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天理教の時間「家族円満」

天理教の時間「家族円満」

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

405 - ゲームは宿題が終わってから!
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  • 405 - ゲームは宿題が終わってから!

    ゲームは宿題が終わってから!  岡山県在住 山﨑 石根 私には子どもが5人いるのですが、この春、小6になった4番目の三男はいわゆる天然キャラで、「おとぼけちゃん」なんです。うっかりした失敗が日常茶飯事なので、しょっちゅう私たち家族に笑いを届けてくれます。また、その反対に怒られてしまうこともしばしばです。 今年の夏休みのことです。我が家には、「夏休みの宿題を全部終わらせたら、ゲームをしてよい」というルールがあります。少し厳しいようですが、2年前の8月末に、大量に残っている宿題に深夜まで付き合わされた妻が下した鬼のミッションなのです。 今年も皆、7月中に宿題を終わらせようと一生懸命頑張りました。特に小6の三男と小4の妹は、7月末に4日間、母方の祖父母の家に泊まりに行き、「この期間に全部終わらせる」と意気込んでいました。 ところが、祖父母の家から戻った時に事件は起こったのです。仕事から帰った私が、ゲームをしている三男を見て、「宿題終わったんか?」と尋ねると、「全部終わった」と言います。「じゃあ、見せてごらん」と言うと、「妹に確認してもらった」と言い、なかなか見せようとしません。ゲームに夢中だからです。 しかし、ここは退いてはダメな場面だと思い、きちんとチェックしようとすると、一つの宿題が見当たりません。それは「サマー32」という冊子で、国語・算数・理科・社会・英語のすべての教科を網羅したメインの宿題です。 「サマー32が無いやんか」 「だから、それも妹に確認してもらったってば」 押し問答は続きます。 祖父母の家に忘れていないか尋ねたり、あちこちの部屋を探したりしたのですが見つかりません。そこで私が彼の旅行かばんをのぞくと、ついに「サマー32」が現れました。ところがその冊子の中身は、何と7割ぐらいが白紙の状態だったのです。 「ほら、やってへんやないか!」 私も驚きましたが、あろうことか三男も目が点になっているのです。 「いいや、僕は絶対全部やった」 「でも、ここに出来てない宿題があるやんか」 「だから、全部やって、妹にも確認してもらったんだって」 「確認、確認言うても、目の前に終わってない宿題があるやないか」 「だから、おじいちゃんのうちで全部やったんだってば!」 再びの押し問答、もはや『世にも奇妙な物語』のようです。実際に目の前に出来ていない宿題があるのに、なぜそれを認めず、「やった」と言い張るのか…。 もやもやの晴れないまま迎えた夕食の席で、衝撃の事実が判明します。妹が、「お兄ちゃんがやってた宿題は、私の分で!」と打ち明けたのです。何と三男が仕上げた宿題は、小4の妹の「サマー32」だったのです。 椅子から転げ落ちそうなくらい皆でズッコケましたが、三男にしてみたら笑い事ではありません。うっかりもここまでくると、不注意以外の何ものでもないのです。 さらに、妻からとどめの一言が続きました。 「ほら~、やっぱり!」 実はこの「やっぱり」には、ものすごい重みがあるのです。 これは私たち夫婦のさんげ話にもなりますが、彼が小4の時の担任の先生から、三学期の終わりに次のようなことを言われました。 「息子さんは、一年間、宿題のドリルをほとんどしませんでしたよ」 本人の「宿題はもう終わった」というセリフを真に受け、忙しさを理由に確認を怠っていたのは私たちです。妻は彼が小5になってからも、「ドリルは一生ものだから、いつやっても遅いことはない。小4のドリル、今からでもやりねえ」と再三にわたって促していたのですが、彼は全くやらなかったのです。 その上での、妻からの一言。 「ほらね。やっぱり、小4の宿題を、こういう形ででもやらなあかんようになってたんやで。神様は見抜き見通しなんやから!」 この妻の的を射た一言に、三男は泣きっ面に蜂で、ぐうの音も出ませんでした。 『天理教教典』では、「善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」と、厳然たる因果律の存在が述べられており、これを「いんねん」と教えて頂きます。 もちろん、天理教でいう「いんねん」は、世にいう因果応報とは違い、その奥に、神様が人間を陽気ぐらしへ導こうとされる親心があることを忘れてはなりません。このことを、亡き私の恩師は「神様からの宿題」という言葉で分かりやすく教えて下さいました。 自分や自分の周りに辛いことや苦しいこと、都合の悪いことが起こってくると、私たちはどうしても「何でこんな目に…」と後ろ向きな考えに陥ってしまいます。しかし、そこを「これは神様からの宿題なんだ」と考え直すことが出来れば、「宿題なら後回しにしてはならないし、必ずやり遂げられるからこそ与えてくださったのだ」と、立ち向かう勇気が湧いてきそうです。 神様は人間をお創り下された親ですから、親ならばこそ、この宿題を通して成長させたいという期待が込められているのかも知れません。私はこの「神様からの宿題」という言葉が好きで、常々よく用いていたので、今回の三男の宿題事件を「絶妙の親心だなあ」と感じました。 さて、三男は翌日、本来やるべき「サマー32」を、何と一日で完成させました。やったら出来る子なんです。 反対に、「私の宿題、お兄ちゃんが勝手にやってくれた。しめしめ」と思っている妹にも、いつか「神様からの宿題」が出されるでしょう。いつになるのかは分かりませんが、彼女もきっと乗り越えてくれると信じています。 まだあるならバわしもゆこ この教えが広まり始めた江戸時代、建物の普請が行われる時は、その規模に応じて人足、いわゆる労働者が募集され、人々はすきやモッコを各自で持参し、土を掘り起こして運搬するその労働の対価として報酬を得ていました。 そのような時代、教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の中で、信仰実践としての「ひのきしん」の形を、お言葉と手振りによって分かりやすく教えられています。 みれバせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん(十一下り目 三ッ) よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる(十一下り目 四ッ) いついつまでもつちもちや まだあるならバわしもゆこ(十一下り目 五ッ) おそらく、当時の人々は、「もつこになうてひのきしん」と聞いて、すぐに普請現場で土持ちをする様子を思い浮かべたはずです。そしてその行為が、対価を得るためではなく、神様の報恩感謝の行いなのだと心が切り替わった時、それがすなわち「ひのきしん」なのだと教えられたわけです。 ひのきしんとは、欲を忘れて行うものであり、互いにたすけ合う生活につながる行いです。それは形にとらわれることのない、いわば「心のふしん」であり、はた目には地味な作業で、すぐには成果の見えにくいものです。しかし、土持ちが普請における大切な土台作りであるように、ひのきしんは、私たち一人ひとりの人生にとっても、かけがえのない土台作りとなるのです。 ゆえに、ひのきしんとは、お言葉通り「いついつまでも」心掛けるべきものです。「私は若い時に十分やったから、もういいだろう」などと思うことなく、「まだあるならバわしもゆこ」と、自ら率先して勇み立ち、幾つになってもさせてもらうのだという、その気持ちこそが大切なのです。 教祖は、それを自らの行いによって示されました。こんな逸話が残されています。 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、「私も手伝いましょう」と教祖自らお出ましになることがよくありました。 ある年の初夏のこと。カンカンと照りつけるお日様の下で、数人が汗ばみながら麦かちをしていると、教祖がやって来られ、手ぬぐいを姉さん冠りにして、皆と一緒に麦かちをなさいました。 それは、どう見ても八十を超えられたとは思えぬお元気さで、若い者と少しも変わらぬお仕事ぶりに、皆は感嘆の思いをこめて拝見したのでした。(教祖伝逸話篇70「麦かち」) (終)

    Fri, 15 Nov 2024
  • 404 - 知ることからはじめてみませんか?

    知ることからはじめてみませんか? 埼玉県在住 関根 健一 先日、行きつけの酒屋さんで買い物をした時のこと。会計をしようとレジに行くと、店主から「Hさんから関根さんに渡してくださいと預かったよ」と、小さな包みを渡されました。開けてみると、酒の肴になりそうな、ちょっとしたおつまみでした。 こちらの店主は、私より一回り以上年上の方ですが、20年近くのお付き合いになります。客として通ううちに意気投合し、お酒のことを教えてもらったり、イベントのお手伝いをしたり、仕事の悩みの相談にも乗ってもらう兄貴分のような存在です。 先日、酒蔵での仕込み体験イベントが開催され、私も店主のサポート役としてお手伝いをしたのですが、その時に夫婦で参加していたのがHさんでした。 Hさんは足に障害があって、「補装具」と呼ばれる足の機能を補完する特殊な靴を履いています。あまり馴染みのない方は気づかないかもしれませんが、私は障害のある娘と共に生活する中で、様々な補装具を見てきた経験があるので、Hさんに初めてお会いした時から、不便なことはないか、さりげなく気にかけるようになっていました。  酒蔵での仕込み体験イベントでは、蒸したお米を「放冷機」という機械に通して冷まし、出てきたものをタンクに入れたり、お酒の元となる「もろみ」を袋詰めして絞りにかけるなどの作業を、蔵人と呼ばれる職人さんの指導を受けながら行います。 周囲の配慮もあって、ある程度のことは一緒に体験できたHさんでしたが、タンクの中で発酵しているお酒を見るには階段を上がらなければならず、その時は下で待つことになりました。 ご本人にとっては、足に障害があるので、階段を上がれないのは当たり前なのかも知れませんが、障害があることで諦めてしまうことを、出来るだけ増やしたくないという私なりの思いがあります。そこで、皆が階段の上で見ている資料などを出来る限りHさんの所に運んで、少しでも同じ体験に近づくようにお手伝いをしました。 そのことをHさん夫妻はとても喜んでくれたようで、そのお礼に酒屋さんを通じて、おつまみを届けてくれたとのことでした。 私にしてみれば、極々当たり前のことをしたまでです。「お礼なんてして頂くほどのことではないのに…」とも思うのですが、当日も別れる間際まで「ありがとうございました」と、ご夫婦で繰り返しお礼をして下さったことなどを思い返すと、日頃周囲で同じように対応してくれる人はあまりいないのかもしれません。 私は時々、障害者の暮らしについて話して欲しいと、講演依頼を受けることがあります。その場合、比較的障害者と接することが少ない方が対象の時は、「世の中には、意識的に障害者を差別する人よりも、ただ単に実態を知らない人の方が圧倒的に多い」ということを強調して話すようにしています。 街中には、障害者にとって障壁となるものや、不便なものが数多く見受けられます。しかし、私も娘が生まれるまでは、それらを何気なく通り過ぎていたのであって、娘を連れて歩いて初めて、その障壁の多さにびっくりしたものです。 今でこそ障害者の家族として、SNSを使って情報発信などもしている私ですが、娘が生まれるまでは無関心だったことを思うと、まだ気づくチャンスが訪れていない人に対して、「差別的だ」などと一方的に断じることは憚られます。大切なのは、気づくチャンスが一人でも多くの人に訪れるような社会を作ることだと思います。 そうした視点で見ると、生まれた時からお姉ちゃんが障害者という環境にある次女の行動には、多くのことを教えられます。 例えば幼稚園の頃、娘たちの大好きなお菓子を買ってきて、姉妹でどっちを選ぶかを聞きました。すると次女が、「ジャンケンで決めよう!」と提案します。手でグー・チョキ・パーを出せない長女と、どうやってジャンケンをするのか…?と観察していると、「ジャンケン、ポン!」の掛け声で長女が「グー!」と口で言うのと同時に、次女は背中の後ろで「チョキ」を出し、長女の掛け声を確認してから手を前に出します。妻と私はビックリ! いつの間にか、とても理に適ったやり方を編み出していたのです。 幼稚園でジャンケンを覚えたのに、お姉ちゃんとは友達と同じようにジャンケンができない。でも、好きなお菓子を選ぶ時は平等に決めたい。そのような状況を次女なりに考えた結果、私や妻には思いもつかない方法に行き着いたのです。それ以来、長女を交えてジャンケンをする時には、この方法で仲良く競っています。 他にも、幼い頃から次女の発想には、驚かされることがたくさんありました。やはり、まずは障害者のことを「知る」ことが大切なのだと思います。 では、家族に障害のある人がいない人には知る機会がないのか?と言うと、そうではありません。 皆さんのお近くにある特別支援学校や障害福祉作業所は、「地域とのつながり」を求めています。いつしか「都会では、隣に住んでいる人の顔も分からなくなっている」などと言われるようになりましたが、自分一人で気軽に外 に出かけることが難しい障害者にとっては、都会に限らずこうした状況にあることも少なくありません。障害者がその人らしく自立して生きていくためには、地域との関わりは必要不可欠です。 まずは、「知ること」「関わること」からはじめてみませんか? 自分一人で この教えでは、この世界と人間を創造された親神様と私たちの関係を、親子の関係であると示されています。私たち一人ひとりは、親神様と直接に親子の関係でつながっているのであり、ゆえに、私たち人間は、皆がお互いに等しく親神様を「をや」と仰ぐ「一れつきょうだい」なのです。 しかし現実には、私たちは日常、夫婦、親子、兄弟姉妹というつながりの中で家族として暮らしています。教祖・中山みき様「おやさま」は、その家族の日常における心のあり方について、次のように仰せられています。 一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよ (五 5) このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい (五 7) をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで (五 8) たとえ一つ屋根の下で暮らす夫婦、親子であれ、また血を分けた兄弟姉妹といえども、心は一人ひとり皆違うということです。 これについては、別のお言葉でも、 「さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うた処が、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも」(M23・8・9) と諭されています。 教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々がニ、三人連れを誘って行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、なおその上に「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いとも懇ろにお仕込み下されたのです。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」) この教祖の逸話がお示しくださるのは、心が皆違うのであれば、信仰も一名一人限りである、ということです。この信仰は、決して義理やお付き合いでするものではなく、お話の取り次ぎは一対一が基本であり、一人ひとりが自主的に道を求める姿勢こそ大切であるとお諭しくだされているのです。 何より有難いのは、真実に聞かせて頂こうとする者には、「何んでも、分からんことがあれば、お尋ね」と、こちらが得心するまでお話しくださる教祖の親心。こちらが真実の心で運べば、教祖は必ず応えてくださるのです。 (終)

    Fri, 08 Nov 2024
  • 403 - 同居の恩恵

    同居の恩恵 兵庫県在住 旭 和世 「ばあばちゃ~ん!これ直して~」 おもちゃを壊してしまった時、うちの子たちは私の前をスルーして、すぐ母の所に持っていきます。宿題で分からない所があると、「じいじ~宿題おしえて~」と、父の所に飛んでいきます。 食べたい夕食のメニューがある時も、うちの子は迷いなく「ばあばちゃ~ん、今日ハンバーグ食べた~い」と母におねだりに行きます。娘に「どんな人が好みのタイプなの?」と聞くと、すかさず「じいじみたいな優しい人がいい~!」と言います。 子供たちは本当に正直です。この子たちの親はいったい何しとるねん!と、つっこまれそうですが、そうやってじいじ、ばあばに甘えられる子供たちを見て、心からありがたいと思うのです。 私は教会の後継者である主人と恋愛結婚し、主人の両親やきょうだい達と教会で同居することになりました。深く考えることもなく、そんなものだと思って嫁いできました。 でも良く考えてみると、主人は自分が選んだ相手ですが、両親までは選べません。きょうだいもしかり。どんな人と家族になるかは、ある種くじ引きみたいなものです。よく、そんな賭け事みたいな人生におそれることなく、のん気にやってきたものだと、今となっては笑えてきます。 ただ、自分も教会で育ち、幼い頃から神様のお話を通じて心の使い方などを教えられてきたので、きっと、同じ教会なら価値観や考え方も似ているだろうと信じていました。 嫁いですぐに馴染めたかと言われたら、もちろんそんなことはありません。最初は緊張したり、気もつかったり、多少のカルチャーショックも受けつつ、じわじわと慣れてきたように思います。その一方で、両親や周りの方はそれ以上に、私に気をつかってくれていただろうと思うのです。 ママ友からよく言われます。「え~、旦那さんの両親と同居してるの? うわ~、大変だね~。私は無理だわ~」 主人の家族と同居するのは、私の住む地域ではとても珍しいことなのだと、周りのママ友を見て気がつきました。私は実家でも祖父母が一緒に住んでいたこともあり、特に抵抗がなかったので、こんなにもびっくりされるということに、まず驚きました。でも実際一緒に住んでみると、良い面がたくさんあるということに年々気がついてきました。 現代では出産を機に、環境の変化や子育ての不安などにより、「産後うつ」を発症するママさんがたくさんおられると聞きます。きっと、理想とかけ離れた育児の現実に戸惑い、その悩みを誰にも相談することができず、一人で抱えている方が多いのではないかと察しています。 その点で言うと、もし両親と同居していれば、育児の先輩がすぐそこにいてくれて、アドバイスをもらったり、長年の知恵を授けてもらうこともできます。 今はネット上に情報があふれ、育児書も充実しているので、ひと昔前の情報が古臭いと感じることがあるかもしれません。でも、経験者がそばにいる心強さと、まったく目が離せない時期にちょっと見てくれる人がいる安心感、それだけでも産後の不安はかなり解消されると思います。 私自身は、子供が大きくなるにつれて、益々親のありがたさに気がつきました。若い頃、甥っ子や姪っ子の面倒を見ていた時は、可愛いばかりで怒る必要はなかったのですが、我が子となると責任を感じてしまい、ちゃんと育てないと!とか、人の迷惑にならないように躾けないと!などなど、妙に力が入ってしまいます。そして、気がつけば必要以上にガミガミ言っている自分がいて、「こんな怖いママになるつもりはなかったのに…」と、我が子の可愛い寝顔を見て後悔することもしばしば。 でも、子供たちにとれば、私がガミガミ言っていても、隣りでじいじやばあばが笑ってフォローしてくれたり慰めたりしてくれるので、それが救いになっているようでありがたく思っています。 ややもすると、我が子を自分の分身のように考え、こちらの思う通りに育てたいと思いがちだけど、親がそばにいてくれるおかげで、子供は一人の人間として「個」を持つ存在であり、その個を大切にしなければならないと思えるようになりました。 同居したら気苦労が増える。そう思う人もいるでしょう。たしかにそうかも知れませんが、ある先輩の先生がこう言われました。「その気苦労がとても良いんです」と。 気苦労=悪いこと、ストレスになること。私もそんな負のイメージしか持っていませんでした。しかし、その先生の言葉を聞いて、周囲の人に気を配ってお互いに気持ちよく過ごせるように工夫したり、言葉をかけ合う姿を映すことが、子供たちの将来にとって、とてもいいことなのではないかと考えるようになりました。彼らが社会に出て家庭を持った時、自然にその気づかいができるようになっていたら、これほど嬉しいことはありません。それは、私たち親が子供たちに手渡すことの出来る心の財産だと思います。 思い返せば、私自身も教会で生まれ育ち、祖父母や住み込みさんと一緒に暮らし、教会に出入りしているたくさんの方々の中で育ててもらいました。その中で両親が皆さんに心を配っている姿や、自分たちの時間を惜しまず、祖父母の世話をしたり、信者さんの悩みを聞いたり、おたすけに出向く姿を間近に見られたことが、今では心の財産になっているとつくづく感じています。 「おふでさき」に、 せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43) とあります。 世界中のみんながきょうだいならば、一緒に暮らす家族や身近な人はきょうだいの中のきょうだい。本当に、何十億分の一の確率の、奇跡ともいえる巡り合わせです。 両親と同居できたおかげで、親がそばにいる安心感と恩恵を頂いているのだから、今度はその恩恵にご恩返しをさせてもらえる自分になりたい!と思いつつ、まだまだ両親に甘えっぱなしの毎日です。 だけど有難い「食べる順番」 食事をするとき、好きなものを先に食べるでしょうか。それとも、あとで味わって食べるでしょうか。特に極端な好き嫌いがなくても、人によって、なんとなく箸の出し方の違いというものがあるように思います。 数日前、家族そろって食事をすることがありましたので、皆に聞いてみたところ、娘二人は「好きなものは、あとで味わって食べる」と答えました。妻は「一番美味しいと思うものをまず食べて、残っているなかで一番好きなものを次に食べる。そうしていったら全部好きなものだから楽しい」ということでした。 では、教祖はどうかといいますと、『稿本天理教教祖伝逸話篇』のなかに「柿選び」というお話があります。柿がたくさん載ったお盆を教祖の御前にお出ししたところ、教祖はその柿を、あちらから、こちらからと、いろいろと眺めておられました。やはり、教祖もお選びになるのだなと思っていますと、そのなかから、一番悪いと思われる柿をお選びになった。人に美味しい柿を食べさせてやろうとの親心なのです。教祖もお選びになるが、私たちとは選び方が違うのです。 私たちはそのようには、なかなかできないと思うかもしれませんが、わが子にはどうでしょう。私の妻も、子供が小さいときは、子供が残したものを綺麗に食べていました。美味しいものを自分が先に食べてしまうのではなく、子供に先に食べさせ、残ったものを食べていたのです。誰でもそうではないでしょうか。子供に対してはできるのです。では、子供だけかというと、そうではありません。夫や妻にしている方もあると思います。恋人、親友、またお世話になった人にもそうではないでしょうか。つまり、大好きな人にはできるのです。 こうしてみると、私たちも意外と教祖のように心を働かせているのです。ひょっとすると、原始時代、人間が一番初めにした親切は、人に食べ物を分け与えたことではないでしょうか。食べ物を人に譲ろうという気持ちから、私たちの人を喜ばせたいという感情が始まったのかもしれません。 人間の値打ちは、そうして「人に喜んでもらいたい」と考えられるところにあると思います。 喜んでもらいたい対象には、もちろん親も入っています。自分を産み育ててくれた親に、ご馳走したいなどと考えます。誕生日のプレゼントを贈るのに、親に毎月仕送りをしているからといって、そこからプレゼントの代金を差し引く人はいないでしょう。 私は、教祖の年祭活動のつとめ方というのも、この心だと思うのです。をやに対する日ごろの感謝に加えて、さらに喜んでいただく行動を取るのです。をやは子供を喜ばせたい思いで、お土産をたくさん用意してお待ちくださるに違いないのです。その親元へ、一番お喜びくださる「人をたすける」心と態度をもって帰るのです。 教祖年祭の元一日は、実は誕生日ではありません。教祖が現身をかくされた日です。ということは、親に喜んでもらいたいという心でつとめるのではありますが、それは誕生日に使う心ではなく、むしろ、親が危ういときに使う心だと思います。なんとしても親に喜んでいただきたいという、仕切った心でやりきらせていただくことが大切です。 共々に、できるだけ多くの人に声を掛け、病気や事情に苦しむ人にご守護の喜びを味わっていただけるよう、仕切ってつとめさせていただきましょう。 (終)

    Fri, 01 Nov 2024
  • 402 - 神様の大作戦(後編)

    神様の大作戦(後編) 助産師 目黒 和加子 臍帯剪刀を手にしたこの日は、奇しくもおさづけの理を戴いたあの日と同じ7月17日だったのです。 「これって偶然? 教祖に助産師になってみせるって言うたけど、もしかしてなるように仕向けられてるの?」 神様が練った作戦に気づき始めたのです。 私が目指したのは、新潟大学医療短大助産専攻科です。入試の2ヵ月前、腰の激痛で椅子に座れなくなり、近所の整形外科を受診、腰椎椎間板ヘルニアと診断されました。 新潟大学を受験することを、院長の南先生に伝えると、「僕は30歳の時に造船会社をリストラされて、一念発起して医学部を受験して36歳で医者になったんや。34歳で受験か。新潟に行けるよう全力で応援するで」と、嬉しいお言葉。 痛みを抑えるため、飲み薬だけでなく神経ブロック注射も受けましたが、効果は今ひとつ。これでは飛行機に乗れません。すると南先生は、私が搭乗予定の日本エアシステムに、「人生をかけた34歳での受験なんです。3人席の肘掛けを上げて、横にしてフライトしてもらえないでしょうか」と、手紙を書いてくださったのです。 日本エアシステムからの返事は、「離陸と着陸の時は座ってもらい、それ以外は希望通りになるよう配慮します」とのこと。なんとまあ、こんなことがあるのでしょうか。私はこうして、ひどい腰痛を抱えたまま新潟大学を受験することができたのです。 入試が終わり、帰りの飛行機での出来事。満席のため、行きと違いどうしても座らなければならず、痛み止めの座薬を入れて飛行機に乗り込みました。客室乗務員さんがひざ掛けを丸めて腰に当ててくれるのですが、効果がなく冷や汗が出てきます。 すると、隣りに座っていたおじさんが、「どうしたの? 腰が痛いの?」と心配そうに声を掛けてきました。「はい、腰椎にヘルニアがありまして…」と答えると、「ワシも30年前からヘルニア持ちなんや。おっちゃんに任しとき!」と言って、客室乗務員さんにひざ掛けを何枚か持って来させ、それを私の背中と椅子の間にぎゅうぎゅうに詰め込み、がっちり固定。すると、痛みが引いたのです。 驚いた顔の私に、おじさんは「腰のヘルニアは治ることはないけど、上手に付き合えるで。大丈夫やで」と、笑顔で励ましてくれました。 石田病院に勤めて数カ月後、看護師のなっちゃんから電話がありました。なっちゃんは看護師として勤務しながら、助産師学校の合格を目指して予備校に通っていたのですが、突然、「私、結婚するから助産師目指すのやめるわ」と言うのです。 「せやから、和加ちゃんに予備校の教材全部あげるわ。高かってんで、がんばりや!」なんと、教材をタダで手に入れてしまいました。 「よし、これで学科試験は何とかなる。問題は小論文や」 今でこそ、こうして原稿を執筆していますが、その当時は小学生の作文のような文章しか書けなかったのです。早速、予備校の通信教育小論文コースで指導を受けることにしました。 予備校の先生から課題をもらい、小論文を書いて提出するのですが、毎回戻ってくる原稿用紙は、赤ペンの修正だらけ。 9月に送られてきた課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」。9月半ばに小論文を提出し、添削指導が戻ってきたのは10月初旬でした。 封筒を開けてビックリ! 新しい原稿用紙に万年筆で書かれた模範解答が入っていたのです。おそらく、修正箇所が多すぎて真っ赤っかになったので、一から書いてくださったのでしょう。 「すごい! さすが赤ペン先生、めちゃめちゃ上手いわ。なんて素晴らしいお手本なんや」 次の日からその模範解答をかばんに入れ、通勤電車の中で黙読を続け、1カ月後には暗記できるようになりました。この模範解答の暗記が、入試で効いてくるのです。 推薦入試の受験日は11月末。定員は20名ですが、そのうち推薦入試の枠は、たったの5名。私の受験番号は2番なので、何人受験するのか検討がつきません。 いよいよ受験当日。新潟大学の試験会場に行ってびっくり! なんと80名を超える受験生がいるではありませんか。競争倍率16倍の超狭き門です。 「これは絶対に無理やで…」がっくりモードで学科試験が終了。次は小論文の試験ですが、ここで信じられないことが起こります。 出された小論文のテーマは、「我が国における高齢者への看護の課題と将来」 あれ? これって? まさか……。 リスナーの皆さん、お気づきでしょうか。赤ペン先生が模範解答を送ってくださった小論文の課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」でしたよね。そうなんです。表現が違うだけで、同じことを求めている問題だったのです。体中に鳥肌が立ちました。 夢中で暗記していた赤ペン先生の模範解答を書き終えましたが、体の震えが止まりません。 〝自分の力や意志と違う。助産師になるように仕組まれてる。きっと合格させられる!〟 結果は、予想通り、合格。入学してすぐ、担当教授から「あなたの小論文、素晴らしかったわ」とお褒めの言葉をいただきました。そうでしょうとも…。 会ったことのない赤ペン先生に、心から感謝申し上げました。 助産専攻科の卒業間近、風邪から副鼻腔炎を再発。急性増悪して新潟大学病院で診察を受けた時のことです。蝶形骨洞のCTを撮ると、それを観た耳鼻科医の顔色が変わりました。 「あなたの蝶形骨洞の骨は本当にペラペラです。また手術しないといけなくなっても、僕には無理です。恐くて触れません。すぐに点滴で炎症を抑えましょう」 さらにドクターは、もう一度CTフィルムをジーッと観て、「骨まで溶かす炎症だったのに、どうして蝶形骨洞内を走る視神経がやられなかったんでしょう。人間の身体の中で一番硬いのは骨ですから、視神経がダメージを受けずに失明しなかったのは奇跡ですね」と目を丸くして言いました。 点滴を受けながら、この十数年間に起こった出来事を振り返りました。 〝17歳でおさづけの理を戴いて、23歳で結婚して修養科に行って、離婚して、看護師になったのに病気になって、治療を失敗されて、クビになって、自殺を目撃して、教祖に「助産師になってみせる」なんて生意気に言い放って。 助産師になると決めてからは、あちこちでたすけてくれる人に出会った。耳鼻科の内田先生、整形外科の南先生、日本エアシステムさんのご配慮、帰りの飛行機で隣り合ったヘルニアのおじさん、赤ペン先生…。 そうか、すべては私を助産師にするためやったんか。だから、視神経が守られて、失明せえへんかったんや〟。 こういう経緯で助産師になったのですが、「なった」というより「ならされた」という方がピッタリですよね。あれから28年。何度か副鼻腔炎を再発しつつも、脳炎にはならず現在に至っています。 神様の大作戦は、「私を助産師にすること」でした。では、助産師にして何をさせたいのでしょう。それこそが、神様の真の目的ですよね。 私は今年で還暦となりますが、今も助産師にさせられた真の目的を考え続けている道中です。いつか、「なるほど、こういうことなのね」と、神様の思いが分かる日が来ると信じています。 神にもたれる 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、「なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」とあります。 「神にもたれる」という表現は、その他のお言葉にもしばしば出てきますが、どのような意味を表しているのでしょう。 「もたれる」とは、何かに依存したり、頼ったりと、受動的な態度のようにも思えますが、ここでは決してそのようなことを意味しません。神様にもたれるには、目に見えないものに対する心の中の不安や疑念を払拭しなければならないのですから、相当の勇気が必要になります。 教祖は、直筆による「おふでさき」で、 これからハどんな事でも月日にハ もたれつかねばならん事やで (十一 37) これからハ月日ゆう事なに事も そむかんよふに神にもたれよ (十三 68) と記され、狭い人間思案を捨て、目先のことにとらわれず、神様に決して背くことなくもたれ切って通るようにとお諭しくださいます。 そして、「天の理に凭れてするなら、怖わき危なきは無い」(M23・6・29)と私たちを励ましてくださいます。 しかし、そのような思いに沿えない私たちに、神様は時として身体にしるしをお見せ下さいます。 めへ/\のみのうちよりもしやんして 心さだめて神にもたれよ (四 43) みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ (五 10) 「かみにもたれてゆきまする」とは、人間の知恵や力で捉えられる範囲を超えて、一切を神様にお任せします、との決意表明と言えます。自己中心的な欲の心を離れ、神様にもたれ切る時、そこに真実のご守護の姿が表れるのです。 (終)

    Fri, 25 Oct 2024
  • 401 - 神様の大作戦(中編)

    神様の大作戦(中編) 助産師 目黒 和加子 気温30℃を超える7月の真夏日、神様に文句を言おうと自宅を出ました。京阪電車の萱島駅に着き、4番線に止まっている準急に乗り込むと、「3番線を特急が通過します。しばらくお待ちください」と、車内アナウンスが聞こえてきました。 〝もし脳炎になったら、特急に飛び込んで死のう〟そんなことを考えながら3番線を眺めていると、目に入ったのは青いジャンパーを着た男性。すると、その男性は突然走り出し、特急に飛び込んだのです。特急電車は金属音を立てて急停車。 人の死を間近で目撃し、頭を金槌で殴られたような衝撃が走りました。 〝神様に見せられた! 私がしようとしたことは、どういうことなのか見なければいけない〟 急いで準急から降り、3番線側に向かうと何かにつまずきました。それは、男性の腕の一部でした。ちぎれた青いジャンパーに親指だけがついていました。周囲を見回すと足首、頭の一部、肉片が飛び散り、見るも無残な状態。 〝あかん! こんなことしたら絶対あかん。こんな姿、親に見せられへん…。じゃあ、どうしたらええの? どう生きればいいのよ!〟 頭の中が混乱したまま、おぢばに到着。神殿に駆け上がり、賽銭箱にお供えを思いっきり投げつけて、「神様、看護師になってこれからという時に何でですか! 全然喜べません! でも、なにか意味があるんですよね? 人間の親やったら、その意味を教えてください!」 かんろだいを睨みつけ、怒りをぶつけました。それでも怒りは収まらず、阿修羅のような形相で回廊を歩いていると、鼻からドッと出血し、マスクは血だらけ。すれ違う人はギョッとした顔で固まっています。 教祖の御前に座ると、涙がこぼれてきました。当たり前のことですが〝人間は必ず死ぬ。人生には限りがある〟と痛感したのです。 そして、今、この病気で出直すとしたら何を後悔するか思案を巡らせると、真っ先に心に浮かんだのは、看護学校の実習で見学したお産の現場でした。 「お産ってスゴイ! 助産師さんってスゴイ! 素晴らしい仕事や!」と心が震えました。担任の先生に「助産師を目指したら?」と勧められましたが、これほど責任の重い仕事は無理だと諦めていたのです。 しかし、死がちらつく重い病気になり、考えが変わりました。今世で後悔を残さないためにどうすればいいのか。私は教祖に、「このままでは終われません。助産師になってからでないと死ねない。何としてでも助産師になってみせます!」と言い放ったのです。 神様に向かってなんとまあ、高慢ちきなことですよね。でもこれは、真っ直ぐで気の強い、私の性格を見抜いていた親神様と教祖の巧妙な作戦だったのです。もちろん、この時はまったく気づいていません。 鼻から血を流しながらおぢばに帰った翌日、西宮市にある所属教会に行きました。死を意識し、「今世最後の参拝になるかも…」と覚悟を決め、貯金を全部お供えしました。若い頃からお世話になっている親奥さんに病気のことを話すと、おさづけを取り次いでくださいました。 そして、「明日は上級の中央大教会の月次祭よ。このお供えを今すぐ速達で送ると祭典に間に合うから」と、郵便局に連れて行かれました。 暗い気持ちで座っていると、親奥さんが「和加ちゃん、神様がたすけてくださるから大丈夫よ」と笑顔で言うのです。〝なんで大丈夫と言い切れるんやろう?〟疑問に思いながら郵便局を後にしたのですが、ここから運命の歯車が動き出すのです。 教会からの帰り、クビになった病院に置いてある私物を取りに行きました。ナースステーションの入り口で、「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げましたが、誰も仕事の手を止めてくれません。 この病院では、中途退職者が出ても年度が変わる4月までは欠員補充がありません。〝あなたが辞めたせいで、来年の3月末まで大変な思いをしないといけないのよ〟という雰囲気が漂っていました。退職の理由が病気であってもです。看護部長室にも伺いましたが、会ってもいただけません。 惨めな気持ちで通用口を出ると、「みかぐらうた」が聞こえてきました。病院の隣りは天理教の教会なのです。おうたが心に沁み、泣けてきました。涙が鼻腔へ流れ、手術の傷跡がジンジン痛みます。 「崖っぷちやけど、まだ生かしてもらってる」と自分に言い聞かせ、駅への道をとぼとぼ歩きました。 病院からの帰り、大学病院を紹介してくださった内田耳鼻科に退院したことを伝えに行きました。 院長の内田先生に、大学病院でヤミックが失敗し、ひどい蝶形骨洞炎になったこと。骨も溶け、脳炎になる可能性があること。仕事を辞めたこと。人生は一度しかないと痛感し、助産師を目指そうと思っていることなどを伝えると、 「あんた、うちに勤めなさい。ここは耳鼻科やから、いつでも診てあげられる。そうしなさい。来週からおいで。」 なんと、私を雇ってくださるというのです。  〝ありがたいけど、看護師の募集をしてないのに、ご迷惑になるんとちゃうかな〟と戸惑っていると、それを察した先生は、「ワシ、3年前に胃がんの手術した時に色々あってな。あんたの気持ち、ようわかるんや。来年の3月までということで、どや!」 これまた、よく分からないまま内田耳鼻科に勤務することになったのです。 これは一体何なんでしょう? 一方ではクビになり、もう一方では雇ってくださる。「捨てる神あれば拾う神あり」とでもいうのでしょうか。しかも職場が耳鼻科というのは、退院後も経過観察が必要な私にとって最高の環境です。 急降下に急上昇、まるでジェットコースターに乗っているよう…。この日を境に、自分の考えや意志以外のところで、物事が動き始めたのです。 内田耳鼻科で診てもらいながら、3月末まで働かせていただき、4月から助産師になるための第一歩として産科専門の石田病院に転職しました。 石田病院はこの地域で最も分娩件数が多く、入職して3カ月が経っても、いっぱいいっぱいの毎日。忙しすぎて助産師学校へ進学する気力を失いかけていた頃、神様が練った作戦に気づきかけた出来事がありました。 お産の終わった分娩室で片付けをしていると、ベテラン助産師の大石さんが分娩セットの中から一個のハサミを取り出しました。 「このハサミは臍帯剪刀といって、へその緒を切る専用のハサミよ。へその緒は、ところてんみたいにツルツルしてるから、集中して切るためにわざと切れ味を鈍くしてあるの。先端だけを使って2、3回で切断するの。刃先が丸くて上に反っているのは、へその緒を切る時に赤ちゃんのお腹の皮膚を傷つけないようにするため。助産師だけが使う特別なハサミよ。ほら、よく見てごらん」 手渡された臍帯剪刀を見て、ハッと思い出したことがあります。 私がおさづけの理を拝戴したのは、昭和57年7月17日、17歳の時。拝戴直後、教祖殿で待っていた所属教会の間瀬弘行 前会長さんが、「和加ちゃんは、数字の〝7〟に縁があるなあ。7というのは『たいしょく天さん』のお働きで〝切る〟ということや。上手に切ることも神様の大切なお働きやで。だから、将来はハサミを使う仕事をしなさい」 高校生だった私は、素直に「はい」とうなずきました。 〝そうや、あの時、前会長さんの言わはったハサミって、この臍帯剪刀のことや!〟 さらに、壁に掛けてあるカレンダーを見て息をのみました。 「今日って、あの日と同じ7月17日やんか!」 怒涛の展開はまだまだ続きます。来週の後編をお楽しみに! 「ひのきしん」で胸の掃除を 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、 せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ (三 52) と記され、陽気ぐらしへ向けた各自の胸の掃除は、神様の教えを箒としてなされるのだとお諭しくださいます。その第一の方法として教えられるのが、生かされていることへの報恩感謝の行いである「ひのきしん」です。 教祖は「みかぐらうた」の中の、特に十一下り目において、ひのきしんについて詳しく教えられています。 ふうふそろうてひのきしん これがだいゝちものだねや よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる いつ/\までもつちもちや まだあるならバわしもゆこ むりにとめるやないほどに こゝろあるならたれなりと ひのきしんは、夫婦の心を揃えて行うところに始まり、その姿が周囲の人々に映っていくということ。そして、ひのきしんは利益を目的にするものではなく、あくまで「欲を忘れて」行うものであり、それが陽気ぐらしへ近づく歩みになるということ。 また、ひのきしんは、いついつまでも、どこまでも自ら追い求めて行うことが大切であり、その心意気があるならば、無理に止め立てはしないと仰せられています。 夫婦を台として、人々が心を合わせ、いそいそと一手一つにひのきしんをする姿こそ、陽気ぐらしの縮図であり、各自が胸の掃除を成している姿と言えるでしょう。 (終)

    Fri, 18 Oct 2024
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