぐらい大きくなっているのだなあと、同年代の子に我が子の姿を重ねてしまいます。 天理教では、どんな辛い出来事も、心の持ち方一つで喜びに変えられると聞かせて頂くのに、私は流産という経験に対して、その術を見つけられずにいたのです。 「お母さんのおなかにね、妹がいたんだけど、いまはお空で遊んでるよ」。 この子がどれだけ妹の誕生を楽しみに待ち、それが叶わずにどれだけ悲しい想いをしたか。小さな彼女の背負っているものを思うと、抱きしめてしまいたくなりました。 どんな言葉をかければ彼女の心を救えるのか分からないまま、「私の赤ちゃんもね、お空にいるんだよ」。静かにそう声をかけました。すると、「え?そうなの?」と、困っていた顔が一気に明るくなりました。 「今頃一緒に遊んでるかもしれないね」と言うと、彼女は目を輝かせて、「かくれんぼしてるかな?鬼ごっこもしてるかな?」と、ぴょんぴょん跳ねて喜びました。 彼女に出会えて、誰にも話せなかった悲しみから解放され、心の痛みがスーッと軽くなるのを感じました。一緒にお空で遊ぶ姿を二人で想像しながら、心の中で何度も彼女に「ありがとう」と言いました。 天理教では「人をたすけてわが身たすかる」と教えて頂きます。自分の辛い体験が、同じ辛さを持つ誰かの心のたすかりとなった時、自分の心もこうしてたすけて頂けるのだと、五歳の彼女が教えてくれたのです。 今日もお空のどこかで、お友達と楽しくかくれんぼしているのかなあ…。その姿を想像するだけで、お母さんは安心して今日も一日がんばれます。いつかまた、あなたに出会えるその日まで…。 幸福との出会い 私たちの幸せな生活は、社会的にも心理的にも、実に色々な要素によって成り立っています。たとえ今現在は調子よく進んでいて、将来的に何の不安もないように思われても、それを支えている一つ一つの要素を顧みる時、自分一人の力ではどうしようもない不確かな面がたくさんあることに気づきます。 悩みや苦しみ、不安というものは、生きていく限り、いつまでもつきまとうものでしょうか。そう考えると、人生はとても寂しい、悲しいものに思えてきます。 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、 このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり (四 62) とあります。 この世界と人間を創られた親神様こそ、私たちが生かされて生きている、その元であり、真実の親なのです。 さらに教祖は、 せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ (四 79) せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43) と仰せられます。 この世界に生み出されてきた私たちは、みな親神様の子供であり、全人類はきょうだいということになるわけです。こうして、全人類が親である親神様を中心とした一つの家族であると悟ることができれば、不安と孤独から解放され、豊かな幸せを味わえるようになるのです。これほど素晴らしいことはありません。 親神様の親心というのはあたかも空気のようなもので、その大いなる恵みに囲まれて暮らしているにもかかわらず、それは目に見えないが故に、なかなか気づくことができません。 人間には誰しも病気や不時災難、人間関係のもつれなど、日常生活の上に様々な難儀不自由な事柄が現れてきます。そうした時に、それを克服したい一心で必死に祈ることがあります。これこそ、私たちが親神様と出会うきっかけなのです。 そうして真実を込めて願ううちに、それまで感じることのなかった親神様の大いなるご守護に気づき、感謝せずにはいられなくなるのです。 (終)
Fri, 12 Apr 2024 - 362 - 人生最大のラッキー
人生最大のラッキー 助産師 目黒 和加子 今から56年前、私が4歳の時、父が経営していた会社が倒産しました。父は倒産の後始末や債権者への対応などを全て母に丸投げし、浮気相手のキャバレーのホステスと蒸発、行方知れずとなったのです。母は気が狂いそうになり、私と弟を道ずれに死のうとしたこともありました。 親戚宅を転々とし、どん底から這い上がり親子三人で暮らし始めた頃、父の居場所が分かりました。私が小学五年生の時です。失踪から7年が経っていました。 母は家庭裁判所に離婚調停を申し立てました。調停が終わり帰宅した母からは、ただならぬ気配がしました。吊り上がった目は真っ赤に充血し、真一文字に結ばれた口からは、ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえてきそうです。 「お母さん、どうしたん?」と尋ねると、母は堰を切ったように、「家庭裁判所の廊下の椅子に座ってたら、洗面所のドアが開いて、出てきたのがお父さんやってん。お母さんに向かって『いやあ、久しぶり。元気だった?』ってニコニコしながら言うてん。すみませんも、申し訳ありませんも、なんもないねん。あなたが投げ出した借金を返しながら、私と子供たちがどんな中を生きてきたのか分からないんですかって言うたら、肩をすくめただけでなんも言わんと、廊下の端の椅子に座って、ウトウト居眠りし始めたんよ!」 母の目は一層吊り上がり、下唇を噛み、怒りで身体が震えています。 「調停では、倒産の後始末を投げ出してホステスと逃げたことは認めたけど、現金書留でうちにお金を送っていたと嘘を言い出して…。私たちは親戚宅を転々としてたんやから、住所もわからへんのに送りようがないでしょう。そんなこと一度もありませんでしたって言うたら、『証拠ならここにあります。ほら、こんなに何度もお金を送っていました。借金を返済するのに十分な額で、生活の支えにもなりますよね』って、現金書留の控えを束にして見せたんよ!」 50年以上前、現金書留を郵便局に持っていくとメモのような控えが交付されていたらしく、父は輪ゴムでくくった控えの束を二つ、証拠として提出しました。その控えには送金先も差出人も書く欄がなく、現金の額だけが記されていました。どこかにお金を送っていたようですが、うちに送られてきたことはありません。 父は法科の名門として知られる大学法学部の出身で、法律に詳しく、自分が有利になる方法を熟知しています。田舎の看護学校を卒業し、結核病院で働いていた母が勝てる相手ではありません。父の主張は認められ、母は泣き寝入りをする結果になりました。 「お母さんはお金が返ってこないことに怒ってるんと違う。調停員を騙して、私が嘘を言っていると主張するのは大目に見ても、我が子にまで嘘をついているのが許せないんや! こんな人でなしを父親として生まれてきたお前たちが、可愛そうでならない。あんな人をお前たちの父親にしてしまって申し訳ない」と、泣き崩れてしまいました。 それまで母は、父のことを悪く言ったことがありませんでした。しかし、この時ばかりは我慢ならなかったのでしょう。小学五年生の私に、嗚咽しながら心の底を話しました。 それを聞いた私は、「まさか…お父さんがそんなことを言うやろか。お母さんの言うてることは嘘や」と思いました。私には父に可愛がってもらった記憶があるからです。それからずっと「嘘や」と思い続けてきたのです。父と再会するまでは…。 平成23年、ひょんなことから父の居場所が分かりました。なんと、私の所属する教会と同じ西宮市内に住んでいたのです。メモの住所を頼りに一人で訪ねました。44年ぶりの再会でしたが、名乗るまで私が娘の和加子だと気づきませんでした。 「どうぞお上がりください」と促され、教祖に付き添いをお願いして中に入ると、一緒に逃げた元ホステスのおばあさんがいました。気まずい雰囲気の中、お茶が一杯出されました。 「お顔を見に来ただけです。突然お伺いして申し訳ございません。これにて失礼致します」と椅子から立ち上がろうとすると、そのおばあさんが「和加子さん、うちの娘の由紀ちゃんに似てるわ。やっぱり血のつながりかしらね」と言い出し、アルバムを出してきたのです。 すると父も一緒になって、「これは家族旅行で北海道に行った時です。これはピアノの発表会で…」とニコニコしながら説明を始めました。ありえないと思いました。 浮気相手との間にできた子供をどんなに可愛がって育てたか。捨てた娘に対して、それを平気で話せる父を客観的に観察しました。「恩や人情をわきまえず、恥を知らない。人としてまともな心を持っていない」と結論を出しました。 父の親バカ話を聞きながら、「五年生の時に母が言ったことはホンマやったんや。ほんまもんの人でなしや。私の父親に間違いないけど、この人に育てられてたら、自己中心的で人の痛みの分からない、とんでもない人間になってたわ。危ないところやった。これまではこの人に捨てられたことが、人生最大の不幸やと思って生きてきた。そうじゃない、そうじゃないんや。この人に捨てられて、この人に育てられんかったことは、人生最大のラッキーやったんや!」そう気づいたのです。 リスナーの皆さん、誤解しないでくださいね。決して父への嫌味、皮肉や当てつけで言っているのではありません。捨てられたことは神様のご守護であったと確信したのです。 この確信によって、心の奥底に40年以上根を張っていた父への恨みが消え去りました。そして、良いこともそうでないこともひっくるめて、この人生で良かったんだと受け入れることができたのです。 先日、父から葉書が届きました。老健施設に入所したようで、弱々しい字で「会いに来て欲しい」とだけ書いてありました。近々、新幹線に乗って主人と一緒に訪ねてみようと思っています。 だけど有難い 『喜びましょう』 「喜びましょう」と言うと、「元気なときならともかく、病気で苦しいときに喜びましょうもないだろう」と思う人もいるでしょう。しかし、元気で忙しいときは気づかないけれど、病気で寝ているから分かることもあるものです。必ずしも元気だから喜べるとは限りません。病気でつらいときだからこそ、じっくり考えてみることができるのではないかと思うのです。また一つには、病気で苦しい最中でさえ喜ぶ努力をしている―その心を、親神様はお受け取りくださいます。だから、「喜びましょう」と言いたいのです。 娘が小学一年生のとき、右目の上に大けがをしたことがありました。担任の先生が病院から連絡を下さったのですが、私はけがのことを聞くなり、「有難い」と思いました。 なぜなら、河原町大教会の初代会長を務めた深谷源次郎は、右目が潰れるところをたすけていただいて、本気で信仰を始めました。 私も赤ん坊のころ、右目の上に大けがをしました。父からよく「おまえは初代と同じように右目が潰れるところをたすけていただいた。あのとき、けがの場所がもう少しずれていたら失明していたかもしれない。たすけていただいて良かったな。目が見えるということは有難いな」と、聞かせてもらったものです。そして、今度は娘まで、たすけていただいた。だから私は、最初に聞いたときからうれしかったのです。 娘が病院から帰宅後、おさづけを取り次がせていただきました。取り次いでいる最中に、ぐっすり眠ってしまい、そのまま朝まで寝てくれました。 翌朝、娘に初代と私のたすけていただいた話をしました。 「今度は、おまえもたすけていただいた。いまは痛いかもしれない。でも、目を開けたら物が見える。有難いなあ。一緒にお礼をさせてもらおう」 そう言いますと、娘はニコニコして、それから神殿で一緒にお礼のおつとめをさせていただいたのです。治ったから、お礼をしているのではありません。けがをしたのに、お礼をしている。なぜなら、たすけていただいたことが分かるからです。親々のおかげではありますが、このように思案をすれば、けがも喜ぶことができるのです。 初代会長は「けっこう源さん」「ありがた屋の源さん」と言われるくらい、喜び上手でした。額を打っても「痛い痛い、有難い。痛いと感じさせてもらえることが有難い」と言ったそうです。痛くても「有難い」と、喜ぶ努力をしました。 ここにヒントがあるのです。それは何か。たとえば、冬の朝起きたときに、たまらず「寒い!」と口に出してしまっても、その後に「有難い!」と言ったらいいのです。何を喜ぶのか、何が有難いのか考えるのは、それからでいい。人間は「しんどい」と言っていたら、本当にしんどくなります。「有難い」と言って通らせていただくなかに、本当に有難い姿が見えてくるのです。 「あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。」(M33・7・14) 「日々嬉しい/\通れば、理が回りて来る。」(M34・7・15) 親神様は、このようにおっしゃっています。 「喜ぶ」ことは陽気ぐらしの原点です。病気で「痛い」「苦しい」思いをしている方も、ぜひ喜ぶ努力をしていただきたい。親神様は、子供可愛い親心いっぱいに、たすけるためにふしを見せてくださっているのです。 (終)
Fri, 05 Apr 2024 - 361 - 年末に続いた子供の風邪
年末に続いた子供の風邪 和歌山県在住 岡 定紀 我が家では昨年末、子供が次々にインフルエンザや風邪にかかりました。12月に入ってからまず次男が、「体調が悪い」と横になり、熱が上がってきたので病院に連れて行ったところ、インフルエンザの陽性反応が出ました。 薬をもらって五日間、部屋を隔離して休養することになりました。高熱が出た時には本当にしんどそうで、代われるものなら代わりたいと思うほどでしたが、おかげさまで無事に回復し、学校に行けるようになりました。 すると今度は長男が、体調が悪いと言い出し、熱も上がってきたので病院に連れていくと、案の定インフルエンザでした。次男の回復から十日経っていたので、次男からうつったものではなく、学校で感染したのだと思いますが、同じく五日間、隔離して休養し、十分回復してから学校に行きました。 その数日後、今度は四男が発熱しました。これはインフルエンザだろうと思い、病院に連れて行ったのですが陰性とのこと。まだ陽性反応が出ない初期段階だったのかもしれないと、時間を置いて再び病院に行ったのですが、やはり陰性で風邪だということでした。 まもなく二学期の終業式になり、冬休みに突入すると、今度は三男に熱が出てきました。ちょうど、こども食堂でクリスマス会を予定していた前夜のことで、インフルエンザであれば親も濃厚接触者になるわけですから、他の子供にうつす可能性もあるので、中止せざるを得ませんでした。 結果的に陽性ではなかったのですが、12月は師走という通り、ただでさえあちこち回ったり、大掃除をしたり、餅つきをしたりと行事が続きます。こんな多忙な一カ月の間に、子供が順に熱を出していったことに、どのような神様の思いがあるのかと思案せずにはいられませんでした。 ところで、私どもの上級教会である大教会は神殿が広く、大掃除の時には工事現場で見かけるような足場を四段組み、長いはたきで天井のすす払いをしたりと、大掛かりな作業になります。 天井にすすなんか付いているのか、やるだけ無駄ではないかと思われるかもしれませんが、終わった後で大教会長さんが、「神殿の大掃除をして、心も掃除してもらえた気がします」と言われたのを聞いて、ハッとしました。 天理教では、心の掃除をすることの大切さを教えられています。自分では気づきにくい我が身勝手な心づかい、これを「ほこり」と呼んでいますが、天井のすす払いのように、目に見えにくい心の「ほこり」を、神様の教えを箒として払うことが肝心なのです。 まずは私自身、風邪などひかずに大掃除をさせてもらえたことに感謝をしないといけない、と同時に、心の掃除に努めなければいけない。このことに改めて思いを強くしました。 ところで、日本の習慣である年末の大掃除も、元は正月に家庭に幸せをもたらす年神様を迎えるために、家の中を綺麗にしておくというのが由来です。そして門松は、その年神様が迷わないように、目印として家の玄関に置くことに由来します。 また餅つきも、正月に鏡餅を供えることで神様の魂が入り込み、それを頂いて新しい命を授かるという意味があります。これら一連の行事の根底には、健康に置いて頂くのも神様のお蔭である、という思いがあるわけです。幸い、体調を崩していた子供たちも、12月30日には皆揃って元気になり、一緒に鏡餅を作り、玄関に門松の飾りつけをすることができました。 思い返せば、おととしの年末はまだコロナ禍の最中で、長男が感染してしまい、家族揃って大掃除や餅つき、門松作りといった恒例行事ができませんでした。それを思えば今回は有難かったと思います。 年末年始は冷え込みが厳しく、体調を崩しやすい時期です。だからこそ、日々元気に置いて頂いていることの有難さを、家族共々噛みしめるいい時期ではないでしょうか。 医者の手余り 天理教教典には、教祖・中山みき様「おやさま」の行われた人だすけについて、次のように記されています。 「やがて、をびや許しによって示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかった。」 まだ医療体制の整っていない江戸末期、教祖の不思議なたすけによって教えは徐々に広まっていきましたが、「医療」と「おたすけ」に関する次のようなお言葉があります。 「医者の手余りを救けるが台と言う。(中略)医者の手余りと言えば、捨てもの同様である。それを救けるが教の台と言う」(M26・10・17) ここで諭されているのは、天理教における「おたすけ」は、決して医療と対立するものではなく、医療を持ってしてもたすけることのできない人々に手を差し伸べるのが、この教えを信じる者の役目であり、この道の信仰の土台である、ということです。 親神様は、この世界と人間をお造りくだされてこの方、心を入れ替えるための真実の道を教えるべく、私たち人間に知恵を仕込み、学問を与え、また病気を治すための医療の道をもお与えになったのです。 にんけんにやまいとゆうてないけれど このよはじまりしりたものなし (九 10) この事をしらしたいからたん/\と しゆりやこゑにいしやくすりを (九 11) この世界の元初まりの真実を知ったなら、病気と言われるものが、必ずしも病気ではなく、神の切なる親心だということが分かってくる。それを知らしたいがゆえに、色々と段階を踏んで、身体の修理や肥の役割として、医者や薬というものを与えてきた。このように仰せられています。 医療を受けることで、私たちは体内における親神様のご守護をより実感させて頂くことができます。その一方、医療はあくまで病気を治すことが目的であり、いかに生きるべきかを示すものではありません。 この信仰においては、病気の回復はあくまで一つの結果であり、その病気を通して親神様の深い思わくを悟り、心の向きを変えることに主眼が置かれています。「病の元は心から」とのお言葉通り、最終的な目標は、陽気ぐらしに近づくこと。心を立て直し、生き方そのものを変えていくことなのです。 (終)
Fri, 29 Mar 2024 - 360 - 夢見るダイエット
夢見るダイエット 埼玉県在住 関根 健一 私は若い頃から食べることが大好きで、不摂生を繰り返し、最大で体重が120キロを超えていました。結婚したての頃は食生活について意見してくれていた妻も、言われると不機嫌な態度を取る私にあきれて、次第に何も言わなくなっていきました。 そんな私でしたが、ある日のこと。友人とお酒を飲んだ帰り道、さらに一人で知り合いの焼き肉屋さんに行きました。そのお店に入った所までは覚えているのですが、それからは一切記憶がなく、いつの間にか帰宅していて、翌朝、財布の中のレシートを見ると、一人で大酒を飲み、お肉やご飯をたらふく食べていることが分かりました。 それを見て、「こんなことを繰り返していては死んでしまう」と思い、一念発起でダイエットを始めました。まず初めは集中的に行って半年ほどで15キロ減量し、その後も緩やかに無理のない範囲で続け、40キロ以上減量することができました。それでも、平均体重よりは重いのですが…。 とは言え、40キロと言えば細身の成人女性一人分の体重に匹敵します。昔の私を知る人と久しぶりに会うと、たいへん驚かれます。中には私だと気づかない人もいるぐらいです。 それだけ痩せると、ほとんどの人から「どうやって痩せたの?」と聞かれます。そこでの私の答えは、「食べる量を減らすこと」「お酒の量を減らすこと」「運動すること」。するとそれを聞いた人は皆、ちょっとがっかりしたような表情になります。 私も経験があるので何となく分かるのですが、「どうやって痩せたの?」とたずねる時には、楽に痩せられる秘訣を知りたいと期待しているものです。ところが、私から出てきた答えは至極真っ当なもので、皆「そんな当たり前のことをできるなら苦労しない」と言わんばかりの顔になります。 そこで私は、すかさず「楽なダイエット方法は教えられないけど、モチベーションを保つ秘訣なら教えられるよ」と言って、以下のような話をします。 ダイエットを決意した時、娘たちは小学校低学年でした。まず、娘を持つ父親なら誰もが一度は思い描く「思春期の娘と仲良しの父親」という姿を想像しました。想像の中で娘は大学生になっていて、私と朝の食卓を囲んでいます。 「お父さん、今日はお昼どこで食べる? 授業、午前中で終わるんだ」 「今日は午前中は仕事の打ち合わせがあるんだけど、終わったら学校の近くに行けるかな」 「じゃあ、待ち合わせて一緒にお昼ご飯食べよう!」 「OK。じゃあ12時に駅の改札前で待ち合わせようか」 こんな感じです。さらに想像は先へ進みます。駅の改札前で本を読みながら待つ父親。そこに友達と会話をしながら娘がやって来る。「お父さん、お待たせ!」と父親に声をかけ、「またね!」と友達に手を振る娘。「じゃあ、行こうか」と父親は読んでいた本をしまい、二人は仲良く歩き出す。 こんな場面を、実際にある駅や街の風景を思い浮かべながら想像するのです。父親としては、かなり理想的な像を描きました。そして、その理想に近づくためには、今のような体型でいいのか?もっと言えば、今のような生活を続けて、その頃まで健康を維持できているのか?と自問自答し、行動を変えていきました。 お酒を飲んでいて、「もうちょっと飲みたいな」と思った時。深夜にお腹が空いている時に、お菓子を見つけてしまった時。駅のホームに上がろうとして、エスカレーターの前に立った時。ちょっと甘えてしまいそうな時や、くじけそうになった時に、将来の娘との楽しい時間を想像して、モチベーションを維持することができました。 要するに、ダイエットは「健康のために我慢をして行う辛いもの」と考えるのではなく、「楽しいことを実現するための手段」と前向きに捉えることで成功したのです。 世の中には「引き寄せの法則」というものがあります。「宇宙の法則」「恩恵の法則」など色々な表現がありますが、人は心で思っていることが引き寄せられるという、100年以上前から本に書かれ、広く知られている考え方です。 その法則に従えば、私の場合も「思春期の娘と仲良しでいられるカッコいい父親」を想像したことで、ダイエットの成功が引き寄せられたということになりますが、実際には、想像した姿に近づくために努力を重ねて、望んだ成果を得られたわけです。 こんな話を聞いたことがあります。ミッキーマウスの生みの親として、世界中で知られるウォルト・ディズニー。彼が人生の最後に計画したのが、フロリダのディズニーワールドでしたが、彼自身は建設が始まる前に亡くなってしまい、開園を見ることはできませんでした。 そのディズニーワールドが開園した時、スタッフの一人がウォルト・ディズニーの妻に、「この姿をウォルトさんにも見てもらいたかったですね」と言うと、妻は「いいえ。いちばん最初にウォルトがこの姿を見たからこそ、ディズニーワールドができたんです」と答えたのです。 ウォルト・ディズニーが、心の中に描かなければ完成しなかったディズニーワールド。そこからさらにディズニーの人気が世界に広まっていったのは、多くの人の知るところです。ディズニーの作品には、ところどころに引き寄せの法則を思わせるセリフがある、との分析もされています。 引き寄せの法則については賛否を含めて色々な見方がありますが、私としては、夢を叶えるための前向きな考え方だと捉え、本などを読み、折々に参考にしてきました。 ある時ふと、「引き寄せの法則は、天理教の心定めに似ている」と感じました。心定めとは、人間をたすけたいという親神様の思いに応えて行う信仰的誓いや決意を指します。 厳密な教義とはズレた解釈になるかもしれませんが、天理教の心定めには「夢を叶える力」があるのだと思います。心定めをする時に、たすかりを願う人の幸せな姿を思い浮かべ、その姿を叶えるために自分にできることを積み重ねていく。そんな姿勢の先に、親神様が夢を叶えてくださるのかもしれません。 たとえ辛い病気や事情などに見舞われても、そこを通り抜けた先にある幸せな姿を夢見ながら、精一杯つとめたいと思います。 てんりわうのみこと 朝日が窓辺を明るく照らす頃、さわやかに目が覚める。思い切り腕を伸ばし、新鮮な空気を目いっぱい吸い込んで、今日という一日が始まる。実に平凡な日常生活の一コマです。しかし、これらの動きの中で、私たちが意識して行っていることはどれほどあるでしょう。私たちが意識せずとも、自然に時は刻まれ、世界は動き、身は健やかに新陳代謝を遂げているのです。 お言葉に、 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ (『おふでさき』三 40・135) とあります。 この世界は親神様の身体であって、世界はその隅々まで親神様の恵みに満ちています。私たち人間は、親神様のご守護によってすべてを与えられ、生かされて生きている。いわば、親神様の懐住まいをしているのです。 月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ (十七 16) 月日親神様と私たち人間、それは親と子の間柄です。親神様は溢れんばかりの親心で私たちの行く末を見守ってくださる、実の親です。感謝を込めて呼べば答えて下さり、祈れば聞き入れてくださる親なる神様です。 この親なる神様に向けて、私たちは、朝夕のおつとめで、 あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと と一心に唱え、お祈り申し上げます。 天理王命とは、親神様の神名、お名前です。お名前を申し上げることは、素朴な祈りの基本とも言えます。ちょうど子供が、なにか事ある度に「お父さん、お母さん」と呼び、親にもたれる姿と同じですね。 どのよふな事をするにも月日にて もたれていればあふなけハない (十一 38) この安心感こそ、親神様の私たちに対する親心の現れに他ならないのです。 (終)
Fri, 22 Mar 2024 - 359 - 言えないSOS
言えないSOS 岡山県在住 山﨑 石根 小学五年生になる三男は、どちらかと言えば不器用で、いわゆる天然キャラです。言い間違いや聞き間違いが多いので、しばしば私たち家族に笑いを届けてくれたり、反対に怒られてしまうこともよくあります。でも思いやりの強さは人一倍で、学校の先生から「友達にとても優しいんです」と褒めて頂くことが、本当によくあるんです。 昨年12月のある日のことでした。その日は小学校の社会科見学の日で、三男も朝から妻の手作り弁当を持参して登校しました。ところが、夕方下校してきた彼はどこか元気がなく、なかなか宿題をしようとしません。私が声をかけても無反応で、おもむろに立ち上がると妻のいる台所に向かいました。 その様子にどこか腑に落ちないでいると、ほどなくして妻が「やらかしてしまったわぁ」と言いながらやって来ました。聞くと、三男が持って行ったお弁当箱の中に、お箸が入っていなかったと言うのです。 台所にいる妻の所に一目散にやってきた彼は、何も言わずに妻に抱きつき、「お母ちゃん、箸がなかった…」と呟いた後、静かに涙を流しました。 「え~っ、ごめん!」と、驚いた妻がすぐに謝ると、彼は「でも、お腹が空いてなかったから、友達に食べてもらった」と。切なくて、何だか泣けてきた妻は、何度も彼に謝ったのですが、「だって、お腹が空いてなかったんじゃもん」と繰り返し答えたといいます。 さて、おばあちゃんが作ってくれたその日の夕食は、偶然にも三男の大好物のオムレツでした。昼食を食べていないので、相当お腹が空いているだろうと心配した妻は、「ごめんね」の気持ちも込めて、自分のオムレツを半分、他の兄弟に分からないように分けてあげていました。すると彼は、ご飯をなんと3杯もおかわりしました。 夜になって、たまたま私たち夫婦と三男だけになるタイミングがあったので、私はここぞとばかりに今日あった出来事を尋ねました。 「お母ちゃんから聞いたで。何でととに言うてくれへんかったんよ~?」 すると妻が横から、「お母ちゃんを悪者にしたくなかったんやなあ。だって、台所に言いに来た時も、料理しているおばあちゃんにバレないように、こっそり泣いてたんやもん」と、彼がかばってくれた様子を私に説明してくれました。 この辺りは、ある意味三男の男気を感じます。私はさらに、「でも、ずっとお腹空いてたやろう?」と尋ねたのですが、「だから、お腹空いてなかったんだってば!」とやっぱり答えるので、「嘘つけ、晩ご飯3杯もおかわりしとったやないか」と、笑いながら夫婦でツッコみました。 「で、お箸がないのに気づいた時、どんな気持ちやったん?」と、今度は彼の心持ちについて尋ねてみました。 「ふたを開けて、わぁ、おいしそうなお弁当!って思ったけど箸がなくて、どこかに落としたんかなぁ、と思って色々探したけどなかったから、これはお母ちゃんが忘れたんじゃと思った。だから、お母ちゃんを怒ってやろうと思ったけど、怒れんかった…」 そう照れながら話す彼の様子に、私たち夫婦は益々切なくなりました。 「そういう時は、友達や先生に『お箸がない』って言ったらいいやんか」と私が諭すように伝えると、「そんなんしたら、みんなに気ぃ使われるがぁ。恥ずかしいもん」と思いがけない返答です。 あぁ、これがこの子の持っている優しさであり、長所なんだろうなぁ、と感じたのですが、その反面、私には思うところがありました。 私は日頃、頂いている立場から依存症や不登校について相談を受けることがあります。殊に依存症の支援に関する講演でお話をする時に、大切なポイントとして伝えているのが、「『たすけて』と言える人になりましょう」という点です。 人間が自立をするということは、何もかも一人で出来るようになることではなく、適切に人を頼ったり、困った時に人にたすけを求められるようになること。これが実はとても大切なポイントなのです。 私が出会う依存症の問題で困っている人たちは、当事者はもちろん、その家族も周囲にSOSを出すのが不得手な人が多く、そのために事態が悪化しているケースが多いのです。昔から「人様に迷惑をかけないように」という言葉が、子育てにおいて常套句のように使われますが、実際には人のお世話にならずに生きていくなんて、非現実的な話です。 そこで私は、三男に次のような話をしました。 「天理教の親神様の教えは、『互い立て合いたすけ合い』なんやで。だから、誰かが困っている時にたすけることはもちろん大切だけど、自分が困った時には、誰かにたすけてもらうことも悪いことではないんやで。『たすけ、たすけられ』という関係を親神様はいちばんお喜びになる。そうしてたすけ合って、人間は陽気ぐらしを目指す。そういう教えなんやで」 その上であらためて、「じゃあ、次からどうしたらいいかな?」と尋ねると、「次からは困らんように、リュックサックに割りばし入れとく」と答えた彼に、思わずズッコケながら大爆笑してしまいました。 「なるほど、それもいいアイデアやけど、でもな、『たすけて』ってホントに言っていいんやで」と、大事なことだと思ったので、私は少ししつこく伝えたのでした。 時に、家族にさえSOSを出せない人にも出会います。でも、神様は「一れつきょうだい」だと教えてくださるので、誰かに「たすけて」と言うだけで、何かが動き出すような気がするのです。 「あなたは決して一人ではない!」私が大切にしているテーマです。 おいしいと言うて 天理教教祖・中山みき様。私たちは「おやさま」とお慕いしているのですが、教祖の住まわれるお屋敷は、奈良盆地の東の山すそにありました。お屋敷の周りには、布留川という、かつては万葉集にも詠まれた川が、幾筋にも分かれ流れていました。 川は生活の源、豊富な食料を供給してくれます。明治の初め頃は、夏になると雑魚取りをしに、子どもどころか大人までもがザブザブと川に入るのが日常だったようで、そんな光景が教祖をめぐる逸話として残されています。 川にはドジョウ、モロコや小ブナなどの小魚、川エビもいました。当時の貴重なたんぱく源です。お屋敷でつとめている者たちが、それらをすくい上げ、こってり煮込んでうま煮にして、教祖のお目にかけます。 すると教祖は、その出来上がったものを取り出され、子どもに言って聞かせるように、 「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや」 と仰せられ、また側にいる者たちには、 「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ」 とお話しになりました。(教祖伝逸話篇132「おいしいというて」) 教祖のお言葉には、命あるものへの慈しみがこもっています。生き物の命を頂くことへの感謝の気持ちを忘れないように。そう私たちにお諭しくだされています。そして、その感謝は生き物に対するだけにとどまらず、それらの命を育む火・水・風をはじめとする天の恵みにも及びます。 また、生き物に対する「今度は出世しておいでや」とのお言葉には、すべての生きとし生けるものは親神様によって生み出されたのであり、人間も含めたそれらは皆、命の源を共にするきょうだいである。そのような意味が含まれているのではないでしょうか。 「この世は神の身体である」と教えられるように、人間を含むすべての生き物は、親神様の身体の一部であり、お互いはつながり合って生きています。親神様のお働きによって育てて頂いた食材を粗末にせず、好き嫌いなく、慎んで頂くことが大切でしょう。そして、「おいしい、おいしい」と笑顔で食べられる喜びを、周囲の人と共に分かち合いたいものです。 (終)
Fri, 15 Mar 2024 - 357 - 喜びは今の自分の中に
喜びは今の自分の中に 大阪府在住 山本 達則 家族だから許せること。家族だから言えること。家族だから見せられる姿。それがあるからこそ、家庭は心安らぐ場所になるのだと思います。その一方で、家族と言えどもそれぞれに価値観の違いはあります。それを自然に受け入れられるからこそ家族なのですが、時に自分の思いを相手に押しつけ過ぎて、大切なものを見失ってしまうこともあるように思います。 以前、布教活動をしていた時、雨の日に傘も差さずに信号待ちをしている女性を見かけました。少しお酒も入っている様子で、「この傘を使ってください」と声を掛けると、「あなたはここで何をしているんですか?」と聞かれました。「私は天理教の布教活動をしている者です」と答えると、「そんなことをして、何かいいことがあるんですか?」と再び尋ねてきました。 私が「この活動をしていいことがあるというよりは、活動を通して今の自分の中にいいことが見つかっていくという感じですかね」とお答えすると、その女性は「ふーん」と言ったままその場を去って行きました。 その女性とはそれっきりでしたが、それから四年が経ち、ある時、地方で講演をする機会がありました。私が演台に立つと、明らかに他の人とは違った雰囲気でこちらを凝視する女性がいました。気になりながらも、話を終えて演台を下りようとすると、その女性が素早く近寄って来て、「先生は大阪の人ですよね」と尋ねてきました。 「はい、そうですが」とお答えすると、「私のこと覚えていませんか?」と言います。私が正直に「すみません、どこかでお会いしましたか?」と返すと、「四年前、雨の日に傘を貸してくださいましたよね」と言われ、一気に記憶がよみがえりました。 少しの時間でしたがお話を聞かせて頂きました。その女性は四年前、大阪に住んでいた時にご主人の転勤が決まったのですが、その頃は夫婦関係が悪く、ご主人について行くか、これを機に離婚するかで悩んでいました。子供がいないこともあり、気持ちが離婚に傾く一方、一人で人生をやり直すことに不安を抱えてもいたのです。 そんな時に私が布教活動をしている姿を見かけて、「この人はきっと、宗教に頼って、自分の不幸な人生をごまかしているだけだ」と思い、「そんなことをして、何かいいことがあるんですか?」という言い方になったのです。 ところが、「これをして何かいいことがあるというよりは、今の自分の中にいいことが見つかっていく」という意外な言葉が心に引っかかり、「離婚はいつでもできる。その前に、とりあえずは夫について行ってみるのもいいかな」と思い直すことができたと言います。 そう決めた途端、それまで気になっていたご主人の嫌な所が見えなくなり、それに連れてご主人の態度や言葉もやわらかくなったように感じられ、夫婦関係は見違えるほど良くなったのです。そして転勤して二年目にはじめて子供を授かり、今は二人目を妊娠中とのことでした。 「それで、どうして今日はこの講演会に?」と尋ねると、転勤で引っ越してきたマンションのすぐ近くに天理教の教会があり、そこの会長さんの穏やかな人柄にひかれ、度々教会に足を運ぶようになったそうです。その会長さんから講演会があると勧められ、ご主人に子供を預けて来てみたら、講師が私でびっくり!ということでした。不思議な再会のご縁を頂き、家族関係が修復されたという嬉しい知らせも聞くことができ、とても幸せな一日でした。 家族といえども、お互い希望も好き嫌いも価値観も、様々な面で違いがあります。それらを自分の思うがままに周囲の人に押しつけてしまえば、せっかくの関係が壊れてしまうことにもなりかねません。 時に私たちは、自分の思う通りに相手が変わってくれることを望み、待ち続けていることがあります。しかし、それでは喜びは近づいてきません。欲望を捨て、自分自身が変わろうと努力する中に、新たな喜びを見つけることができるのではないでしょうか。 「陽気ぐらし」へ向けた材料は、神様があらかじめ今の自分の中にたくさん用意してくださっているのだと、この出会いを通して、あらためて感じることができました。 待っていたで 私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供がやって来るのを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。 文久元年、西田コトさんは、歯が痛いので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」と聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と、コトさんを優しく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」) また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のため、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かな言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠廻りをして」) どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびていたかのようにして、迎え入れられています。 様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安の中、「待っていたで」との教祖のひと言に、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。 親神様が私たち人類の親であるなら、私たちの日常生活は、親神様による壮大な子育ての中にあると言えるのではないでしょうか。そうして日夜温かく見守られる中で、親神様は私たち子供の成人を待ちわび、大きく立派に育つことを願っておられます。 待つということの中には、期待や楽しみも含まれているのでしょう。何せ、子供の成長には時間がかかります。時間をかけてじっくりと、そして楽しみながらその成長を待つ、これこそ真実の親の姿です。 お言葉に、 たん/\と月日にち/\をもハくわ をふくの人をまつばかりやで (「おふでさき」十三 84) この人をどふゆう事でまつならば 一れつわがこたすけたいから (「おふでさき」十三 85) 親神様がなぜそれほどまでに「待つ」ことができるのか。そこにあるのは、どうでも「一れつわが子たすけたい」という切ないばかりの親心に他ならないのです。 (終)
Fri, 08 Mar 2024 - 356 - 夫婦のバランス
夫婦のバランス 奈良県在住・臨床心理士 宇田 まゆみ 夫婦は二人でバランスを取ることで、一つの家庭としてうまく治まっていきます。夫婦は対等の関係ですが、男性には男性性、女性には女性性という、本来的に男女がそれぞれ持っている特性があり、その二つのバランスによって夫婦というものが成り立っています。 本来は性別と合致した形で、男性が男性性の要素を担い、女性が女性性の要素を担うわけですが、仕事をする女性が増えたことによってそのあり方が変わってきました。男性中心に発展してきた社会に女性が進出する際、本来の女性性を横において、男性性を発揮しなければならない場合があります。そのよう女性は、「強い女性」などと言われたりしますが、そういうケースが増えているのです。 振り返ると私自身もそうで、長年、男性に負けないように、しっかりした自分になろうと力を入れて仕事をしてきました。そういう社会の中で、自分の責任を果たしていこうと思うと、しっかり者であることが求められます。ですから子育てにおいても、男女の別なく、しっかりした子に育って欲しいという気持ちが自然と湧き、「あの子はしっかりしているね」というのが子供に対する最高の褒め言葉のようになっています。そうなると、やはり子供は褒められたいので、しっかり者にならないと、という意識が働くのです。 しかし、それはあくまで男性社会を中心とした基準です。しっかりしている、頼り甲斐があるなどは男性性の特徴であり、逆にふわっとした柔らかさやしなやかさ、か弱さというような女性性は中々発揮されにくいというのが、社会の現状のようです。 もちろん、社会で働くには男女問わず男性性の要素が必要で、男性性を大いに発揮してバリバリ働く頼り甲斐のある女性も多く見られます。そのように能力を発揮できるのは素晴らしいことです。しかし、こと家庭においてはどうでしょうか。知らず知らずのうちに、夫婦が共に男性性を発揮しているような状況も多いと思います。 私も結婚以来ずっと、外で力を入れて仕事をし、家庭でもしっかりした奥さんにならないと!と、主人に張り合うような感覚を持っていました。そして、それが女性としての自分を成長させるための正しい方法だと思っていたのです。 それがある時、尊敬する心身医学の先生に、原始時代からの男女の役割と備えてきた特性、また男女での脳の構造の違いについて教えて頂き、それまでの考えが間違っていたことに気づかされたのです。 現代社会の中で頑張る女性は、自分の持って生まれた自然な特性ではなく、男性社会に合わせた要素を使っているという点で、個人差はあるにしても少し無理をしている人が多いのではないでしょうか。そして、それを家庭に持ち込むことで、夫婦のバランスが崩れるだけでなく、自分自身に向けても、さらに負担をかけることになってしまうのです。 夫婦は二人でバランスを取る必要があるので、妻の男性性が強いと、自ずと夫の女性性が高まると言われています。私の主人はとても優しくて控えめで、身体も細く、いわゆる男らしいタイプではありませんでした。ある時、私が男性性を発揮しているからではないか?と気づき、私自身、女性性を高めることを意識するようになりました。 それまでは、しっかりしている自分でいようと、弱い自分を押し隠して、頼ったり甘えたりすることができなかったのですが、せめて家庭では頑張る自分をやめて、何事も主人に頼るようにしました。すると、主人が以前よりも自分の意見をはっきり主張し始め、家庭でも自然とリーダーシップを発揮するようになり、そのうえ仕事も順調に進み出したのです。 さらに不思議なことに、細身だった主人の体型ががっしりとしてきて、胸板も厚くなってきたのです。 夫婦のバランスが整うことで、男性は安心して外へ出て自分の力を発揮できることを目の当たりにし、びっくりすると共に喜んでいます。夫が頼もしく活躍している姿を見て、男女の特性を活かし、夫婦のバランスを整えることがどれほど大事なことかを痛感する、今日この頃です。 幸福な生活とは 「徳川家康は『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし』と言ったが、全くその通りだなぁ……」 私が「憩の家」看護部長時代の院長は、病院の重責を担う心境をこう語られたことがあった。朝は誰よりも早く出勤されるので、それを見習って私も早く出勤する癖がついた。四十年余りの看護師生活で身についた朝起きの習慣は、定年後も変わらず、実に健康的である。 しかし、看護師としての臨戦態勢は、なかなか解くことができなかった。「いつ、緊急の連絡が入るかもしれない……」という緊張感が消えず、常にアンテナを張り巡らせる状態が続いた。一年ほどかけて「もう、あの臨床現場に出なくてもよくなったんだよ」と自分自身に言い聞かせ、やっと自分を解放することができた。 長年の憧れだった、平日のよく晴れた日、日の当たる時間帯に洗濯物を干す。お日さまのもと、さわやかな風が吹いて木の葉がキラキラしている。 「平和だなー、もったいないなー。幸せだなー」つくづく平穏な日々を味わった。 その後、奈良県看護協会会長の重責を頂いたが、おかげさまで平穏の心は続いている。 そんな折、「物理学者アインシュタインが書いたメモ二枚がオークションにかけられ、約二億円で落札された」というニュースを耳にした。 アインシュタインは1922年に講演のため日本を訪れ、滞在していたホテルのボーイに、チップの代わりとしてこのメモを手渡した。そこにはドイツ語で、『静かで質素な生活は、絶え間ない不安に縛られた成功の追求よりも多くの喜びをもたらす』と記されていたという。その言葉は、定年直後のあの心理状態の変化を思い出させた。 私は中学卒業と同時に、天理の学校で、おやさまのお心を胸に、病む人に尽くす「看護ようぼく」となるべく、特別なコースで教育を受けた。その後は、「憩の家で高度医療を受けられる患者さんに、少しでも喜んで帰っていただこう」と、看護に全身全霊を打ち込んできた。 決して自らの「成功の追求」のために取り組んだのではなかったが、患者さんの安全を守り、年若いスタッフがミスなどを起こさないよう指導し目配りする毎日が、「絶え間ない不安に縛られた」日々であったのは間違いない。信仰を持ち、親神様、おやさまという心の拠り所がなければ、定年まで勤務を続けられなかったかもしれない。 でも、「もし初めから静かな生活をしていたら、いまのような心穏やかな暮らしができていただろうか」とも思う。ひょっとすると、小さなことをクヨクヨと思い煩ったり、家族にチクチクと嫌みを言いながら暮らしていたかもしれない。人生のなかで、わが身を投げうって人に尽くす仕事に打ち込む時期があったからこそ、それが終わったとき、「静かで質素な生活」に「多くの喜び」を味わうことができたのではないか。 これまで多くの病む人々に接してきた。いま、こうして健康であることが、どれほどありがたく、奇跡的なご守護の賜物であるかは、身に染みて分かっている。健康な余生を頂けた幸せを、一日一日味わって暮らしたい。 人々の穏やかで幸福な生活を守るために、医療をはじめとするさまざまな現場で働く人は、ストレスの多い厳しい毎日を送っておられることだろう。でも、それこそが、いずれは自らの幸福につながることは確かだと思う。 病院勤務時代に苦楽を共にした〝共に戦う戦士〟であった仲間たち、お世話になった上司の方々に、穏やかで喜びに満ちた日々が訪れていることを願ってやまない。 (終)
Fri, 01 Mar 2024 - 355 - 東京スカイツリーから、こんにちは ~かぁかの大切なスタッフへ~
東京スカイツリーから、こんにちは~かぁかの大切なスタッフへ~ 吉永 道子 前回までは、「かぁかのおうち」を利用するママと子供たちについてお話ししました。五回目の今日は、かぁかのおうちを支えてくれるスタッフのお話しです。 「妊娠期からのママの気持ちに寄り添い、ママと一緒に子育てを精一杯楽しもう」。そんな思いで活動してくれる、頼りになるスタッフです。 子育てひろば・かぁかのおうちは、現在7名のスタッフと3名のボランティアで運営しています。8年前に始めた時は、30年来のお付き合いがあるママ友三人がスタッフとして力を貸してくれました。今では、いつもかぁかのおうちを利用していたママさんが、スタッフとして協力してくれています。 その中の一人は、生後一カ月のお子さんをお預かりしたのがきっかけでした。産後、体調が優れず精神的にも疲れていたママは、一時預かりの施設に知っている限り電話をかけてすべて断られ、最後に「かぁかのおうち」に電話をかけてきたのです。 本来なら直接自宅をうかがうことはないのですが、その時なぜか私の足は、自然におうちへ向かっていました。生後一カ月の赤ちゃんとママの様子を見て、ママの心の状態が不安定だと感じました。 「かぁかのおうちに電話をかけてくれてありがとう」。私はママに心の中でそうつぶやき、この出会いを与えてくださった神様に感謝しました。 すぐに子育て支援センターと連絡をとって情報を共有し、翌日から二日間、一時預かりをすることになりました。 赤ちゃんが三時間ごとに上手にミルクを飲む姿は、愛おしくてたまりません。ママにも産後の疲れから早く解放され、この喜びを味わって欲しいと切に願いました。 その後、ママはひろばを利用するうちに表情が明るくなり、元気を取り戻していきました。そして、かぁかのおうちのボランティアスタッフとして一年間を過ごした後、元の職場に戻ることができました。 「定期的にお手伝いできる場を頂けたことで、体調を立て直すことができました。貴重な経験をありがとうございました」と、ママからお手紙が届きました。神様からのご褒美だと、有難く思いました。 スタッフの一人、保育士のMさんは、ひろばを利用するママさん達に寄り添う中で、あるママの気になる言葉を耳にしました。 「我が子なのに全然、可愛く思えない」「ご飯を食べてくれない」「イライラして、手をあげたくなる」 そんなママにMさんは、「子育ていつも頑張っていますね。私よりもよく出来ていますよ」と優しい声掛けをして、ママの心に溶け込んでいきました。それができるのも、自身の辛い体験があるからです。 Mさんがスタッフになって間もない頃、突然「もう出来ません」と言われ、驚いたことがありました。そして彼女は、以前勤めていた職場でパワハラを受け、心が折れて体調を崩してしまったこと、その記憶が時折フラッシュバックされ、身体が震えてしまうことがあると話してくれました。 ちょうどその頃、Mさんに、子供たちの誕生日を月ごとにまとめた掲示板の作成をお願いしていました。現場に来ることが難しく、自宅で作ってくれたのですが、Mさんの心が表れた優しい素敵なデザインで、ひろばの雰囲気がとても明るくなったのです。やはり、Mさんはかぁかのおうちに必要な大切な人だと改めて思い、再びスタッフとして戻ってきてくれた時には、本当に嬉しかったのです。 ある時、Mさんから嬉しいメッセージを頂きました。 「保育士として、こんな風に楽しく働けるとは全く想像していませんでした。私を見つけて声を掛けて頂き、感謝の気持ちでいっぱいです」 Mさんとの出会いも、神様のお引き寄せに違いありません。 立ち上げの時、何も分からず、形のない中で協力してくれたママ友たち。私の仕事量を心配して、事務仕事をすべて引き受けてくださっているYさん。他にも、看護師や保育士としてサポートしてくださるスタッフ。それからボランティアのAちゃん、Sちゃん、Kちゃん。 かぁかのおうちのスタッフは、チームとしてママさんと子供たち一人ひとりに寄り添い、温かく心地の良い空間を作り出すよう努めています。子育ての愛しい時間と、寄り添う気持ちを共有してくれるスタッフたちに、心から感謝しています。 私の中にある「愛」を引き出してくれたスタッフの皆さん、ありがとう。これからも一緒に「かぁかのおうち」を育てていってください。みんな大好きです。 元の神 私たち人間をたすけたいと、この世界の表に現われた親神天理王命様。その自身の存在を示されるに際して、どのような表現を使われているのでしょうか。「おふでさき」に、次のようなお言葉があります。 このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい(三 15) 我は、この世界と人間を創造した「元の神」である。こう仰せられます。この、自ら言われた「元の神」という言葉に即して、親神様とはいかなる存在であるのかを考えてみたいと思います。 さて、「元の神」という表現は、次のお言葉にも見ることができます。 「元の神、元のをやの理に、人間生れる処、人間生れ代々続く」(「おさしづ」M22・9・23) 元の神、元のをやであるからこそ、何よりもまず人間の誕生について、不思議な働きを見せる。その守護によってつつがなく人間は生まれ、さらに代々切れ目なく続く喜びを見ることができるのである。そのような意味だと受け取れます。 さらに、次のようなお言葉もあります。 「身の内救けるというは、元人間拵えた神」(M36) 病むところをたすけると言えるのは、何もないところから人間を創造した神だからこそ言えるのである。 言うまでもないことですが、何もないところから、人間をはじめ万物を創造するというのは、私たち人間の理解をはるかに超えた力の発動です。従って、「このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい」と仰せられるのも、至極当然であると得心できるのです。 さて、先のお歌の後、「おふでさき」はこのように続きます。 どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ それがたん/\さかんなるぞや (三 16) このたびハたすけ一ぢよをしゑるも これもない事はしめかけるで (三 17) いまゝでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから (三 18) 泥海の中から、つまり何も存在の原型すらないところから、神の働きによって人間世界が創造され、賑やかに栄えてきた。しかし、神の期待する陽気ぐらしとは遠くかけ離れた状況であるがゆえに、このたび神が直接この世界に現れたのである。そして世界中の人間をたすけるために、未だかつてないことを教えて、不思議な守護を見せるであろう。それも、何もないところからすべてのものを創造した元の神だからこそ、実現できるのである。 まさに、親神様の断固とした救済への意志がにじみ出ているお言葉ではないでしょうか。 (終)
Fri, 23 Feb 2024 - 354 - マリーゴールド
マリーゴールド 奈良県在住 坂口 優子 教会の門を入ると、色とりどりの花が可愛らしく咲いています。私が花を育てることにはまったのは、末娘の保育園の卒園記念で、マリーゴールドの株を頂いたことがきっかけでした。 私は小学校の理科の授業以来、まともに花を育てたことがなく、知識も全くありません。でも、このマリーゴールドは、生後六か月から六歳になるまで、娘を育ててくださった先生方に頂いたものですから、何が何でも枯らすわけにはいかないという気持ちになりました。 最近はとても便利な時代で、知識がなくても、携帯電話で写真を撮って検索すれば、花の名前から育て方まで知ることができます。早速色々と調べて、株を植え替えました。 玄関に並んだ小さな植木鉢はとても可愛くて、ずっと見ていられるほど愛おしくなりました。娘も大喜びで、小さなじょうろで水をあげてくれます。 保育園で先生に教えてもらったのでしょう、「お水はお花じゃなくて、土にあげるねんで」と得意げに言いながら、上手に水をあげている姿を見て、先生方への感謝の思いがあふれてきました。それからは、親子での毎日の水やりの時間が、とても楽しみになったのでした。 しばらくたったある日、友人が私を訪ねてきました。玄関の鉢を見ながら、「花植えたんや。可愛いなあ」と言ったかと思いきや、唐突に「この花、摘んだ方がいいよ」と言うのです。 彼女曰く、「もったいないと思うやろうけど、先に付いた花を摘んでおけば、脇芽が出て株がしっかりするんよ。そうすればこの先、花はなんぼでも咲くから」とのこと。私は彼女の言うとおりに株を育ててみることにしました。 ところが娘は、「え~、せっかく咲いたのに可愛そうやん」と悲しそうな顔。するとその様子を見た伯母が、「摘んだ花は別に生けたらええねん。ほら、これにどうぞ」と言って、生け花に使うオアシスを持ってきてくれたのです。 こうして小さな花を生けて飾ると、廊下や食卓が明るくなり、心が豊かになったようでとても幸せな気持ちになります。前を通りかかる度に、「可愛いねえ」と思わず話しかけてしまいます。 そんな幸せな毎日を送る中、梅雨が明けた頃、マリーゴールドの葉に蜘蛛の糸のようなものがかかっていました。こんな所に蜘蛛がいるのかな?と探してみても見つかりません。するとある日、前の日まで元気だったマリーゴールドが、半日ほどで突然枯れてしまったのです。 私はショックで大慌て。花に関する知識がないので、何が起きているのか分かりません。娘も「え~」と悲鳴をあげ、「ちゃんとお水あげてたし、何でやろう?」と信じられない様子。 ところが、葉をよく見ると白い斑点があるのを発見しました。すぐに携帯で写真を撮って検索すると、「ハダニ」であることが分かりました。ハダニは葉の裏に寄生する害虫で、対策が遅れると大量発生し、植物を枯らしてしまうのです。 大急ぎでハダニの駆除剤を買いにホームセンターへ行ったのですが、店員さんに「その状態なら、もう手遅れかもしれませんね」と言われてしまいました。 それでも諦めたくない。この花だけは、絶対枯らせたくない。娘が大きくなった時、この花を見て保育園の楽しい思い出がよみがえるように。そして私自身、娘にたくさん愛情をかけてくださった先生方へのご恩を忘れないように。ただその一筋の思いで、枯らしてたまるものかと、私のマリーゴールドに向き合う日々が始まりました。 枯れたり傷んでしまった葉に、「ごめんね、ごめんね」と声を掛けながら、丁寧に一枚ずつ切り取っていきました。そして、残ったわずか数枚の葉に駆除剤をかけ、「お願い、元気になって。神様、どうかお願いします」と祈りながら、水と肥料をやりました。 次の日も、また次の日も「おはよう。お願い、がんばって!」と声を掛けながら水やりをしました。娘も横にしゃがんで、「がんばれ!」と応援してくれます。 するとある日、緑色の生き生きとした葉が顔を出したのです。「やったあ!」嬉しくて視界がにじみました。私がそれまで掛けてきた「がんばって」という言葉も、いつしか「ありがとう」へと変わっていきました。やがて、それまでの寂しい姿が嘘のように、傷一つない緑の葉が森のように茂り、オレンジ色のマリーゴールドの花をたくさん咲かせたのです。 天理教では「声は肥」つまり、言葉は肥やしであると聞かせて頂きます。私たちの出す一つ一つの言葉は、周りに良い影響を与えられるということですが、植物に対しても愛情をかけ、言葉をかけ続けたことが栄養分となり、いい結果を生んだのかも知れません。 昨年、そのよみがえったマリーゴールドから取れた種を植えました。可愛い新芽が顔を出すと、「ママ見て!芽出てるで!」と娘も大喜び。すると父が、「それ、ここに植えたらええわ!」と大きなプランターを用意してくれました。 今日も、オレンジ色のマリーゴールドが元気よく咲き、お日様に向かって輝いています。水をたっぷりやるのはもちろん、「おはよう!今日も可愛いね」と、言葉の栄養もたっぷりかける毎日。神様の恵みを頂いて、いつまでも咲き続けてくれますように。 天理教の身体観 天理教では、私たちの身体における神様のお働きについて、「かしもの・かりもの」という教えの中で説かれています。お言葉に、次のようにあります。 「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(「おさしづ」M22・2・14) 多くの人が、自分のものとして疑わない身体が、実は神様からのかりもので、自分のものは心だけであると仰せられます。 この、かしもの・かりものの教えの前提となるのが、 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ(「おふでさき」三40・135) とあるように、この世界は神様の身体である、という教えです。 かしもの・かりものの教えを心に治めるには、この世界において、人間のものと言えるものは何一つなく、すべては神様からのお与えであること。そして、そもそも、この世界は誰によって造られたのか、という順序を分かっていなければなりません。 お言葉に、 「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」(「おさしづ」M20・1・13) とあります。 この広大な宇宙は、月日親神様によって造られた。そして、地球という惑星において人間を創造され、その人間たちが次第に集団を作り、やがて国となった。それぞれの国では、そこに住む人々が守るべき法律を作り、その法律に従って暮らしている。現在の人々の暮らしがあるのも、すべては親神様の元初りのお働きがあってのことである。このような厳然たる順序を教えられています。 そして、宇宙全体が神様の身体であり、すべてが神様のご守護であるなら、その小さな一部である人間個々の身体もまた、この世界を動かすのと同様の理合いによって、結構に使わせて頂いているというわけです。 このように「かしもの・かりもの」の教えは、壮大な世界観の上に説かれていると同時に、私たちの日々の暮らしとは切っても切れない、身近な教えなのです。 (終)
Fri, 16 Feb 2024 - 352 - 「おかえりなさい」のこども食堂
「おかえりなさい」のこども食堂 和歌山県在住 岡 定紀 我が家には四人の男の子がいます。学校から帰ってくると、こちらが「おかえり」と言う前に、「ただいま」ではなく、逆に「おかえり~」と言っておどけます。そして、外に遊びに行くのです。 親としては宿題を済ませてから行って欲しいのですが、遊びにはやる気持ちはなかなか止められません。結局「いってらっしゃい。気をつけてね」と言って送り出します。 日常の何気ない光景ですが、この「ただいま」「おかえり」「いってらっしゃい」という挨拶は、心安らぐ「家」と、楽しい「外」と、両方が満たされていて成り立つ会話です。もしうちに帰るのが嫌だったり、面白くない職場や学校に行かなければならないとしたら、このような会話は成立しないかもしれません。 私のお預かりする教会では、定期的に「こども食堂」を開催していますが、全国のこども食堂の中には、参加してくる子供たちに「おかえり」と挨拶をする所が多いと聞きます。町中の飲食店でも、時折、入る時に「おかえりなさい」と言われ、お店を出る時に「いってらっしゃい」と声を掛けられる所がありますが、こども食堂はその比ではありません。 最初は違和感を覚えますが、「この場所を我が家だと思ってリラックスして欲しい」との思いが感じられ、食堂の雰囲気もほのぼのとした温かいものになるような気がします。 さて、コロナ禍では「ステイホーム」というスローガンが掲げられました。不要不急の外出は控え、なるべく家に居てくださいという主旨ですが、外に出られず、家にずっと籠った状態が、かえって家庭内の不和を引き起こすケースもあったようです。親がイライラして子供にきつく当たったり、夫婦仲も険悪になる場合があり、ついには「コロナ離婚」という言葉が生まれたほどでした。 私たちには、心安らぐホームとしての「家」が必要ですが、それと同じぐらい、楽しい「外」があることも大切で、程よいバランスが肝心であることをあらためて思った次第です。 天理教では、 月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから (「おふでさき」十四 25) と教えられています。 月日というのは神様のことで、神様がこの世界と人間を造られたのは、人間が陽気に遊山をするのを見て共に楽しみたいからだと教えられます。 遊山とは「物見遊山」という時の遊山ですが、もともとは仏教用語で、修行によって悟りを得た後に、自然を楽しみながら自由に散策する様子を表しています。 これを日常生活に置き換えてみます。仕事はすべてが楽しいわけではありません。時には「なんでこんなつまらない仕事を」と思うこともあるでしょう。その中を、どう工夫していくか。つまらないと感じる仕事でもゲーム感覚で楽しくできれば、まるで好奇心で目がキラキラしている子供のように取り組むことができるかもしれません。 このように工夫することを「修行」だと捉えれば、毎日を遊山のごとく、心穏やかに楽しめるようになるのではないでしょうか。 現代社会は、仕事や勉強のやり過ぎで、何かとストレスを感じることも多いかもしれません。しかし、子供たちが「外」で楽しく遊んで「うち」に帰って来るように、大人たちも外で「遊山」をするかのように楽しさを味わうことができれば、日々の生活そのものが充実してくるでしょう。 そのような「うち」と「そと」のあり方を考え直すきっかけになったとすれば、コロナ禍も決して悪いことばかりではなかったと言えそうです。 天理教では、神様が人間を宿し込まれた場所を「ぢば」として定め、礼拝の対象としています。すなわち「ぢば」は、私たち人類の「ふるさと」ということになるのです。 ゆえに、「ぢば」を取り囲むように建てられた神殿は、世界中の誰をも受け入れるアットホームな場所として、24時間365日、いつでも参拝できるように開かれています。そして、初めて訪れた人に対しても、ふるさとに帰ってきたという意味で、「ようこそ、おかえりなさい」と言って迎えるのです。 「ようこそ」は初めて来たのだから分かるとしても、「おかえりなさい」という言葉は、とても奇妙に聞こえるでしょう。しかし、私たち天理教を信仰する者は、親元へ帰って来られたという意味ですべての人をそのように出迎え、我が家にいるような心の安らぎを感じてもらうべく努めています。そして、神様の教えに沿った、遊山に出掛けるような心の持ち方について、お話をさせて頂きます。 うちの教会で開いている「こども食堂」も、誰でも受け入れるアットホームな場所として、「おかえり」と温かく迎える気持ちと、再び楽しく外へ出られるように、「いってらっしゃい」と元気よく送り出す気持ちを、心掛けたいと思います。 こうまんのほこり 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の望まれる陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。 教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「こうまん」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。 「こうまんとは、思い上がってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。また、目上に媚び、弱い物をいじめ、あるいは、頭の良いのを鼻にかけて、人を侮り、知ったかぶりし、人の欠点ばかり探す、これはこうまんのほこりであります。」 自惚れと自信は紙一重とも言えます。多少の自惚れは可愛い気があるとも言え、逆にあまりに自信のなさ過ぎる人は、歯がゆくもあり、気の毒にさえ感じられます。しかし、自惚れも度が過ぎると嫌味になり、鼻につきます。思い上がって出過ぎた言動をとっていれば、やがては人の反発を招くでしょう。 また、富や地位を持つことそれ自体が、こうまんのほこりになるわけではありませんが、それらを利用して人を見下すこと、人を人とも思わないような言動をとれば、もちろんほこりとなります。 そうすると、自分はそれほどお金も持っていないし地位もないから、こうまんのほこりとは無縁だ、と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。人の失敗を見て笑ったり、人の欠点を並べ立てて馬鹿にしたりすることは、大なり小なり誰でも覚えがあるのではないでしょうか。 こうまんのほこりについて思案すると、本当の強さや力とは一体どのようなものか、との考えに及びます。一般に力と言えばお金や権力、知力といったものが浮かびますが、結局のところ、神様のお働きを頂けるという「力」に勝るものはありません。 神様のお言葉に、「日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」とあります。 どのような立場や境遇に置かれていても、日々誠の心を尽くすことが、神様のご守護を頂く一番の近道である。この真実に気づけば、思い上がったこうまんのほこりも、徐々に取り払われていくのではないでしょうか。 (終)
Fri, 09 Feb 2024 - 351 - 人生の物差し
人生の物差し 埼玉県在住 関根 健一 私は六年ほど前から、地元埼玉の経営者団体に入会し、経営の勉強をしています。勉強と言っても、講師がいてセミナーを受けるというわけではなく、様々な業種の経営者たちの失敗や反省も含めた体験報告を聞き、それを元に討論しながら共に学び合い、自社の経営のヒントを持ち帰る。そんな形で学んでいます。 入会して数年経つと、色々な役目が回ってきますが、ある時、会員拡大に関する役職を任されました。長く続いたコロナ禍の影響で業績を落とした会社も数多くあり、そのせいもあって、ここ数年で退会者が増えてきたことから新設された部会です。 会の運営を維持するためには、会員の拡大は避けて通ることはできません。どこまでお役に立てるか分かりませんが、せっかく声を掛けて頂いたので引き受けることにしました。 世の中には規模の大小はあれど、経営者と呼ばれる人は五万といます。多くの経営者は、自社の経営を良くしたいという思いで日夜研鑽に励んでいて、「一緒に経営の勉強をしませんか?」と会に誘っても、「そんな時間はありません」などと断られることも多いのです。 一方で、経営者団体も数多存在し、それぞれが精力的に活動していて、経営者はその特徴を見極めて参加する団体を決めています。その中で自分たちの団体を選んでもらうのですから、「会員を増やしたい」というこちらの都合だけでは、なかなか振り向いてくれません。やはり、入会することによって何らかのメリットがあることを伝えなければいけないと思い、その理由について模索することにしました。 そんな思いでいたある日、沖縄で開かれる全国大会に参加することになりました。全国から千数百名の経営者が集まる中での交流は大いに刺激になり、私としてはこれだけでも十分入会した価値があると思えるのですが、人に勧めるような「これだ!」と言える理由にはめぐり会えずにいました。 そうして迎えた二日目の終盤、講演に立った大学教授のお話を聞いているうちに、ストンと腹に落ちる言葉がありました。 それは「この団体は共通の理念を元に、地域で経済活動を行っている経営者の集まり。その理念が広がって、同じ理念の元に活動する経営者が増えれば、地域が活性化し、結果として自社の利益にもつながる」というものでした。 なるほど!と、膝を打つ思いでその言葉を書き留めました。地元に帰ってから、会員の拡大を担当する仲間とその言葉を共有し、どうやってこの思いを具現化して伝えていくか、話し合いを重ねていました。すると、ふと、自分のしようとしていることが何かに似ていると感じました。 それは、天理教で「にをいがけ」と呼ばれる布教活動です。先ほどの教授の言葉をお借りすれば、このようになるでしょうか。 「天理教は共通の理念である『陽気ぐらし世界の建設』を元に、地域でにをいがけ・おたすけを行っている信仰者の集まり。その理念が広がって、同じ理念の元におたすけをする信仰者が増えれば、地域が活性化し、結果として自分自身の幸せにもつながる」 もちろん、様々な信条や信仰を持つ経営者の集まりですから、天理教の教えと全てが一致するわけではありません。しかし、経営者であり、信仰者である私にとっては、この団体の活動を通して、教えを広めていく気持ちも大事なんだと気づくことができました。 そんな心の動きを、団体のある幹部の方と話す機会がありました。特に天理教についての知識は持っていない方ですが、私が信仰者であることはご存知で、その話を興味深く聞いてくださいました。 「人間にとって信仰は物差しだと思うんです。物差しがなければ、人は目の前にあるものを自分の都合のいいように解釈して、10センチのものを1メートルと言ったり、1センチと言ったりできます。でも、神様の教えという物差しがあると、あくまで10センチのものは10センチであり、そこに過不足が生まれるのは自分自身の心遣いに依るものなんです」 このように物差しに例えて話したところ、「関根さんの信仰のお話は興味深い。いつか一緒に天理にお参りしたい」と言ってくださいました。 正直なところ、初めはあまり気乗りのしなかった会員拡大のお役でしたが、「はい」と受けて自分なりに真意を求めていった先に、親神様・教祖が先回りのご守護をくださったのだと感じました。 その後、「神様の教えは物差しである」ということについて、自分なりに考えを深めていきました。 皆さん、突然ですが「21センチ」と聞いて、その長さを手で示すことができますか? 「多分このぐらいだろう」と言うことはできても、「絶対にこの長さです」と示すのは難しいと思います。 皆さんの身近にあるチラシやコピー用紙などで、広く使われているA4サイズの紙があります。その短い方の辺の長さが21センチです。そこに手を合わせれば、ほぼ狂いなく21センチを示すことができます。 ここで言うA4の紙を、私たちが持っている信仰の物差しだとすれば、その物差しに沿って日々信仰を深めていくうちに、21センチという長さを体得することができるでしょう。そして、常に自身の信仰を顧みることで、いつでもどこでも正確にその長さを示すことができるような、つまり、神様の思召しに沿った行いのできる人間になれるのだと思います。 信仰者として、常に「人生の物差し」を持ち続けていたいものです。 梅を見に行こう! 「憩の家」では、「病は、人間を〝陽気ぐらし〟へ導こうとされる親神様の手引きである」との天理教の教えに基づいて看護が行われている。陽気ぐらしとは、人間の親なる神様の思召のもと、世界中の人々が互いにたすけ合い、喜びに包まれて暮らすことをいう。 治療が奏功して良くなられる場合は、皆さん大変喜ばれ、「これからは、私も人だすけに貢献します」と言ってくださることも少なくない。しかし、難病や予後不良の病気を患う方が、陽気ぐらしへ心の建て替えを果たすのは、並大抵なことではない。その過程にいかに寄り添い、共に歩むことができるか……それが私たち看護ようぼくの使命である。 梅の花がほころぶころになると、がんを患っていた女性患者Aさんを思い出す。Aさんのがんは全身に転移しており、抗がん剤治療が施されたものの、寝たきり状態となっていた。しかし、まだ食事を口から取ることができたので、いまが家で過ごせる最後のチャンスであろうと思われた。 娘さんに相談したところ、休暇を取って実家に帰り、介護できるとの返事だった。そこでAさんに、「治療も一応終わって、いまは点滴もないし、おうちで娘さんと一緒に、ご主人がお仕事から帰ってこられるのを、明かりを灯して待ってあげるというのはどうでしょうか」と持ちかけた。すると、「師長さん、私は主婦だから、ご近所の方が退院したのを知って訪ねてこられたときに、せめて玄関に立って応対できないと、家に帰る意味がありません」とおっしゃった。 Aさんのがんは全身の骨にも転移しており、ほんの少しの衝撃でも骨折する恐れがあった。それゆえ「立って玄関まで歩いて応対する」という目標が達成できるとは考えにくかった。それでも、その願いに一歩でも近づくために、主治医に「リハビリを依頼していただきたい」とお願いした。しかし、若い主治医は体への負担を心配して、終末期のリハビリには否定的だった。 本来、リハビリの目的とは「人間らしく生きる権利の回復」だといわれている。終末期で寝たきりであっても、Aさんが人間であることに変わりはない。ましてや「魂は生き通し」とお聞かせいただき、共に陽気ぐらしを目指す私たちとしては、Aさんの希望をなんとしても叶えて差し上げたかった。 なんとか主治医の同意を取りつけ、リハビリが始まると、驚いた。それまでは、ともすれば暗い雰囲気であった病室が、笑い声も聞かれる明るい空間に変わったのだ。おのずと会話も前向きなものとなった。 そんななか、Aさんは「今年も梅を見に行きたいな」と呟かれた。Aさんにとって、おそらく最後になるであろう花見……。私たちは、Aさんのお花見を実現するために、試行錯誤の末、どこにも体をぶつけることなくAさんを乗用車に乗せる方法を編み出した。それは、シーツにくるんだ状態のAさんを、ストレッチャーから車内へ五人がかりでスルリと引っ張り込み、座らせるという方法だ。何度も何度もAさん役のナースで練習を重ね、ついに、どこにもぶつけないところまで上達した。 お花見の当日、当初は「なにもそこまで……」と批判的であった主治医も出発に立ち会ってくださった。そして、無事に車に乗り込んだAさんのあまりの喜びように、思わず「私も行きたい!」と車に飛び乗られた。……が、100メートルも行かないうちに、さまざまな用事があることを思い出し、あわてて降りて病院へ戻られた。 いかなる状況であっても、喜べるのが陽気ぐらしであるならば、つらい闘病の日々においても、ほんの少しでも喜んでいただける看護を……と、私たち看護ようぼくは、今日も模索し続けている。 (終)
Fri, 02 Feb 2024 - 350 - ジャカルタの交通事情と家族の姿勢に見ならう
ジャカルタの交通事情と家族の姿勢に見ならう インドネシア在住 張間 洋 私が2019年の夏に、天理教インドネシア出張所勤務の御用を頂いてから、丸四年が経ちました。その間にはコロナに感染したり、色々なことが起こりましたが、現地の教友の方々が心を尽くしてくださるおかげで、何とか務めさせて頂いています。 さて、突然ですが、皆さんはジャカルタの交通事情について見聞きされたことはありますか? 毎日時間を問わず各所で起こる大渋滞。その渋滞する車の隙間を縫うように走り、時に自転車専用道路や歩道を逆走するバイクの列。その交通状況の悪化に追い打ちをかけるように進められる道路工事と電線地中化工事。道端のそこかしこにたむろする、バイクタクシーの運転手たち。そんな中で、わずかなチップを目的に、道路の混乱を収めようと勝手に仕切りだす交通整理おじさんの介入で、状況はさらに悪化。これがジャカルタ市内の、一歩屋外に出た時の日常です。 こうした交通事情が原因で、車での移動の際、時間を大幅に取られることにいつも不便を感じていたので、昨年からバイクに乗り始めました。しかし、日本の舗装された道路と違い、常に道路の陥没に気をつけなければなりませんし、時にはヘルメットもかぶらずに、逆走したり急に飛び出してくるバイクもいて、いつでも四方八方に注意を向けていなければ危険です。それまでバイク運転未経験だった私は、当初、その状況に怖気づいて、道路の真ん中でエンストを繰り返していました。 そんな中でも、バイクであちこち移動をしていると、徐々に見えないルールが分かってきました。ここの停止線では止まってはいけない、この信号を守ると追突される可能性がある、ここでは車と車の間から追い越しをした方が安全だ、など、一見、危険運転をしているようでも、実は現地の交通事情に則していて安全だということがたくさんあったのです。 皆がお互いを困らせようと思って、そのようなルールができたわけではありません。そこに住む人々は他に環境を選べないので、あるがままの状況を受け止め、逆らわずに自分を上手に合わせた結果、そうなったのだと思いました。 私はこの経験を通して、いちばん身近な妻や子供との日々の通り方も、これと同じではないかと感じたのです。 私たち夫婦は、結婚以前からそれぞれインドネシアに関わりを持っていて、私自身、インドネシアで神様の御用を務めることを学生時代から望んでいました。とは言え、ジャカルタに住み始めた当初は分からないことだらけでした。 どこで何を買えばいいのか、公共料金はどこで支払えばいいのか、人との付き合い方や場面に応じた服装など、御用以前の日常生活の基本を一つひとつ家族で学んでいきました。当時9歳と5歳の子供たちにとっては、環境が急激に変化し、言葉も分からない土地で色々と苦労をしたと思いますが、与えられた状況の中で精一杯頑張ってくれました。 ジャカルタ赴任の御用を頂く以前のことですが、私は新婚当初は夫婦の間の衝突を避けるために、言うべきことを言わずに自分の心の中でせき止めることが度々ありました。その上、私には自分が正しいと思ったことを曲げないという悪い癖があります。さらには元来の心配性から、家庭の外で起こる出来事にも自分の心をうまく合わせることができず、心はいつも疲れていました。 親神様はそんな私の心遣いを心配してくださったのか、結婚して5年が経つ頃、私はバセドー病を発症しました。 バセドー病は、甲状腺ホルモンが過剰に分泌されることで、全身に様々な症状を引き起こす病気です。私の場合、目に見えて身体的に疲れることが多くなりました。朝起きた時から、すでに徹夜をしたような気だるさと、運動した翌日に全身筋肉痛になった時のような疲労感があるのです。少し動いただけで心臓がバクバク音を立て、すぐに疲れてしまうので、休息を取りながらでないと何事もままなりません。 それまでは病気もせず、健康な身体を神様からお貸し頂いていると思っていたので、体力が急に落ちたことで、人として役立たずになってしまったように感じました。 日常生活で普通にできていたことができなくなり、妻や子供に手伝ってもらったり、介抱してもらったりする中で、今までいかに妻の優しさに甘え、自分がわがままになっていたか、また我が子に対しても不遜な態度をとってしまっていたことに気づきました。家族に対する恩や、手を差し伸べてくださる周りの方々への恩も感じているつもりでしたが、病気になったことにより、自分の心遣いも一から積み直さなければならないと思い至りました。 そんなこともあり、ジャカルタに赴任してからは、一つひとつ妻と相談しながら、自分としては真っ直ぐに出張所の御用をさせて頂き、家族にも心を配ったつもりでいたのですが、一昨年から再びバセドー病が悪化してしまいました。 今は通院のおかげで随分楽になりましたが、極度の疲労状態になると、人が変わったように沈み込むこともあります。自分一人だけが辛い目に遭っている気持ちになり、家庭の中に嫌な空気を漂わせてしまうのです。 ただ、私にとって幸せなのは、辛い状況にあっても、あるがままの私を受け止め、笑って勇気づけてくれる妻が隣りにいることです。また、こんな父親でも、調子が悪い時には気遣ってくれ、冴えない笑い話にも付き合ってくれる子供たちのおかげで、毎日心晴れやかに過ごすことができます。 ジャカルタの過酷な交通事情の中でも、軽やかに運転するドライバーのように、何が起こってもあるがままを受け入れ、状況に逆らわずに心を合わせてくれる妻や子供たちの姿勢を見ならって、日々勤めていきたいと思います。 ほしいのほこり 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の思召しに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。 教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「ほしい」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。 ほしいとは、心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります。 自分が働いた分の収入を得たいと思うのは正当な要求ですが、できることなら働いた以上にもらいたい、あるいは楽をして、人一倍もらいたいというような心。それはほこりであると、はっきりお諭しくだされています。 また、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、というのは、自らの徳分に見合わないものまで欲しがる、ということでしょう。お金があるから贅沢をする、というのではなしに、お金があるないにかかわらず、粗末な食事をも感謝して食べられる人が、本当の意味で徳分のある人と言えるのではないでしょうか。つまりは有っても慎む、という意識を常に忘れずにいることが、ほしいのほこりを積まない秘訣なのです。 さて、最後に「何事もたんのうの心を治めるのが肝心」とあります。たんのうとは、これで結構、有り難いと前向きに受け止めることです。ほしいのほこりに即して言えば、金銭や物が十分にないことを不足に思ったり、嘆いたりするのではなく、それが現在の自分に相応しい与えであると納得し、喜んで受け入れることです。 さらに言えば、ものに関してだけでなく、人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求める心遣いも、ほしいのほこりとなります。 自分の意に沿わない人に対して不満を抱いたり、人のせいにしたりするのではなく、自らの心の持ち方を変え、いつでも喜びの心で通れるよう努めたいものです。 (終)
Fri, 26 Jan 2024 - 349 - タイより、見知らぬあなたへ
タイより、見知らぬあなたへ タイ在住 野口 信也 私は天理教のタイ出張所へ赴任して12年になりますが、タイの方々を尊敬できることの一つは、道端でゴミ拾いをしていると、多くの行き交う人が「ありがとう」、「コープクンクラップ」、「コープクンカー」と声を掛けてくれることです。時にはタクシーの運転手がわざわざ車を止めてお礼を言ってくれたり、お店の方が飲み物をくれたりすることもあります。 天理教では、世界中の人間は親神様を親とするきょうだいで、人間の心は元々は清水のように清く、互いにたすけ合って幸せに人生を送ることができるように創造されたと教えられます。しかし、日々生活する中で、辛いこと、悲しいこと、嫌なことに遭遇し、それに対する不足の心がほこりとなって、知らず知らずのうちに積もり重なり、元々きれいであった心が濁ってしまっているのが、私たちの現状なのです。 きれいな清水のようなままの心であれば、何が正しいか、間違っているかを見分けるのは容易で、たどるべき人生の道筋がはっきりと見えてくるのかも知れません。ところが心が濁ってしまうと、本当に大切なものを見失い、正しい道の見分けがつかなくなります。すると、本来楽しいはずの人生がゆがんで見えて、自分勝手なことばかり考えたり、他人と争ったりするようになってしまうのです。 とは言え、元はきれいな心ですから、感動する物語にふれたり、良いことを目にしたりすると、心が揺さぶられ、本来のきれいな心が顔を出し、自然と人を喜ばせる言葉や行いが現れ、それによって自分自身も嬉しい気持ちになることができます。 さて、私がこちらへ赴任した頃、タイの高校から「日本語を教えに来てほしい」と依頼がありました。タイの方々は親日的感情を持ち、またアニメや歌、ゲームなどの文化流入の影響もあり、日本語の学習者がおよそ18万人いて、その80パーセントが中学生、高校生とのことです。 私はお願いされたことはできるだけ断らないようにしていますが、タイでの用務は膨大で、週2日、3コマほどの授業といえども中途半端にはできないので、ほぼ毎年続く依頼を泣く泣くお断りしていました。しかしこの度のコロナ禍で多くの日本人が帰国してしまい、教師が全くいないとのことで、いよいよお受けすることにしました。 依頼が来たのは、各学年50名ほどの生徒を抱える高校でした。一年目はコロナ禍のため、すべてオンライン授業。皆が初めての経験で四苦八苦でしたが、特に二年生のクラスはやる気が感じられず、画面に顔を出さない生徒も多く、授業を受けているのか心配になるほどでした。 課題を出すと、提出物の中に「死」や「自殺」という文字を書く生徒もいて、担任の先生に相談すると、彼ら二年生は入学当時からオンライン授業で、友人もできず、授業も思うように進まず、大変かわいそうな学年です、との返答でした。 タイの高校の授業は一日8時限あり、そのうえ土日も塾へ通わせる家庭が多いため、生徒たちは精神的にかなり疲弊しているように感じられました。また、日本のような学校のクラブ活動もないので、友人たちと楽しく真剣に取り組む活動がなく、それに加え、慣れないオンライン授業の毎日で大変な思いをしていたようです。 2022年、ようやく対面授業が再開されました。問題の学年は三年生になりましたが、最終学年にもかかわらず日本語はあまり上達していません。日本語科の生徒にとっての一大イベントである七夕まつりも、三年生は大学受験を控えているという理由から、二年生が中心で企画運営をするため、活躍の場はごくわずか。そうした様々な理由から授業に対する意欲も湧かず、タイの先生方も半ばあきらめていました。 私は少しでも生徒たちが前向きに授業を受けてくれるよう工夫をしましたが、何度注意してもゲームをやめない生徒たちを見て、「君たちのご両親は、一生懸命働いて、こんなにいい学校に君たちを入れてくれた。その君たちが今日、この教室を入った時と出て行った時で、何の成長もないまま家に帰って行ったら、ご両親はどう思いますか」と、つい強い口調で言ってしまったのです。 「彼らが悪い訳ではない。このコロナ禍をどう生きて行けばいいか分からないんだ。彼らに寄り添おう」と心に決めておきながら、大きな失敗をしてしまいました。 その後も、何か三年生が積極的に取り組み、「日本語を習って良かった」と思ってもらえることができないか考えていました。 そんなある日、タイの先生が「日本人の留学生でもいると、また雰囲気も変わるのですが」と話すのを聞いた時、コロナ前に天理高校の生徒が毎年タイへ研修旅行に来ていたことを思い出し、天理高校の生徒と一緒に何かできないかと考えました。 そして、タイの生徒たちに「見知らぬあなたへ」という題で、まだ会ったことのない日本の生徒たちに手紙を書いてもらうことにしました。 私が作った日本語の例文を元に、そこに生徒の書きたいことを加えて下書きをし、最後に便せんに自分で清書をして、封筒に入れて完成させるという流れです。 最初はしぶしぶ書いていた生徒たちも、下書きを手直しするうちに内容に変化が出てきました。受験勉強の大変さを書きながら、「あなたも無理をしないでね」と最後に相手を気遣ったり、オンライン授業の時に特に心配した生徒が、「みんなが楽しく幸せに暮らせますように」とタイ語で書いて、私に翻訳をお願いしにきたり。オンライン授業で、他者に対して攻撃的だと感じられた生徒が、とても優しい一面を持っていることも分かりました。 自身の苦しみを通して、自分と同年代のまだ会ったことのない相手を思いやる生徒たちの純粋な心に触れ、私も心を動かされました。 表書きは「見知らぬあなたへ」、裏には自分の名前を書いて、全員分の手紙が出来上がりました。 天理高校の校長先生や担当の先生のご配慮で、天理高校の50数名の生徒さんに手紙を読んでもらい、全員から丁寧な返事をいただきました。 タイの生徒は、自分の名前が書かれている返信の封筒を神妙な面持ちで受け取り、封を切り真剣に読み始めました。そのうち、友達同士で見せ合って歓声をあげたり、私に日本語の意味を聞きにくる生徒や、携帯の翻訳機能を使って懸命に読んでいる生徒がいたり。中には「『中国語を勉強している』と手紙に書いたので、中国語で返事が来た」という生徒もいました。 コロナ禍で、勉強への意欲も日本語への興味も失っていた生徒たちの心に、まだ見ぬ友達からのやさしい心遣いが響いたようで、高校生の本来あるべき生き生きした姿を見ることができました。 人の優しさや思いやりが心に届いた時、それは生きる希望や喜びとなって現れてきます。彼らには、これからもこうした経験をたくさん積んで、心豊かな大人へと育っていってほしいと思います。 息一筋が蝶や花 親として子どもが可愛いのは、当然のことです。だからこそ、わが子を「蝶よ花よ」といってどこまでも可愛がる。はたから見れば、どうかな?と思っても、親にすれば周りの目は関係ありません。ただただ、わが子が可愛いのです。その子どもが立派に成長して、社会に出て役に立ち、人さまに喜んでいただける人間になってくれれば、どれほど嬉しいことでしょう。 しかし、いくら見目麗しく優しい子に成長したとしても、息一筋が止まってしまえば、そこでお別れです。それまでの日々が思い出され、親として、辛く悲しい毎日を過ごすことになるでしょう。 神様のお言葉に、 「蝶や花のようと言うて育てる中、蝶や花と言うも息一筋が蝶や花である。これより一つの理は無い程に」(「おさしづ」M27・3・18) とあります。 息一筋に神様の有り難いお働きがあるのであって、それならばこそのお互いです。息をしなくなれば、今世はそれで終わりということになります。 神様のご守護の世界に生かされているという真実に目覚めることが、何より大切なことです。それを知らずに、蝶よ花よと育ててみても、それは砂の上にお城を築いているようなもので、風が吹けば一夜にして崩れ去ってしまうことにもなりかねません。 神様に生かされているという真実を、すべての考え方の基盤にしながら日々を送る。その着実な歩みが、確かな人生を紡ぐことになるのです。 (終)
Fri, 19 Jan 2024 - 348 - ルーツの旅
ルーツの旅 岡山県在住 山﨑 石根 私共の教会は明治28年の設立で、来年で創立130周年を迎えます。教会の初代会長は、私から言えばひいひいおじいちゃんに当たり、私は五代目の教会長を務めています。 教会の草創期である明治時代、移転を余儀なくされた大変な時期に、とてもお世話になった片岡家というお家がありました。その後、片岡家の皆さんは初代会長たちと共に熱心に信仰されたそうですが、昭和に入り男のお子さんを戦争や病気で相次いで亡くしたこともあり、お子さんは娘さん一人だけになりました。 その娘さんもお嫁に行くことになり、ご両親が亡くなると片岡の名前は途絶えることになりました。しかし、嫁ぎ先の理解もあり、片岡家のお墓やご先祖様の供養については、娘さんがずっと気にかけ、長い年月、見守ってくださっていたのです。 さて、その娘さんにも美保さんという女のお子さんしかおらず、美保さんもまたお嫁に出たのですが、美保さんの母親である片岡家の娘さんも93歳になっていました。 ご主人も亡くなり、施設に入っていましたが、コロナ禍でしっかりした面会が叶わず、昨年の5月にコロナが5類になったことで、ようやく美保さんとゆっくり話すことができたようです。 その時、お母さんは美保さんに次のようなお願いをしました。 「自分が亡くなった後、実家の片岡家のお墓を誰かに面倒見てもらう訳にもいかないから、どこかに永代供養できないか、天理教の教会に相談して欲しい」 これを受けて当教会に相談があったのですが、美保さんはご自分で調べて、奈良県天理市の天理教教会本部の納骨堂に、お墓を移転したいと申し出たのです。いわゆる「墓じまい」です。 亡くなってすぐの納骨ではなく、いったんあるお墓を倒して、墓石を撤去し、他の場所にご遺骨をうつして永代供養とするのは、思った以上に手間のかかることでした。改葬許可証、改葬受入承認書、除籍謄本などなど、色んなものを手配するために、市役所の手続きが必要になりました。 美保さんのお住まいは県外にあり、母親のお世話をするためにしばしば岡山に通っている状況で、あちこち移動を繰り返しながら母親の願いに応えようとする彼女の姿は、親孝行の鑑のようで、私は胸を打たれました。 さて、季節は秋に入り9月、いよいよお墓を倒すその前日に、美保さんから「コロナに感染したので行けなくなった」と電話があり、その日は急きょ、親戚の人に立ち会って頂きました。全部で七人の方のお墓を倒したのですが、その日を楽しみにしていた美保さんは、大変残念だったと思います。私は、引き上げたご遺骨を骨壺に納め、またそれぞれを故人の名前を記した木箱に納めました。 数日後、美保さんから「納骨の前に、一度教会で参拝をしたい」という申し出がありました。折しも教会の秋の霊祭の時期でしたので、そのご案内をさせて頂きました。 秋季霊祭当日は、当教会の祖霊殿の神饌物の前に、7人のご遺骨を並べ、みんなで最後のお別れができるように配慮しました。式を終えた後、美保さんから「墓じまいに立ち会えなかったので、もう一度祖霊様の前に行って、骨壺を開けて拝んでもいいですか?」とお願いされました。 そこで私も一緒に祖霊殿に参進し、一つひとつ骨壺を開けてご覧頂くと、彼女はそれを胸に抱きしめながら、「おじいちゃん、美保ですよ」と涙を流して語りかけました。 この時初めて聞いたのですが、美保さんは両親が共働きで忙しく、母方の祖父母に育てられたそうなのです。 美保さんはさらに、「思いがけず60年ぶりに思い出したんですが、ちっちゃい頃、おじいちゃんに連れられて、よく天理教の教会に参拝に行っていました。今日拝見したおつとめの踊りや歌を、ものすごく懐かしく思い出しました」と。 信仰熱心だったおじいちゃん、おばあちゃんやご先祖様が、彼女をこの教会に導いたんだなあと、思わずにはおれませんでした。 10月4日、いよいよ教会本部の納骨堂にお骨を納めるその日、彼女と一緒に教会本部を参拝し、神殿を案内しました。 人間創造の元の場所である聖地「ぢば」を参拝し、存命の教祖「おやさま」のお住まいである教祖殿に進みました。そこでおやさまの教えや道すがらについてお話ししていると、彼女は涙が止まらなくなり、「山﨑さん、もうそれ以上しゃべらないでください」とまで言われてしまいました。 私はおじいちゃん、おばあちゃんの導きだけでなく、おやさまがお待ちくださっていたんだなあと、目頭が熱くなりました。どんなにか、片岡家のご先祖様はお喜びのことでしょう。 かくして、すべての人間の魂のふるさと「ぢば」に初めて帰り、ご先祖様のご遺骨を納め、さらに尊い神様のお話を聞いた彼女の旅は、本人にとって特別なものになっただけでなく、私にとっても忘れられない一日となりました。 今回のことをきっかけに、図らずも彼女は母方の家のルーツを知ることになり、さらには人間のルーツを知ることにもなりました。 岡山に戻り、美保さんが母親にこの日の出来事を話し、更地になった元の墓地や納骨堂、納骨式の様子などを撮影した写真を見せると、「ありがとう、ありがとう」と何度も言葉にしながら喜んでくださったそうです。 それからおよそ二週間後、美保さんの母親は、静かに息を引き取りました。 天理教の教会では、朝夕に祖霊殿へ参拝し、人だすけに歩まれた先人のご苦労を偲び、遺徳をたたえ、お礼を申し上げています。今日もまた、片岡家の祖霊様はじめ、教会にゆかりのある方々にお礼を申し上げたいと思います。 心の入れ替え 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たちに陽気ぐらしへ向けて心の入れ替えをうながされるべく、筆に記してお教えくだされています。 いまゝでハせかいぢううハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども 十二 89 なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので 十二 90 これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかゑてくれ 十二 91 この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを 十二 92 この直筆による「おふでさき」四首で、教祖は私たちが定めるべき心、いわゆる神様が望まれる「〇」の心と、反対に捨てるべき心、神様の思いに沿わない「×」の心をお示しくだされています。 まず、「いまゝではせかいぢううハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども」続いて、「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」とあります。 世界中の人間は皆、銘々に思案をしてはいるけれども、どんなに思案をしても人をたすける心がない。自分中心の思案ばかりであり、何とも情けないと嘆いておられます。つまり、銘々思案は×の心であり、人をたすける心が〇です。 そして続くお歌で、「これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかえてくれ」「この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを」と、月日親神の頼みであるとまで仰せになって、具体的にどのような心に入れ替えて欲しいかを示されています。それは、「世界たすける一ちよ」の心。世界中の人々をたすけるんだという、一筋のまっすぐな心です。 この何の混じり気もない、たすける一点張りの心こそ、まさに神様が望まれる「〇」の心だと言えるでしょう。 (終)
Fri, 12 Jan 2024 - 345 - 喜びを見つけていく
喜びを見つけていく 大阪府在住 山本 達則 私たちお互いは、誰しも日常生活の中で、少なからず不満や不足の種を持っています。家族のこと、仕事のこと、健康のこと、人付き合いのことなど。さらにそれらは毎日のように、その時々の気持ちによって変化していくものです。 以前、ある引きこもりの男の子に出会いました。彼は長期にわたって全く部屋から出てこられなくなり、そのやるせなさを大声を出すことで紛らわせていました。両親をはじめ家族は、その声に怯えながらの生活が続き、心も体も疲弊し切っていました。両親はわらにもすがる思いで、教会に熱心に足を運びご守護を願いましたが、中々明るい兆しを見ることはできませんでした。 そんな中、両親はある日、天理教の教会本部で行われている「説教」に参加し、このようなお話を聞きました。 「今の自分の姿が、不都合な受け入れがたい姿であっても、神様はたすけてやりたいという親心いっぱいでお見せくだされているんです。私たちにできるのは、その中で喜びを見つける努力をすること。それがご守護を頂ける、唯一の心の持ち方なのです」 お話が終わって席を立とうとすると、同じくそばで聞いていたご婦人から声を掛けられました。そのご婦人は、娘さんが若くして大病を患い、闘病の末、35歳という若さで亡くなられたそうです。ご婦人はその現実がどうしても受け入れられず、「なぜ、自分の娘だけがこんなことに」と、ずっと苦しんでいるのだと打ち明けました。 「でも、今日お話を聞かせて頂いて、娘が亡くなったことも、神様の親心なんだと理解できました。これからは『娘を35年間も生かして頂いてありがとうございました』とお礼を言いながら、通らせてもらおうと思います」と、最後には笑顔で帰って行かれたとのことでした。 この日の話を受け、両親は二人で話し合いました。 「これまで、息子のことで喜んだことなんてなかった。なぜうちの息子だけが? 他の子は何事もなく学校に通っているじゃないか。そう思って悔んだり、恨んだり、悲しんだり…その繰り返しだった」 そして夫婦で反省し、息子さんの今あることを喜ぼうと、心を定めたのです。 数日後、両親にお会いすると、ご主人が「息子はこのままでも構いません。あの部屋から出てきてくれることを諦めたわけではありませんが、とにかく、生きていてくれることを喜ぼうと思います」と言ってくださいました。そしてその半年後、ついに息子さんは部屋から出ることが出来たのです。 私たちは誰しも夢や希望、理想というものを持っています。それがあるからこそ、毎日の暮らしに活力が湧いてくるのだと思います。しかし、自らの行動を顧みることなく、心の入れ替えもせずに、ただ望むばかりでは、それが叶わなかった時、不満や不足が募ってしまうことは目に見えています。 神様のお言葉に、 「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」(「おさしづ」M25・1・13) とあります。 自分の思い描く姿に見合うような心の持ち方や、それに伴う行動がなければ、その夢はいつまでも、夢のままで終わってしまうのではないでしょうか。 スポーツの世界でも、人より秀でた成績を残す選手は、日常で間違いなく、その結果に見合った努力を重ねているものです。同じように、「家族円満」という姿を叶えている家族には、それに見合った日常の心遣いや行いがあるに違いありません。家族お互いが、日常の何気ない出来事に対しても、有難いと感謝し、喜ぶ姿があるはずです。 自らの夢や希望や理想を引き寄せる第一歩は、自分自身の中に喜びを見出す努力を続けることではないか。最近、そんなことをつくづく感じています。 心を尽くすと 奈良県看護協会の代表として、県内の有識者らが集う会議に出席したときのことである。たまたま隣り合わせた女性と名刺を交換した。問われるままに「現役のころは、天理よろづ相談所病院に四十年ほど勤めていました」と言葉を添えると、「私、天理の病院には大変お世話になりました。看護師さんがみんな親切ですよね」と、嬉しそうに話された。 二十数年前、出産して間もないころ、子供さんの状態が悪くなり、救急搬送されたのだという。 「病院に着いてから、何がなんだか分からないまま、不安で胸が押しつぶされそうになって、ホールで泣いていたんです。そこへ、メガネを掛けた看護師長さんが来られ、横に座って、『大丈夫ですよ。ここには、心臓の悪い子供さんたちがたくさん入院していますが、みんな頑張って良くなっています。幸い、あなたの子供さんの心臓病は軽いものです。先生方が、ちゃんと治してくださいますよ』と、背中をなでて慰めてくださいました。真っ暗だった目の前に、やっと明かりが見え、救われました。あのときのことは、いまでも忘れていません」 その話を聞いて、ドキッとした。実は、私は長い間、心臓病の患者さんが入院される病棟で勤務していたのだ。その方の子供さんが入院された年を伺うと、私が病棟師長をしていた時期と一致した。 「そのメガネの看護師長は……たぶん、私です……」 そう打ち明けると、「まあ! なんという巡り合わせでしょう!」と驚かれたが、すぐに会議が始まり、話は中断した。会議終了後も、彼女は興奮冷めやらぬ様子だった。 「恩人を探してもらうテレビ番組を見るたびに、『私もいつか、あの看護師長さんを探してもらってお礼ができたら……』と思っていました。こんな偶然があるなんて……。私もあれから、自分も誰かの役に立ちたいと思って頑張ってきたんです」 申し訳ないことながら、そのときのことが全く思い出せなかった。思い出すのは、患児の母親から苦情を頂いたりした、つらい場面ばかり。たくさんの患者さんが入院され、心臓カテーテル検査や手術を受け、緊急あり、急変ありの嵐のような毎日。「もう少し看護師がいれば、十分な看護ができるのに」と何度思ったことか―。 そんな日々のなかの出来事だったのだろうが、その方がずっと忘れずにいてくださったのに、自分が全く覚えていないことに恐ろしさを感じた。けれども、「憩の家に来られた方には、絶対に喜んで帰っていただこう!」との思いで、その時々にできる限りのことを、自分なりにさせていただいてきたつもりだ。自分では忘れてしまっていても、親神様はちゃんと受け取ってくださっていたのだろう。そう思い直して「良かった……」と、胸をなでおろした。 にちにちに 心つくした ものだねを 神がたしかに うけとりている 神がたしかに うけとりている (おうた7番『心つくしたものだね』) この「おうた」が、自然と心に浮かんだ。時間切迫、多重課題が迫りくる臨床現場で、いまもあえぎながら、より良い看護を追求している後輩たち。大変だろうけれど、目の前の患者さんに心を尽くすことを忘れなければ、きっと大丈夫! 帰りのバスで、杖をついた高齢の婦人に席を譲った。「私、バスはあまり乗ったことないの。どうやって支払うの?」と不安そうにおっしゃる。やがて、駅に到着。両替をして支払いを済ませ、バスを降りるところまで付き添わせていただいた。 「奥さん、ありがとう! ありがとう!」 ほのぼのとした気持ちに胸が満たされた。この出会いに感謝した。 「親神様、幸せをありがとうございます。看護ようぼくとしての病院勤務は卒業しましたが、これからも毎日の出会いを大切に、人さまに尽くしていきます……」 さわやかな風が、駅舎を吹き抜けた。 (終)
Fri, 05 Jan 2024 - 344 - ありがとうのチカラ
神の用向き 病気になれば、誰でも辛い思いをしますが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、病についてのこのようなお歌があります。 いかなるのやまいとゆうてないけれど みにさわりつく神のよふむき(四 25) よふむきもなにの事やら一寸しれん 神のをもわくやま/\の事(四 26) なにもかも神のをもハくなにゝても みなといたなら心いさむで(四 27) 「日々の暮らしの中で、身体の調子が悪くて悩むこともあるだろうが、それは病ではなく、神の用向きである。神がこの世界を陽気ぐらしに建て替えるために働いて欲しいと、身体にしるしを見せ、自覚を促しているのだ。それは容易には理解できないことかも知れないが、神は山のように積もる思いを知らせたいゆえに、しるしを見せるのだ。そのたすけたい一心の神の思惑を、何もかも説いて聞かせたなら、皆の心も勇み立ってくるであろう」 身を病んでしまった時は、誰しもエネルギーが減っています。「神様に叱られた」「きっと罰が当たったんだ」などと、捨て鉢な気持ちに陥ることもあるかも知れません。しかし、身を病むと同時に心まで病んでしまっては、生きる力は湧いてこないでしょう。 そんな時、このお歌を通して伝わってくる神様のあたたかい親心が身にしみます。「用があるから、そのことを知らせているのだ」と呼びかけてくださる神様のお声を頼りに、明るく前を向いて通りたいものです。 ありがとうのチカラ 助産師 目黒 和加子 数年前のある夜、天理教を信仰している友人の里香さんから慌てた声で電話がありました。 「今朝、双子を妊娠中の長男のお嫁さんが破水してん。予定日まで二カ月もあるのに。かかりつけの産院に行ったら、すぐに新生児集中治療室のある病院に救急車で搬送することになって。けど、先生が近所の大学病院に電話したら、『保育器一台なら空きがあるけど、二台は無理です』って断られたんよ」 「早産で産まれる赤ちゃんには温度と湿度をコントロールできる保育器が必要やねん」 「急いで他の病院を探してたら、最初に電話した大学病院から『保育器を二台用意できたので、受け入れ可能になりました』と連絡が来て運ばれたんやけど。心配で…」 「破水すると子宮内感染が進んで、胎児にも感染が及ぶねん。予定日より二カ月も早いとなおさら感染に弱いし」 「神様におすがりするしかないよね…」 里香さんの声が震えています。 その電話から数時間後の真夜中、緊急帝王切開で出産となったそうです。1649グラムの男の子、1700グラムの女の子が産まれました。二人とも保育器の中で治療を受けていると連絡がありました。 後日、里香さんに産科医療職者としての思いを聞いてもらいました。 「一般の人にはあまり知られてないけど、実は、胎児を包む卵膜が破れて破水してから感染が始まるんとちゃうで。すでに子宮内感染が起きてて、卵膜が弱ったから破水したんよ。表には現れてないけど、感染がじわじわと進んで炎症が起き始めていると言えばいいかな。潜在的感染って言うねん。感染が表に出ると母体が発熱したり、胎児心拍が頻脈になったり、炎症のレベルを示す血中CRP値が上昇してくる。そうなると子宮内環境の悪化が一気に進んで、胎児に大きな負担がかかる。破水の後から自然に陣痛が来ることもあるけど、感染の進みが早ければ陣痛を待ってられへん。真夜中に緊急帝王切開に踏み切ったのは、CRP値が上昇してきたからやと思うよ。朝を待たずに帝王切開を決断した産科のドクターに感謝やで」 「えっ、そういうことやったん。夜中にせんでもいいのにって思ってたわ」 「それと、夜中に早産で産まれる双子の帝王切開をするために、どれだけのスタッフが集められたと思う? 少なく見積もっても産科医二名、麻酔科医一名、手術室ナース複数名、新生児科の医師とナース複数名、ざっとこれだけは要る。休みの日に恋人とデート中だったスタッフや、勤務が終わって家でお風呂に入ってたところを呼び出されたスタッフもいたと思うで」 「夜中に帝王切開するのって、大変なんや」 「さらに、一台しかないと言われた保育器が、なんで二台確保できたのか。これは想像やけど、誰かが里香さんのお孫ちゃんのために譲ってくれたからやで。新生児科の医師が、比較的状態が落ち着いている赤ちゃんの親に連絡して事情を説明し、了解をもらった上で保育器の空きを作ったんやと思うよ」 「保育器を二台用意できたっていうのはそういうことなんや。ラッキーぐらいにしか思ってなかった…。和加ちゃんに言われるまで、たくさんの方々から誠真実を頂いていたことに全然気づかんかった。自分の孫の心配ばかりで…。病院のスタッフさんや保育器を譲ってくれた方に感謝してもしきれない」 あれもこれもありがたいと、涙声で繰り返す里香さん。その感謝の声を聞いて思い出したことがあります。 23年前のあの日、私は日勤のリーダーでした。陣痛室には初産婦の小林さんがいました。夜勤助産師の片桐さんへ申し送りをし、ナースステーションを出ようとしたその時、陣痛室からのナースコールです。 「誰か、すぐに来て!」片桐さんの叫ぶような声。駆けつけると、小林さんがお腹を抱えて狂ったように痛がっているではありませんか。 「サイナソイダルパターンや! すぐに院長呼んで!」と胎児心拍モニターを指差す片桐さん。胎児心拍が波のように揺れるサイナソイダルパターンは、胎児が急激に貧血に陥っている証拠です。子宮の壁から胎盤が剥がれる「常位胎盤早期剥離」を起こしたのです。 こうなると、一秒でも早く帝王切開をしないと胎児はたすかりません。日勤者、夜勤者総出で、超緊急帝王切開の準備に掛かりました。 手術直前の胎児心拍はゼロ。ものすごい速さで手術は進み、赤ちゃんは産まれたのですが、産声をあげません。直ちに蘇生処置を開始。大学病院の新生児集中治療室に搬送すべく、院長と私が救急車に同乗。車中でも蘇生法を続け、到着直前に心拍が再開。自発呼吸も始まり、赤ちゃんの産声が車内に響きました。 「赤ちゃんたすかった!」涙ぐむ院長と私。新生児科の医師に申し送りをして大学病院を出たのは19時過ぎでした。 「和加子さん、用事なかったんか?」帰りのタクシーの中で院長に聞かれ、思い出したのです。今夜はデートだったことを…。私はデートをすっぽかしたのです。翌日、彼からこう言われました。 「実は昨日、プロポーズをするつもりでダイヤモンドの指輪を用意してたんや。命の最前線にいる和加ちゃんを尊敬はするけど、人生を共にはできない。一晩中考えての結論です。今後のお付き合いもできません」 つかみかけた幸せが、手のひらからこぼれ落ちたのです。 数日後、搬送した赤ちゃんが元気になって戻ってきました。小林さんのご主人がナースステーションに来られ、「新生児科の先生から『救急車の中で適切な蘇生法を続けたからたすかったんだよ』と聞きました。助産師さん、心からお礼申し上げます。ありがとうございます」と、涙まじりの感謝の言葉を頂きました。 「ありがとう」の言葉は強力で即効性があります。振られた悲しみは、どこかに吹っ飛びました。 医療の仕事に対し、「昼夜を問わず、最善を尽くして患者をたすけるのが仕事ですよね。大変な仕事だけど、その分お給料はいいんでしょう」と言う人もいます。逆に「仕事とはいえ、こんなにして頂いてありがたい。きっと、見えていないところでも尽くして下さったんですね」と言って下さる人もいます。 過酷な現場で働く医療職者は、自己犠牲を払って仕事をしています。厳しい仕事をする私たちを支えているのは、患者さんやご家族からの「ありがとう」の言葉であると知って頂けたら、嬉しく思います。 (終)
Fri, 29 Dec 2023 - 343 - 自分の心に寄り添う
たいしよく天のみこと 神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと、この世界と人間をお造りくだされた、私たち人類の親であります。そして今も昼夜を分かたず、この世界の隅々から私たち一人ひとりの身体に至るまで、一切のご守護をくだされています。 教えでは、この神様のご守護を十に分け、それぞれに神名をつけて説き分けられていますが、そのうちの「たいしよく天のみこと」については、「出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理」と教えられています。 赤ちゃんはお腹の中では、母親とへその緒でつながっていて、そこから栄養と酸素を与えられています。そして、この胎縁が切れると、赤ちゃんはオギャーと産声をあげ、自力で呼吸を始めます。これが息を引きとるまでずっと続くわけです。つまり、最初に自力で呼吸をする時と、最後に息を引きとる時、誕生と死において、私たちはこのたいしよく天のみことのお働きを頂いているのです。 一般に、誕生はめでたいことですが、死は何か暗い、忌まわしいものだと考えがちです。しかし、天理教では、死は「出直し」であり、魂は生き通しで、また新しい身体をお借りして、この世に生まれ替わってくると教えられています。つまり、死はそれで終わりというものではなく、生まれ替わるための一つの節目、新たな出発点でもあるということです。 言うまでもなく、死がなければ誕生もあり得ません。死ぬ者がいなくて、生まれる者だけがどんどん増えれば、世界はたちまち人であふれてしまいます。この生命の循環ということを考えれば、誕生と死は一つであり、切り離すことのできないものであることが分かります。 さらに、死と並んで「切る」という言葉にも、何となく良くないイメージがあります。しかし、「みかぐらうた」の中で、 「六ツ むほんのねえをきらふ」 「八ツ やまひのねをきらふ」(二下り目) と、争いや病を根絶しようと仰せられる通り、切ることも、私たちにとって大切なお働きです。 長い患いや悩みをたすけて頂きたいと願う時、それまでと同じ心遣いや通り方をしていては、ご守護を頂くのは難しいでしょう。自らの癖性分を断ち切り、心を生まれ変わらせるほどの大きな決断をしなければなりません。斯様に、「切る」働きとは、人生の節目において必要不可欠なものなのです。 自分の心に寄り添う 奈良県在住・臨床心理士 宇田 まゆみ 先日、大勢の人の前でお話をさせて頂く機会を得ました。少ない人数でも緊張するのに、何百人という人の前でお話をさせて頂くことになり、その日が近づくにつれ、緊張と不安が募ってきました。そんなに大勢の前でうまくお話ができるだろうか、頭が真っ白になって言葉に詰まってしまったらどうしよう、などと考えると不安は膨らんでいきます。 そんな時に私が今までよくやってきたのが、ポジティブシンキングです。不安を打ち消すために、「これもいいことだ!」と、自分に言い聞かせるのです。 ただ、そのように頭で考えて不安から目を逸らそうとすると、不安がなくなったような勘違いをしますが、決して無くなってはいないのです。これもいいことだと頭で考えながらも、心の中では不安が渦巻いている。頭の声と心の声にギャップがある状態です。しかも自分としては、もう不安は払拭できたと思い込んでいるのですから、これはなかなか厄介です。 人は何か辛いことに直面すると、それが早くなくなって欲しいと思うものです。身体の痛みもそうですが、悩みごとや人から否定されるようなことがあると、嫌な気持ちになります。その気持ちを直視するのが辛いので、仕方がないと割り切ったり、これにも何か意味があるんだ、これで良かったんだと気持ちを切り替えようとします。そうして苦しみから逃れているようでいて、実のところは強く苦しみを握ってしまっているのです。 私が大勢の人の前で話すことへの不安を抱きながら、それを直視するのが辛くて、「これもいいことだ!」と言葉にした時、横にいた主人からこんな風に言われたのです。 「それ、自分の気持ちを飛ばし過ぎじゃない?不安なんでしょ? 不安に思っている自分の気持ちを、もっと大事にしてあげた方がいいよ」。 私は狐につままれたような気持ちになりました。しかし、よく振り返ってみると、私はこれまで自分の気持ちを大事にするということを、ほとんどしてこなかったことに気づきました。ポジティブシンキングによって、無理に頭で切り替えて、心の声に蓋をしていたのです。 主人にそのようにアドバイスを受け、自分の感じている不安に自分で寄り添ってみることにしました。 自分の心の声に耳を傾けると、「不安だな、怖いな、うまくいくかな、大丈夫かな」など、色んな気持ちが出てきます。その気持ちを否定せず、そのまま受け止めて、「そうだよね、不安だよね、怖いよね、分かるよ、そう思うよね」と自分自身に語りかけ、100パーセント自分の気持ちに寄り添ってみたのです。 それまでは、「不安とか怖いとか思っていても仕方がない。気持ちを切り替えていこう」と考えて、あまり丁寧に向き合うことはありませんでした。そこを敢えて、まるまる自分の心の声に寄り添った時、何とも言えない安心感が出てきたのです。 人は何か悩みや問題を抱えた時、誰かに相談したくなります。カウンセリングの現場にいると、そのようにして相談に来られる方と多く出会わせて頂きます。その時感じるのは、悩みや問題を相談しに来た方は、何より安心感を得たいのだということです。 たとえ問題が解決しなくても、話を聞いてもらい、分かってもらえたという安心感、自分はこれでいいんだ、一人ではないんだという安心感を得ることで、物事の見え方もその後の展開も大きく変わります。 実際に、私は自分の心の声に100パーセント寄り添った時、何とも言えない安心感に包み込まれ、不安が不安ではなくなりました。そして、今までとはちょっと違う心の声が出てきたのです。 まず出てきたのは、「そんなに大勢の人の前で話す機会を頂けるなんて、すごくない?」という声で、続いてそれに答えるように、「確かにすごいよね。自分がいくらしたいって言っても、なかなかできるものではないもんね」 さらに、その心の声にそのまま寄り添っていくと、心の底からじわじわと喜びが湧いてきて、「ほんとにすごい!そんな機会を頂けるなんて、本当に有り難い!」との感謝の声になったのです。 そして当日も、感謝の気持ちで精一杯、自分のできる限りのお話をすることができ、うれしい楽しい体験をさせて頂くことができました。 人は皆、幸せになりたいと思っています。幸せになるために毎日の色んな体験があるのだとしたら、不安や恐怖、怒りや悲しみなど、幸せとは遠く離れた感情からも、きっと幸せにたどり着くことができます。 その秘訣は、自分の心の声にそのまま寄り添うこと。この時に大事なのは、良い悪いの判断をせず、まずは100パーセント受け入れることです。それができた時、自分の内側から安心感が湧いてきます。そして、その安心感が自分を幸せへと導く力になってくれるのです。 (終)
Fri, 22 Dec 2023 - 342 - 東京スカイツリーから、こんにちは ~赤ちゃん食堂、始まりました!~
夫婦のあり方 現在、私たちは、いにしえから絶え間なく続く夫婦、すなわち男女の営みを基盤として存在しています。夫婦の間に子どもが生まれ、家族が形成される。さらには、その家族を基本単位として社会が構成されていく。豊かな人間社会を築いていく上で、夫婦の和、そして家族の一手一つの和が大きく影響してきます。 親神様は、人間を創造されるに当たり、夫婦の雛型にしようと、男女それぞれについて道具を引き寄せられましたが、いずれの場合も、「その一すじ心なるを見澄ました上」でもらい受けられています。つまり、夫婦というのは、人間が本来の性質として持っている「一すじ心」に基づくものであると言えます。 お言葉に、 ふたりのこゝろををさめいよ(四下り目 二ッ) なにかのことをもあらはれる ふうふそろうてひのきしん(十一下り目 二ッ) これがだいゝちものだねや とあります。 どんななかでも夫婦が心を一つに治め、感謝の心でひのきしんに励ませてもらうことによって、親神様のご守護の世界が開かれていくことを教えられています。 夫婦が力を合わせて通るお手本を、先人の歩みに求めてみます。 明治十五年、教祖が奈良監獄署に拘留された際、梅谷四郎兵衛さんはお屋敷から差し入れに足繁く通い、大阪で留守番をする妻のタネさんは、教祖のご苦労を思い、毎日蔭膳を据えお給仕をしていました。この時、教祖から「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」とのお言葉を掛けられています。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」) また、平野楢蔵さんとトラさん夫妻は、「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ」と心を定め、夫婦でおたすけに奔走しました。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた」とのお言葉をくださいました。(教祖伝逸話篇189「夫婦の心」) 現代においても、夫婦のあり方があらゆる面で大きな影響を及ぼします。夫婦によって築かれた家庭が、愛情と思いやりに満ちたやすらぎの場となる場合もあれば、逆に欲望に振り回され、身を滅ぼすことになる場合さえあります。夫婦の治まりが、陽気ぐらしの要であることを胸に置きながら、日々勇んで通りたいものです。 東京スカイツリーから、こんにちは ~赤ちゃん食堂、始まりました!~ 吉永 道子 子育てひろばを利用している親子は、お弁当を用意し、お昼ご飯を一緒に食べます。そんな中、K君のお弁当は、例えばある日は甘い揚げパンだったり、同じ物ばかりがたくさん入っていて、それをひたすら食べ続けるのです。そして自分の分を食べ終えると、今度はお友達の持ってきたものを食べたがります。K君のママはこのことが不安で、ひろばを利用するのに誰もいないNPO法人子育てひろば「かぁかのおうち」では、旬の食材を使った離乳食を10組の親子で食べるイベント「赤ちゃん食堂」を開催しています。これは、食を通して親子が楽しく過ごす場を提供し、また月齢の近い子供を持つママさん同士の交流を図ることを目的としています。 きっかけは、子育てひろばを利用しているK君のママの、「いつも子供と二人きりでご飯を食べていることが、不安でたまらない!」という一言でした。すると、他にも離乳食で悩んでいるママさんが多いことに気がついたのです。 時間帯を選んだり、食事の時間を避けたりするようになりました。 そしてK君が一歳を迎える頃、ひろばで「かぁか」と呼ばれている私に、ママから相談がありました。「離乳食の食べ方を保健師さんからアドバイスされても、まったく思うようにいきません。どうしてみんなと同じように食べられないのでしょう?」と。ママは、子供と一緒に楽しく食事をすることを忘れてしまっているようでした。 ある日、K君の一時預かりの申し込みがありました。その中には離乳食の時間があり、スタッフは同じ日にお預かりしていたIちゃんとK君を、同じテーブルで一緒に食べさせることにしました。 「はい、あ~ん。ほ~ら、おいしいね~」 IちゃんもK君も、大きな口を開けて、おいしそうに食べています。 「あら、よく食べたね~。お弁当箱がピッカピカ!」 この二人の光景をスタッフが動画に撮り、K君のママにLINEで送りました。 ママはビックリ!「こんなに楽しそうにご飯を食べられるなんて…」 食事に問題のないことが分かったママは、心のモヤモヤが取れ、それまで迷っていた発達に関する療育相談を受ける決心をしました。こうしてママは、K君の心と身体についてより理解し、寄り添うことができるようになったのです。 私はこの経験から、一緒にご飯を食べたりお茶を飲むことが、こんなにも大切なことなのだと感じ、赤ちゃん食堂を毎月開催することに決めました。 毎月、新規の方の申し込みがあり、定員がいっぱいになります。一度参加したママさんがお友達に声を掛け、一緒に連れて来てくださることが多くなりました。 毎回、ママさんから嬉しいコメントを頂きます。 「季節の野菜を使って、とても美味しいご飯が食べられました。娘はとても満足そうで、うちでは出来ない手づかみ食べができて、楽しいランチになりました」 「初めてうち以外で離乳食を食べました。たくさんのお友達と一緒にご飯を食べられて、いい経験になったと思います」 「うちでは立ち上がったりぐずったりすることもあるので、少しでも楽しんで食事ができるように、参考にしたいと思います。何より、まわりのお友達を見ながら食べるということが、本人の食べる意欲につながっていると感じるので、また参加したいです」 「講師の方ともお話ができ、不安な点を解消してくださったり、前向きな言葉を頂けて嬉しかったです」 かぁかのおうちの赤ちゃん食堂は、参加したママたちの口コミで地域に拡がっていきました。このイベントは天理教の教会で開催していますが、ある時、活動に興味があるというキリスト教会の方が見学に来られました。 ひと通り活動をご覧になった後で、「なぜここのスタッフの方たちは、参加者にここまで優しく寄り添えるのですか?」と聞かれました。私は、「では、出張赤ちゃん食堂をさせてください」と申し出て、後日、スタッフを連れてキリスト教の施設で開催し、大勢の方に体験して頂くことができました。 その日の夜、施設の方からメールが届きました。 「本日はありがとうございました。あの、優しくておいしい離乳食を食べた子は、健康で元気な子に育ちますね。全然トゲトゲしていないお味で感動しました。この赤ちゃん食堂が、もっともっと広まるといいですね。次回が今から楽しみです」 かぁかのおうちが、スタッフ一同で親子に寄り添い、みんなで楽しく過ごせる場を提供し、地域のつながりを生んでいく。そこに神様のお働き、お引き寄せを強く感じています。 今日も皆さんで一緒に「いただきます」。そして感謝を込めて「ごちそうさまでした」。おなかも心もあったかくて、いっぱいになりました。 (終)
Fri, 15 Dec 2023 - 341 - 金婚式おめでとう
火と水の調和 親神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと、この世界と人間をお造りくだされた、私たち人類の親であります。そして今も昼夜を分かたず、この世界の隅々から私たち一人ひとりの身体に至るまで、一切のご守護をくだされています。 教えでは、この親神様のご守護を十に分け、それぞれに神名をつけて説き分けられていますが、 くにとこたちのみことについては、天にては月、人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。をもたりのみことについては、天にては日、すなわち太陽、人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理、とお聞かせ頂いています。 お言葉に、 このよふのしんぢつの神月日なり あとなるわみなどふくなるそや(「おふでさき」六50) しかときけこのもとなるとゆうのハな くにとこたちにをもたりさまや(「おふでさき」十六12) とあるように、天にては月日と表れるこの二柱こそ、この世界において最も根本的なご守護の理を表すものです。そして、この対照的な働きである「火」と「水」の調和が、私たちの営みにおいて大変重要なことなのです。 たとえば、暑くなると汗をかく、という身体の働きがあります。ぬくみが過剰にならないように汗をかくことで、その蒸発熱によって体温を下げる。これも火と水の働きが調和する姿です。 また、身近な例で言えばお風呂があります。これも火と水のほどよい調和、釣り合いがあってこそ気持ち良く入れるものです。熱すぎればやけどをしてしまい、ぬる過ぎれば風邪をひいてしまいます。 さらにお風呂については、こんな悟りもできるかもしれません。お風呂に気持ち良く入るためには、着ている物を脱がなければならない。つまり、火や水をはじめとする親神様のご守護を十分いただくには、我が身思案や欲の心を捨て、心を裸にすることが必要ではないか。 身に着けている余分な物を捨て、親神様の心にもたれ切ることで、私たちは調和のとれたご守護の世界を存分に味わうことができるのです。 (終) 金婚式おめでとう 奈良県在住 坂口 優子 毎年お盆とお正月は、主人のきょうだいとその家族がみんなうちに帰ってきて楽しい一日を過ごします。核家族で育った私にとって、最初はなかなか大変な一日でしたが、年を重ねるにつれ、準備や片付けの大変さも感じることがなくなり、みんなの寄る日が楽しみになりました。 私自身、子ども達が寮生活を始めて離れて暮らすようになると、家族が揃うことにこだわる両親の気持ちが理解できるようになり、その日がもっと好きになっていきました。 今年もお盆が近くなり、その日が訪れようとする頃、きょうだいのグループラインに一件のメッセージが入りました。 「両親の金婚式のお祝いを、8月15日にしたいと思います」 五人きょうだいの主人の、いちばん上の姉からでした。 その数日後、義父から「そろそろお盆やな。みんなに集まる人数を聞いて、用意してくれるか」と相談されたので、「15日にみんなで金婚式のお祝いをしようと思ってるので、今年は子ども達で全部用意させてもらいます。楽しみにしてて」と伝えると、義母は嬉しさが込み上げたのか、おつとめをつとめながら涙をポロポロと流していました。 普段両親と同居している私たち夫婦にとっても、この企画はとても有り難いものでした。お嫁に来て23年。一緒に暮らしていると、段々と日々の小さな喜びが当たり前になり、感謝の気持ちも忘れてしまいます。だからこそ、きょうだいの力を借りてでも、両親の喜ぶ顔が見られると思うだけで心がワクワクしました。 家族みんなが天理教の教えの中に育ち、親を喜ばせたい気持ちを一番に持っているので、きょうだいそれぞれに意見の違いはあっても、心を譲り合って準備が進んでいきました。 お祝いの当日は、台風の影響で朝から大雨が降り、強い風も吹いていました。ニュースでは、関西圏のスーパーやデパートが営業を休むと報じられていました。注文した食事のことを心配していると、仕出し屋さんとケーキ屋さんから電話がありました。どちらもその日はお店を閉めるそうですが、それでも注文は受けて下さるということでした。 五人の子どもとその連れ合い、そして孫が22人。予定を変更すれば、全員が集まることはおそらく無理で、お店の好意をとても有り難く思いました。 台風が徐々におさまってきて、皆が集まりだし、孫たちが会場の飾りつけを始めたりして賑やかになりました。買い物に行く車の中で、いちばん上の姉がこんな話をしてくれました。 両親にとっては、母方の親だけが夫婦揃って金婚式を迎えられたのですが、両親は都合がつかずに、そのお祝いの席を欠席したのだとか。姉は、その時の両親の悲しそうな姿を側で見ているのがとても辛かったそうで、二人が金婚式を迎えたら、子どもや孫たちみんなで賑やかにお祝いしようと、心に決めていたのだと話してくれました。 姉は、嫁ぎ先の母親を数カ月前に亡くしたばかりで、「夫婦が二人とも元気に金婚式を迎えられるのは、本当に奇跡なんよな」という姉の言葉が心にしみました。 夕方になり、ケーキ屋さんが注文の品を届けてくれました。朝の段階では、「職人さんが台風で来れず、注文のケーキが作れない」とのことでしたが、金婚式と知って、雨がおさまってから職人さんが急遽お店に来て、注文通りのケーキを焼いてくれたのです。「いつもありがとうございます。そして、今日はおめでとうございます」と、心のこもったお祝いの言葉も頂きました。 そして、仕出し屋さんも、「いつもお世話になっているので、お二人のお膳にお祝いの気持ちを添えさせて頂きました。今日は金婚式おめでとうごさいます」と、特別にアワビをつけて下さいました。 台風でお店を閉めている中、わざわざ足を運んでお祝いの気持ちを届けてくださったことに感謝すると共に、長年の教会生活を通じて、地域との絆を大切にしてきた両親の姿が垣間見えた気がしました。 台風が去り、遠方に住む家族たちも遅れることなく到着し、お祝いの会が始まりました。みんなで記念写真を撮影し、乾杯。孫たちからお祝いの品を渡され、両親は満面の笑顔です。 それから、二人の軌跡を振り返るスライドショーを上映しました。結婚式から始まり、五人の子供が生まれ、成長して大人になり、それぞれが結婚して孫が22人生まれた現在までの50年分の思い出が集められ、最後にお祝いのメッセージ動画が添えられた15分間の大作でした。 スクリーンを見つめるみんなの目には、涙があふれていました。家族の思い出が鮮明によみがえり、あらためて温かい親の思いにふれ、このうちに生まれてきたこと、そしてここに嫁いで来たことの幸せを、みんなが心から噛みしめた瞬間でした。 今日の私たちの幸せは、両親が50年の間、どんな日も二人仲良く通ってきてくれたおかげだと、心から感謝しました。これからも、どうかお元気で。私たち夫婦も、二人をお手本に、幸せのバトンを次の世代につないでいきたいと思います。 (終)
Fri, 08 Dec 2023 - 340 - ランドセルを通して思ったこと
いまできることから(2021年6月発売『すきっと36号』より) 通勤路の途中のある民家の近くで、いつも三匹の猫を見かけた。その家に住む年配の女性が、餌をくれるのを待っているようだった。あるとき、その女性が入院した。猫たちは、その後もじっと待っていたが、冬が来る少し前に姿を見せなくなった。いまごろどうしているだろう。私にできることはなかったか……そんなことを考えていたら、ふと、マザー・テレサの言葉が頭に浮かんだ。 「家に帰って家族を愛してあげてください」 貧困や病気で死にかけている人々を看取る施設「死を待つ人々の家」の活動などが評価された彼女は、一九七九年、ノーベル平和賞を受賞した。その際、記者からの「世界平和のために、私たちはどんなことをしたらいいですか」との質問への答えが、このシンプルな言葉だった。 「外へ目を向けるのは大切なこと。でも、その前に私はまず、うちの猫や家族をもっと大切にしなければ……」 私たちが人生で出会う人は限られている。その一人ひとりを大切に思って接することは重要だ。何より、一番身近な家族が「ただそこに存在してくれている」ことに感謝し、愛することは最も大切なことだと、あらためて思う。 コロナ禍で、自宅に家族が居合わせる時間が長くなった。父親がリモートワークで在宅し、イライラしてDVが増えたと聞くと、胸が痛む。 私の実家は農家で、子供のころ、雪深い冬は父親も家にいて、囲炉裏のそばでムシロや背負いかご、草履などを作っていた。いたずらが過ぎるとゲンコツをもらったが、何回せがんでも嫌がらずに絵本を読んでくれた。テレビもなかったので、夜は家族全員でトランプを楽しんだ。 神様はいま、家族のありようを見直すようにと言われているのではないかと思う。社会の基本単位である家族が睦み合って暮らせぬようでは、世界たすけなど到底おぼつかない。つい、わがままが出やすい家庭は、陽気ぐらしの修行道場ではないかと、このごろ思っている。 私は四十年間、重症の患者さんの看護に携わってきた。現場の看護師は、いつも「もっと良い看護を実践しなければ」と焦り、理想と実際との狭間で心を倒すこともある。そんなとき、 「きょう担当する患者さんに、できるだけ喜んでもらえる看護を実践することに集中しよう! それを繰り返していたら、はっと気がつけば、いつの間にか多くの人を救っていたことになる。あのマザー・テレサも、そうやって生きてこられたそうよ」 と慰める。すると「そうか、それでいいんですよね!」と、少し元気になってくれる。 例年なら、看護協会会長として、県内の看護学校の入学・戴帽・宣誓・卒業などの式典で祝辞を述べるのだが、この一年間は規模縮小で招かれていない。 「コロナ禍だから……」と言い訳して、何もしないでいることもできる。が、それでは使命は果たせない。いまできることは何か、と考えた。そこで、コロナ禍で十分な実習ができないまま、不安を抱えて卒業する看護学生に、ビデオメッセージでエールを送ることにした。 内容は、新人看護師が忘れてはならない三つの大切な心得。 ①自分の行為の一つひとつが人の命に関わっていることを忘れず行動し、どんなに忙しくても、注射などは最後の詰めをしっかりと確認し、責任の持てる状態で実施すること。 ②患者さんに負担をかけるので、決して一人で無理をせず、不安が強いときや「いつもと違う」と思ったときは、すぐ判断のできる上の人に直接、見てもらうこと。 ③担当する患者さんに心から関心を寄せて声をかけ、何かの処置で病室に行ったら、立ち去る前に、「ほかに何か、心配なことや御用はありませんか」と、ひと言聞くようにすること。 DVDにメッセージを託し、県内の全看護学校に郵送した。 届け! 看護のこころ。 ランドセルを通して思ったこと 和歌山県在住 岡 定紀 今回は、次男が小学校に入学する前の話をしたいと思います。 小学生になると、子供たちはランドセルを背負って登校しますが、そのランドセル、結構いい値がします。六年間使うものだから丈夫に作られているわけですが、値段は数万円します。 我が家は天理教の教会で、教祖「おやさま」の「すたりもの身につくで」という教えを胸に生活しています。すたりものとは不用になったもののことで、身につくとは、ここでは魂に徳をつけるという意味になるかと思います。つまり、ものを大切に使うこと、使い古しのものでも丁寧に使わせて頂くことが、幸せになっていく元であると教えられているのです。 そこで、少しでも節約をして、次男の魂に徳をつけさせてやりたい。そして将来、世のため、人のために働く人間になってもらいたい。そんな思いで、インターネットのフリーマーケットのサイトで、中古のランドセルを安く買えないかと検索していました。 すると、全国から出品されたランドセルの一覧がずらっと表示されるのですが、「現地に取りに来てくれる人」という条件がほとんどでした。その中で、「奈良県天理市 1000円」という表示が目に飛び込んできました。しかも男の子用の黒いランドセルで、「新品カバーも付けます」とあります。ただ、画面で確認すると、6年間使ったせいで少し横に傷が入っていました。 私は全国の市町村からの出品リストの中で、天理という場所が目に飛び込んできて、しかも破格の安さということに、何か神様のお働きを感じました。夜分遅くでしたが、その出品者の方にメールを送ると、すぐに「天理のスーパーの駐車場で引き取りをお願いします」と返信が来ました。 そして、「どちらにお住まいですか?」と聞かれたので、「実は和歌山に住んでいるのですが、天理教の信者なので天理にはしょっちゅう行きます。ついては、それまでお取り置きできないでしょうか」と返信すると、「そちらが来れる日で大丈夫ですよ!」とのことでした。 「ただ、六年間使っていますし、傷も入っているので心配です。大丈夫でしょうか」とあったので、私は「すたりもの身につくで」という教祖の教えを元に、「いえいえ、美品でなくても、かえって子供に徳をつけさせてやれると、夫婦共々喜んでいます」と送りました。 すると最後には、「やはり天理教様の教えは素晴らしいですね。私も同じ親として頭が下がります」と返信してくださったのです。 思いがけず、教えを伝える機会にもなったのだなあと、しみじみ感じ入っていると、その時、不思議なことが起きました。寝ていた次男が突然、起きてきたのです。 次男は三歳頃から半年に一度ぐらい、夜中に突然目を覚まし、大声をあげながら動き回ることがありました。最初は怖い夢を見たのだと思い、「大丈夫やで。お父さんとお母さんがそばにいるからな」と、明るい部屋でなだめるのですが、10分近くわめいたりするのです。その都度、神殿に連れて行き、神様にお願いをさせて頂いていました。こういうことがあったので心配していたのです。 そして、この時もまさにそのパターンの起き方だったので、また動き回って大声を出すと思い、部屋から出て行かないように抱きかかえようとしました。すると、いつもと様子が違い、その場にしゃがみ込んで、何も言わずに一分ほどジッとしてから、また布団に戻っていったのです。「こんなこと初めてやね」と、妻と目を合わせました。 後日、天理のスーパーの駐車場で、相手のお母さんと待ち合わせて、ランドセルを頂きました。お母さんは改めて「徳を積む」という教えに感じ入ったようで、「そう言えば天理小学校の子って、中古のランドセルを使っている子が多いですよね。皆さん大事に使っていて、あれは天理教の教えによるものなんですね。私も生き方を考え直します」と言ってくださいました。 それ以来、次男が突然起きてくるという症状は無くなりました。あの日、魂に徳を積ませてやりたいと実行に移したことと、症状の治まりが立て合ったことに、神様の深い思召しを感じました。このことを忘れず、将来、子供が自ら徳を積んでいく人生が歩めるように、親として育てさせてもらいたいと思います。 (終)
Fri, 01 Dec 2023 - 339 - 私の推し活
あほう 「あほう」とは一般的には人をののしる言葉で、愚かであることを言い表しています。 天理教では、教祖中山みき様「おやさま」による、「あほうは神ののぞみ」とのお言葉が伝えられています。 これは、こざかしい人間思案を否定する意味において仰せられたお言葉で、どこまでも素直な心、そして「こうまん」のほこりを払った低い心を、神様は望んでおられるということです。 神様の世界と、人間の目に見える世界は違います。時には、神様の思いに沿って生きることが、人から見れば愚かに映ることもあるでしょう。 「世界からあんな阿呆は無い。皆、人にやって了て、後どうするぞいなあ、と言われた日は何ぼ越したやら分からん」(「おさしづ」M32・2・2) これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、中山家の財産を困っている人々に施された、その人間の常識では考えられない行動を指してのお言葉です。教祖は、たとえ世間の人々から非難を受けようとも、神様の思いに沿い切ることが大切であると、身を以てお示しくだされたのです。 また、こんな逸話も残されています。 明治十九年夏、松村吉太郎さんが、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養のあった吉太郎さんの目には、当時お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら感じていました。そんなある時、教祖にお目通りすると、教祖は、 「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」(「教祖伝逸話篇190「この道は」) と仰せになりました。 このお言葉を承った吉太郎さんは、心の底から高慢のさんげをしたと伝えられています。 私の推し活 埼玉県在住 関根 健一 我が家では、家族それぞれに「推し」がいます。推薦するの「推」に送り仮名をつけて「推し」。一般的に、他の人に薦めたいぐらい気に入っている人物や物を指し、好きなアイドルや俳優、ミュージシャンなどを「私の推し」と言ったりします。 2000年代の初め頃から使われているようで、ひと昔前には「追っかけ」などと言われた行為を「推し活」、イチオシのメンバーを「推しメン」と表現することも一般化しています。 次女が中学生になった頃のことでした。あるテレビドラマに夢中になった彼女が、その出演者の中の一人が人気の男性アイドルグループの一員だと知り、そのグループが出るテレビ番組を欠かさず見るようになりました。 気がつくと妻や長女もテレビの前で一緒に楽しむようになり、家族の中で男一人の私は、なんとなく置いてけぼりにされた感じが面白くなかったので、彼女たちが楽しんでいる横で、ちょっと気になったところにツッコミを入れていました。するとニコニコしていた次女の顔が険しくなり、黙って自分の部屋に戻ってしまう…ということが何度かありました。 こちらは軽い気持ちで面白おかしく言っているつもりでしたが、次女にしてみれば自分の好きなアイドルをからかわれて不機嫌になるのも無理はありません。そんなことが続くうちに私も気まずくなってきて、余計なことはしゃべらずに、一緒に番組を観るようになっていきました。 すると、初めはあまり興味もなく退屈な思いをしていましたが、毎日のように観ているうちに、いつの間にか私もそのグループの中の一人を目で追いかけるようになっていました。 ある日次女に、「お父さん、このグループの中なら〇〇くんが推しかも」と言うと、「でしょ?彼はメンバーの中で男性ファンが一番多いんだよ!」と目を輝かせ、彼の経歴やデビュー前の苦労話などを聞かせてくれました。 なるほど、外から批判的に見ているのと、よく分からなくても中に入って見てみるのとでは大違い。彼のことがもっと知りたくなってきました。それ以来、そのグループのライブ映像を観る度に、家族みんなで盛り上がっています。 ある時、仕事で取引先のスタッフと雑談していた時に、アイドルグループのオーディション番組が若い人の間で話題になっていることを知りました。しばらくして、私が普段動画サイトでフォローしている著名人が、その番組について話している動画が目に留まりました。 「注目すべきは、参加者に対してプロデューサーが掛ける言葉だ。パフォーマンスを評価し、それぞれの課題を明確にし反省させた上で、次のチャレンジに向けて気持ちを前向きにさせる。社員や部下に対する声の掛け方として、すべての経営者は学ぶべきだ」と話していたのを聞き、興味が湧いてきた私は、このオーディション番組を観てみることにしました。 最初はプロデューサーの言葉に注目して観ていたのですが、その言葉に応えて努力を重ねながら、着実に成長していく女の子たちの姿にどんどん引き込まれていきました。 「そうか。みんなこうやってハマっていくんだな…」と気づいた時には、私にも一人の「推し」が生まれ、その子が画面に映ると釘付けになっていたのでした。 とは言っても、相手は娘たちと同世代の女の子です。そこにある感情は、思春期の頃にアイドルにハマった疑似恋愛のようなものとは違い、彼女たちの成長を心から応援する気持ちです。それは、甲子園で白球を追いかける球児たちの姿に、「がんばれ!」と無意識に叫ぶ気持ちに近いかもしれません。 最近テレビで、ボーっと生きている大人を叱る「5歳の女の子」が、「人間は『自分はこれでいいんだ!』と思えるから、誰かのファンになる」と教えてくれました。 心理学の専門家の解説によると、人はアイドルや俳優、ミュージシャンなどに対し、そのパフォーマンスやキャラクターを気に入ることでファンになり、さらに共感するファン同士で仲間を作る。すると、自分が好きなものを好きと言える場所の居心地の良さに気づき、自分と同じ感覚の人がいることで「自分はこれでいいんだ!」という心理が芽生える…という仕組みなのだそうです。 言われてみれば確かに、家族と一緒に「好き」を共有するのはもちろん、最近では同じ「好き」を共有する仲間ともSNSでつながることができます。推しを応援する時は、初対面の人と一緒になり、我を忘れて楽しむことができます。まさに、自分が自分のありのままでいられる瞬間です。 それに似た経験で言えば、私自身、中学生の頃に天理教の教会で聞いた、教祖・中山みき様「おやさま」や先人の信仰者の逸話に心ときめいたことが思い出されます。 そのときめきは、多感な時期の私の心に染みわたり、教会に行くたびに本棚にある「教祖物語」「大工の伊蔵」などの漫画を手に取ったり、「けっこう源さん」「船乗り卯之助」などの劇映画も夢中になって見た記憶があります。 特に、大正時代に東京で単独布教を始め、多くの人を信仰に導いた柏木庫治先生の教話集を手にした時は、読み進めながらワクワクが止まらず、まるで冒険ものの小説を読んでいる気分に浸ったことを強烈におぼえています。今思えば、私にとってこれらの先人の信仰者たちが当時の「推し」で、私を信仰の道に引き寄せてくれたように思います。 そんな「推し」に心ときめいていた時期に、信仰について語り合い、共に笑ったり泣いたりして過ごした仲間たちとの時間も、「自分はこれでいいんだ!」と思える大切な時間だったのだと思います。 振り返れば、信仰に目覚めてから教会長をつとめている現在まで、日々、教えに触れ、人に触れる中で、毎月のように奈良県天理市のおぢばに帰って神殿に額ずき、「自分はこれでいいんだ!」と再確認する。そんな人生を送ってきたように思います。信仰生活こそが、私の人生をかけた「推し活」なのかもしれません。 (終)
Fri, 24 Nov 2023
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